1943年10月6日夜、ブーゲンビル島南方海域からベララベラ島近海へ向かっていた第10駆逐隊は、フランク・R・ウォーカー大佐率いる米第42駆逐群の先制攻撃を受けた。隊列の四番艦として航行していた「夕雲」は、いち早く砲雷撃を開始し敵の陣形を崩す戦果を挙げるが、同時に集中砲火を一身に浴びて炎上する。21時5分、魚雷が命中。21時10分、夕雲は沈没した。艦長・大迫東中佐以下241名が艦と運命を共にした——夕雲型駆逐艦19隻、その型名艦の最期である。
「夕雲」は夕雲型駆逐艦1番艦として、舞鶴海軍工廠で1940年6月に起工され、1941年12月5日、開戦のわずか3日前に竣工した。夕雲型19隻の中で唯一、太平洋戦争開戦前に竣工した艦である。陽炎型の速力不足を解消すべく船体を延長した改良型として設計され、南雲機動部隊の直衛としてミッドウェー海戦・第二次ソロモン海戦・南太平洋海戦を戦い抜き、ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)、キスカ島撤退作戦、そしてニュージョージア諸島の攻防と、太平洋戦争のほぼ全期間を最前線で戦い続けた。
そして——夕雲の艦歴で最も語り継がれるべきは、その最期の戦闘そのものではないかもしれない。ケ号作戦で触雷し航行不能となった僚艦「巻雲」の乗員を、危険を顧みず全員収容した上で、自らの手で雷撃処分したこと。そして夕雲が沈んだ夜、生き残った乗員の一部が敵の内火艇を奪って1日半にわたる漂流の末に生還したという、太平洋戦争でも稀有な生還劇——この記事では、夕雲型の型名艦が歩んだ2年足らずの艦歴と、その最期の夜に生まれた「もうひとつの物語」を辿る。
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1939年(昭和14年)、日本海軍は昭和十四年度海軍軍備充実計画(④計画)を策定し、駆逐艦(甲)18隻分の予算を成立させた。当初これらは陽炎型として建造される予定だったが、試験運転で陽炎型が計画速力35ノットに届かないという問題が発覚する。船体形状に原因があると推測され、艦尾を延長した改良型を第116号艦——後の「夕雲」——から建造することになった。これが夕雲型の始まりである。
「夕雲」は1940年6月12日、舞鶴海軍工廠にて起工。1941年2月5日に正式に「夕雲」と命名され、3月16日に進水した。7月1日、駆逐艦「栂」「磯波」「浦波」の艦長を歴任した仙波繁雄中佐が艤装員長に補職され、10月16日に初代駆逐艦長となる。12月5日、竣工。太平洋戦争開戦のわずか3日前だった。夕雲型19隻の中で戦前に竣工していたのは、この「夕雲」ただ1隻のみである。竣工直後は横須賀鎮守府部隊の警備駆逐艦として、東京湾外・伊豆諸島方面での対潜哨戒に従事する地味な日々を送った。
1942年3月14日、僚艦「巻雲」が竣工すると同日、夕雲・巻雲の2隻で第十駆逐隊が編成される。3月28日に「風雲」、4月15日に「秋雲」が加わり、夕雲型としては初めて定数4隻の駆逐隊が完成した。第十戦隊(旗艦「長良」)に編入された第十駆逐隊は、南雲機動部隊の直衛という重責を担うことになる。
1943年10月、ソロモン諸島の戦況はニュージョージア島から次の焦点、コロンバンガラ島・ベララベラ島へと移っていた。9月28日夜と10月2日夜、第10駆逐隊は夜襲部隊としてコロンバンガラ島撤退作戦(セ号作戦)に参加し、いずれも敵と遭遇することなく成功させていた。だが、続くベララベラ島からの撤退作戦は、事前に警戒網が敷かれていることが明らかな、より困難な任務になることが予想された。
10月6日未明、夕雲はラバウルを出撃し、ブーゲンビル島南方海域で欺瞞航路を取った後、ベララベラ島近海へ向かった。第三水雷戦隊司令官・伊集院松治大佐は、夜襲隊(秋雲〈旗艦〉・風雲・夕雲・磯風・時雨・五月雨)と輸送隊(文月・夕凪・松風ほか)を率いてアメリカ第42駆逐群と交戦する。夕雲は隊列の四番艦として航行していたが、敵の先制攻撃にいち早く応戦し、20時56分に魚雷発射と同時に砲撃を開始した——秋雲・風雲より1分早い反撃だった。
夕雲が戦隊の中で最初に反撃を開始したことは、敵の位置を暴き僚艦の反撃態勢を整える時間を稼いだ一方で、自らの発砲炎が敵に位置を特定される結果を招いた。つまりどういうことか——先陣を切ることは戦果に直結すると同時に、最も危険な役割を引き受けることと表裏一体だった。
1943年2月1日、ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)の第一次作戦。第十駆逐隊はエスペランス岬へ接近する輸送任務にあたっていた。その途上、僚艦「巻雲」が触雷し航行不能に陥る。ガダルカナル島周辺の海域は、いつ敵の攻撃を受けてもおかしくない危険な戦場だった。この状況で、夕雲に課せられたのは二つの相反する任務——一刻も早く撤退作戦を完遂することと、動けなくなった僚艦の乗員を見捨てないこと——だった。
夕雲は「巻雲」に接近し、全乗員を収容した。そして、これ以上曳航や修理を試みる時間的余裕がないと判断すると、自らの魚雷で「巻雲」を処分することを決断する。僚艦を沈める——それは決して喜んで下せる決断ではない。しかし、擱座したまま放置すれば敵の手に渡りかねず、また乗員を収容し終えた以上、燃える標的として戦場に留め続けることもまた危険だった。夕雲は「巻雲」を看取り、生き残った乗員全員を伴って撤退作戦を続けた。
日本海軍において、動けなくなった僚艦を魚雷で処分するという行為は、しばしば「見捨てた」のではなく「最後まで責任を負った」証として語られる。つまりどういうことか——夕雲がこの夜下した決断は、乗員を一人も見捨てず、なおかつ艦を敵に渡さないという、駆逐艦乗りとしての最後の矜持だった。
夕雲が沈没した第二次ベララベラ海戦の夜、海には多くの生存者が投げ出されていた。戦闘中に僚艦「風雲」が何名かを救助し、さらに米軍の魚雷艇によって78名が救助された。だが、この救助には暗い挿話も残されている。36名が収容された魚雷艇「PT-163」では、日本兵の一人が飲料水を求めた際に見張りの機関短銃を奪い取り、水を渡そうとした米兵レイモンド・アルバート二等水兵を射殺するという事件が発生。応戦した別の見張りによってその日本兵は射殺された。
一方、投降を拒み続けた一群もいた。夕雲機関長・北条大尉以下の乗員は、同じく撃沈された米駆逐艦「シャヴァリア」のものと思われる無人の内火艇を発見し、これを分捕った。米軍の魚雷艇が現れ乗り移るよう指示したが、彼らは猛烈な拒否行動でこれに応じなかった。魚雷艇はやがて食糧と飲料水をボートへ分け与えると、反転して去っていった——この時の様子を、現場に居合わせた第一輸送隊隊長・種子島洋二は、死闘の続くソロモン海で「はじめて聞いたすがすがしい話」と書き残している。
「死闘の続くソロモン海で、はじめて聞いたすがすがしい話だった」
——種子島洋二・第一輸送隊隊長、『ソロモン海「セ」号作戦』より
第八艦隊司令長官・鮫島具重中将は、ブインの桟橋まで自ら赴き、帰還したカッターを出迎えて機関長以下25名の行動を称えたという。夕雲そのものは沈んだが、その乗員たちが見せた投降拒否と生還への執念は、この艦の最期を単なる「戦没」以上の物語にしている。
夕雲の本質は、竣工から沈没までのわずか1年10ヶ月の間に、夕雲型という艦型が背負うことになる運命のすべてを先取りして体現した艦だという点にある。開戦前の竣工、機動部隊直衛としての栄光、鼠輸送・撤退作戦という地味だが過酷な任務、そして最後は水上戦闘で集中砲火を浴びての戦没——この一艦の艦歴は、後に続く18隻がそれぞれの戦場で辿ることになる道筋を、そのまま先に歩んでみせたようなものだった。
しかし、夕雲が残したものは戦闘記録だけではない。触雷した「巻雲」を見捨てず、全乗員を収容してから自らの手で処分したという決断。そして自らが沈んだ夜、生き残った乗員たちが敵の魚雷艇からの投降勧告を拒み、内火艇を奪ってまで生き延びようとした執念。どちらも、勝敗とは無関係な次元で、この艦に関わった人々の意志の強さを物語っている。
夕雲型は最終的に19隻中19隻、生存者ゼロという結末を迎える。その最初の1隻となった夕雲が残したものは何か——それは、艦が沈んでもなお、乗員一人一人の物語は終わらないという事実である。種子島洋二が「すがすがしい」と評した敵味方の一瞬の呼吸、そして北条大尉以下27名がブインに帰り着いたという記録は、夕雲型19隻の全滅という重い結末の中に刻まれた、小さくも確かな灯りだ。猫工艦は、型名艦としてこの艦型の宿命を最初に背負った「夕雲」と、その乗員たちの生還への意志に、深い敬意を表したい。
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僚艦を看取り、生存者は内火艇を奪ってでも生き延びた——夕雲型19隻の意志を、その身に纏え
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書29・96『北東方面海軍作戦/南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)夕雲艤装員関連公文書・第10駆逐隊/第三水雷戦隊戦時日誌
- ・木俣滋郎「16.駆逐艦『夕雲』」『撃沈戦記』光人社NF文庫、2013年
- ・駆逐艦秋雲会編『栄光の駆逐艦 秋雲』1986年
- ・及川幸介「地獄の海に記された『夕雲』奇蹟の生還記」『駆逐艦「神風」電探戦記』光人社、2011年
- ・種子島洋二『ソロモン海「セ」号作戦——コロンバンガラ島奇蹟の撤収』光人社、2003年
- ・志賀博「序章 運命の絆」『魚雷艇の二人』光人社、1987年
- ・Wikipedia「夕雲 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「第二次ベララベラ海戦」