1945年4月6日、徳山沖。翌日に沖縄への海上特攻(天一号作戦)を控えた作戦会議で、駆逐艦「朝霜」艦長・杉原輿四郎少佐は、上級司令部を前にこう反論した。「生死は問題ではないが、戦果の期待できない自殺作戦には反対である。駆逐艦1隻といえども貴重な存在であり、国家は誰が護るのか、国民は誰が保護するのか、無為で死んではたまらない」。この意見が作戦を覆すことはなかった。翌日、朝霜は第二十一駆逐隊司令駆逐艦として、戦艦「大和」と共に徳山を出撃する。
夕雲型16番艦として1943年11月、わずか310日という夕雲型最短記録で竣工した「朝霜」は、パラワン水道での重巡「愛宕」生存者救助、マニラ空襲での損傷、多号作戦での僚艦「浜波」生存者救助、礼号作戦での生還と、太平洋戦争末期の激戦を生き延び続けてきた艦だった。1945年、夕雲型19隻のうち、この時点で生き残っていたのは朝霜ただ1隻。夕雲型最後の生存艦だった。
そして——4月7日午前7時、朝霜は機関故障を起こし、速力12ノットに低下、艦隊から落伍する。護衛の眼が届かなくなったこの艦に、正午過ぎ、米軍機の猛攻が容赦なく降り注いだ。「九〇度方向ニ敵機三〇数機ヲ探知ス」——これが、朝霜が発した最後の報告だった。友軍の誰にも見届けられることなく、朝霜は消息を絶つ。駆逐隊司令・小滝大佐以下、乗員326名全員が還らなかった。
1943年1月21日
1943年11月27日竣工
垂線間長111.0m
52,000馬力
3基6門(対空仰角75度)
九三式酸素魚雷
(初霜・霞)
建造期間310日は型内最短
坊ノ岬沖海戦、乗員326名全員戦死
「朝霜」は1943年1月21日、藤永田造船所で起工した。ちょうど日本陸海軍がガダルカナル島からの撤収準備に忙殺されていた頃である。同造船所はそれまでに夕雲型を5隻建造しており、作業に習熟していたためか、6隻目となる朝霜はわずか310日後の同年11月27日に竣工した。これは夕雲型19隻の中で最も短い建造期間だった。初代艦長は前川二三郎中佐。竣工後は訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属し、1944年1月27日には杉原輿四郎少佐が二代目艦長に着任している。
1944年2月10日、朝霜は僚艦「岸波」「沖波」と共に、第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将、旗艦「能代」)隷下の第三十一駆逐隊に編入された。第三十一駆逐隊は前年11月のセント・ジョージ岬沖海戦で司令・香川清登大佐と「大波」「巻波」を喪失し、「長波」1隻のみが残っていた部隊だった。朝霜たち夕雲型3隻の編入により、隊は「長波」「岸波」「沖波」「朝霜」の4隻で再編される。2月下旬、護衛中の輸送船「崎戸丸」が撃沈される損害を受けながらも、朝霜は米潜水艦「トラウト」を撃沈するという戦果を挙げている。
1944年10月23日、栗田健男中将率いる第一遊撃部隊(栗田艦隊)がパラワン水道を航行中、米潜水艦「ダーター」「デイス」の雷撃を受けた。第二艦隊旗艦であった重巡「愛宕」が沈没し、栗田長官は駆逐艦「岸波」へ移乗する。朝霜は「岸波」と共に愛宕の生存者救助にあたった。同時に被雷した重巡「高雄」は大破し、航行不能に近い状態に陥る。朝霜は僚艦「長波」と共に、高雄の警戒・護衛任務についた。
朝霜は一度、高雄の護衛を離れて栗田艦隊本隊を追いかけようとしたが、この時「大和」に座乗し臨時に第一遊撃部隊の指揮を執っていた宇垣纏司令官から、高雄周辺の警戒任務の続行を改めて命じられ、任務に引き返している。ダーターとデイスは高雄にとどめを刺そうと執拗に追跡を続けていたが、修理を終えた高雄の水上偵察機の哨戒と、朝霜・長波による厳重な警戒により、攻撃の機会を逃し続けた。21時44分、高雄はようやく速力6ノットでの自力航行が可能になる。12時間にもわたり、敵潜水艦が潜む海域を漂流し続けていたことになる。一方、追跡していたダーターは座礁して行動不能となり、乗組員はデイスに移されて放棄された。
10月24日午前、水雷艇「鵯」と特設駆潜艇「御津丸」が合流。長波と鵯は座礁したダーターの調査のため分離し、朝霜と御津丸で高雄の護衛を続けた。その後、長波は被雷した重巡「妙高」の護衛のため離脱し、鵯だけが戻ってくる。10月25日夕刻、高雄護衛部隊はブルネイ湾に帰投した。この時、朝霜には第二艦隊の通信担当部員が乗艦したままだったため、レイテ沖海戦本番では、第二艦隊はやむを得ず戦艦「大和」の通信担当部員で代用せざるを得なかったという。ブルネイ到着後、朝霜の幹部は西村艦隊(第一遊撃部隊第三部隊)を追って出撃しようとしたが、愛宕艦長・荒木伝大佐と高雄艦長・小野田捨次郎大佐の助言を受けて思いとどまっている。この判断により、朝霜はレイテ沖海戦の本戦には参加せずに終わった。
西村艦隊(第一遊撃部隊第三部隊)は、翌10月25日のスリガオ海峡夜戦でほぼ壊滅した。朝霜がもし高雄護衛を離れて西村艦隊に合流していれば、この激戦に巻き込まれていた可能性が高い。つまりどういうことか——朝霜が「レイテ沖海戦不参加」という一見不本意な結果に終わったことが、結果としてこの艦のその後の艦歴を支えることになった。
1944年11月5日、米空母機動部隊艦載機がマニラ湾周辺の日本軍に対し大規模な空襲を敢行した。この空襲で第五艦隊(第二遊撃部隊)旗艦「那智」が沈没し、救援に向かった駆逐艦「曙」も大破。朝霜と僚艦「沖波」も損傷を受け、作戦への参加が一時不可能になった。この時、朝霜では砲術長・安藤文彦大尉以下9名が戦死、26名が重傷を負う被害を受けている。損傷した朝霜の代わりに、多号作戦第四次輸送部隊には同じ夕雲型の「秋霜」(第2駆逐隊)が編入されることになった。
11月11日、フィリピン・オルモック湾への第三次多号作戦において、二水戦旗艦「島風」や駆逐艦「若月」などが相次いで沈没する激戦となった。この中で朝霜は、姉妹艦「浜波」(第32駆逐隊)の生存者を救助して戦場を離脱している。11月15日、朝霜は第31駆逐隊から第2駆逐隊(早霜・秋霜・清霜)へ転籍することになった。この人事異動の際、当時朝霜に座乗していた第31駆逐隊司令・福岡大佐は、僚艦「岸波」へ移乗する時間がなく、そのまま朝霜に残留したまま任務を続け、11月22日にリンガ泊地へ到着してからようやく岸波へ移った。
1944年12月下旬、朝霜が編入された第2駆逐隊は、ミンドロ島攻撃作戦「礼号作戦」に参加した。24日、木村昌福少将率いる部隊はカムラン湾を出撃。欺瞞航路を進んだが25日早朝には哨戒中の米潜水艦に発見され、26日夕刻には哨戒機にも発見される。少数のB-25とP-38が接近するも、この時は攻撃せずに離れていった。20時前、魚雷艇らしき影を発見。20時30分、サンタクルーズ沖に到着した部隊はミンドロ島陸岸沿いに南下を開始し、サンホセを目指す。20時45分、ついに米陸軍機B-25が低空侵入し、朝霜に対して爆撃を仕掛けてきた。朝霜はこれを回避したが至近弾を受ける。以後、米軍機は夜間爆撃を繰り返し試みるようになった。この空襲の中、僚艦「清霜」が対空射撃で応戦したものの、最終的に清霜は被弾・炎上し戦没する。しかし朝霜自身は、この作戦を生き延びた。
1945年1月、朝霜はシンガポール方面への輸送船団護衛(ヒ87船団)に従事した後、2月には北号作戦に参加。駆逐艦「霞」「初霜」と共に、航空戦艦「伊勢」「日向」、軽巡「大淀」を護衛し、貴重な戦略物資を積んで日本本土へ帰還を果たす。2月10日、朝霜は正式に第二十一駆逐隊へ編入された。3月10日には、駆逐艦「時雨」の除籍に伴い「霞」も第二十一駆逐隊に加わり、朝霜・霞・初霜という編制が確定する。この時点で、夕雲型19隻のうち生き残っているのは、朝霜ただ1隻だけだった。
1945年4月6日、沖縄への海上特攻「天一号作戦」を翌日に控えた作戦会議で、朝霜艦長・杉原輿四郎少佐は上級司令部に対しこう異議を唱えた。「生死は問題ではないが戦果の期待できない自殺作戦には反対である。駆逐艦1隻といえども貴重な存在であり、国家は誰が護るのか、国民は誰が保護するのか、無為で死んではたまらない」。この意見具申が作戦の方針を変えることはなかった。同日15時30分、第二十一駆逐隊(朝霜・初霜・霞)は、第一航空戦隊(戦艦「大和」)、第二水雷戦隊旗艦「矢矧」(司令官古村啓蔵少将)、第十七駆逐隊(磯風・雪風・浜風)、第四十一駆逐隊(冬月・涼月)と共に徳山を出撃した。
出撃直後の17時26分頃、駆逐艦「響」が周防灘で触雷し艦隊から離脱する事態が発生。朝霜はこの「響」を曳航して呉へ向かったが、響が自力航行可能になったため曳航を中止し、艦隊本隊に合流した。4月7日午前6時、艦隊は大隅半島を通過して外洋へ出て、沖縄本島を目指す。大和は搭載する零式水上偵察機を発進させた。艦隊は大和を中心に、その周囲1,500メートルに矢矧と8隻の駆逐艦が輪形陣を敷き、速力20ノットで進撃を続けていた。
朝霜が起こした機関故障の原因について、朝霜側では呉海軍工廠における減速機の修理に問題があったと判断していたが、第二水雷戦隊司令部はクラッチの故障が原因と推定していた。いずれにせよ、この故障によって艦隊から切り離されたことが、朝霜の運命を決定づけた。輪形陣に守られていれば得られたはずの相互支援を失った朝霜は、単艦で敵機約30機以上に立ち向かわざるを得ない状況に置かれた。つまりどういうことか——僚艦たちが大和と共に死闘を繰り広げていたまさにその時、朝霜は誰の目にも触れることなく、たった一隻で戦い、そして消えていった。
朝霜の本質は、太平洋戦争末期の絶望的な戦局の中で、最後まで冷静な判断力を失わなかった艦だったという点にある。パラワン水道での高雄護衛任務への忠実な遂行、その結果としてのレイテ沖海戦不参加という「幸運」、マニラ空襲・多号作戦・礼号作戦という度重なる激戦を生き延びた粘り強さ——朝霜は、夕雲型19隻の中で最も長く戦い続けた艦としての実績を、確かに積み重ねていた。
しかし、その朝霜をもってしても、坊ノ岬沖海戦という絶望的な作戦の結末を変えることはできなかった。杉原艦長が出撃前夜に示した「無為で死んではたまらない」という言葉は、単なる敗北主義ではなく、駆逐艦という限られた戦力を最も有効に活かそうとする、指揮官としての切実な訴えだった。その訴えが届かなかった末に、朝霜は機関故障という偶然によって艦隊から切り離され、誰にも見られることなく消えていった。この最期は、個々の艦や乗員の努力だけでは、もはや覆しようのない戦局の重さを物語っている。
朝霜が残したものは何か。それは、夕雲型19隻という「理想の駆逐艦」の物語を締めくくる、最後の1ページである。艦隊決戦のために設計されながら、艦隊決戦を経験することなく散っていった19隻——その最後の証人となった朝霜もまた、大和と運命を共にしながら、その最期を誰にも見届けられなかった。猫工艦は、最後まで冷静であり続け、そして声を上げた朝霜の艦長と乗員326名に、深い敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書56『海軍捷号作戦(2) フィリピン沖海戦』朝雲新聞社、1972年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)朝霜関連公文書・第二十一駆逐隊戦時日誌戦闘詳報
- ・朝霜会『鎮魂・駆逐艦朝霜』(遺族会発行冊子)
- ・矢花冨佐勝『駆逐艦勤務 日本海軍兵士の艦上での日常』新風社、2007年
- ・阿部三郎『特攻大和艦隊』光人社NF文庫、2005年
- ・岸見勇美『地獄の海 レイテ多号作戦の悲劇』
- ・吉田満、原勝洋『ドキュメント戦艦大和』文春文庫、1986年(原著1975年)
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・Wikipedia「朝霜 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「坊ノ岬沖海戦」「初霜 (初春型駆逐艦)」