1942年8月25日午前8時27分、ガダルカナル島沖。輸送船「金龍丸」の乗員を収容し終え、みずから雷撃処分したばかりの駆逐艦「睦月」に、米軍のB-17爆撃機3機が襲いかかった。後部機械室に命中弾1発。火災が発生し、午前9時40分、「睦月」は沈没した。仲間を救ったわずか30分ほど後、自らも海に消えていったのである。
「睦月」は睦月型駆逐艦の1番艦として、佐世保海軍工廠で1924年5月21日に起工、1925年7月23日に進水、1926年3月25日に竣工した。「日本駆逐艦として初めて61cm魚雷を搭載した」という技術的な里程標を打ち立てながらも、太平洋戦争開戦時にはすでに就役から15年以上が経つ「旧式艦」だった。それでも「睦月」は開戦劈頭のウェーク島攻略戦から、ガダルカナルでの最期まで、太平洋の最前線を戦い抜いた。
そして「睦月」の艦歴には、竣工から10年目に起きた、ある一人の水兵の名前が刻まれている。1935年の演習中、艦橋が破壊され航海長が死亡するという大事故に見舞われながら、たった一人の水兵が舵輪にしがみつき、艦を沈没の淵から救ったのだ。この名もなき勇気の記録が、後に「睦月」という艦の物語全体を貫く通奏低音になる。
→改修後1,445t
竣工した「睦月」は佐世保鎮守府に所属し、僚艦「如月」と第三十駆逐隊を編成した。1928年8月1日、それまで「第十九号駆逐艦」という番号名だった艦は、正式に「睦月」と改名される。1930年11月には昭和天皇の御召艦「霧島」の供奉艦を務めるなど、平時の花形任務もこなした。だが「睦月」の艦歴で最も語り継がれるべき出来事は、1935年9月26日から27日にかけての演習中に起きた。
悪天候の中で発生した「第四艦隊事件」——大波を受けて艦橋が破壊され、航海長が死亡するという大惨事だった。艦の制御が一時不能になる中、名も知られる一人の水兵・上妻一水が、舵輪にしがみつき応急操舵を続けた。この一人の水兵の踏ん張りによって、「睦月」は沈没を免れたのである。後の修理で艦橋の設計は変更され、睦月型全体の艦影にも影響を与えた。1937年からは支那事変に伴い中支・南支方面に進出、実戦経験を積んでいく。
1941年12月8日、太平洋戦争開戦。「睦月」は「如月」「弥生」「望月」とともに第30駆逐隊(安武史郎大佐)を編成し、中部太平洋方面を担う第四艦隊隷下の第六水雷戦隊に所属していた。開戦と同時に発動されたウェーク島攻略作戦に参加し、クェゼリン環礁を出撃する。だが12月11日、島の守備隊の砲撃を受け、駆逐艦「疾風」が撃沈、撤退中の空襲で「如月」も沈没した。これが睦月型19隻の中で最初の喪失艦となる。
「睦月」は「如月」の喪失を目の当たりにしながらも、12月21日からの空母「蒼龍」「飛龍」を主力とする第二次攻略作戦に加わり、24日までにウェーク島を占領した。以後、第30駆逐隊はラバウル・ブーゲンビル島・ポートモレスビーの各攻略作戦に転戦する。1942年5月7-8日の珊瑚海海戦にもポートモレスビー攻略部隊として参加したが、空母「祥鳳」の喪失により作戦は中止され、「睦月」はラバウルまで輸送船団を護衛した後、ショートランド泊地へ移動した。
睦月型の型名艦である「睦月」が、開戦からわずか3日で僚艦「如月」の喪失を目撃したという事実は象徴的だ。つまりこの艦型にとって「戦没」は特別な例外ではなく、開戦劈頭から織り込まれていた宿命だった——最終的に12隻全てが沈むことになるこの艦型の物語は、ここから始まっていた。
時をさかのぼる1935年9月26日から27日、演習中の「睦月」は猛烈な荒天に見舞われた。巨大な波が艦橋を直撃し、艦橋は破壊され、航海長が死亡する。操舵室の機能も一時的に失われ、「睦月」は制御不能に陥りかけた。この時、名前だけが記録に残る一人の水兵——上妻一水——が、舵輪にしがみつき、力ずくで応急操舵を続けた。
一人の下士官・兵の踏ん張りが、艦全体の運命を左右した。「睦月」はこの荒天を乗り切り、沈没を免れる。この事件は「第四艦隊事件」として海軍全体の艦艇設計を揺るがす大問題に発展し、「睦月」自身も修理の際に艦橋の設計が変更された。派手な戦闘ではなく、荒れ狂う海と一人の人間の意志との戦い——これもまた、「睦月」というレディーが刻んだ、忘れられるべきではない一頁だった。
上妻一水という一人の水兵の名前は、公式の戦史には大きく取り上げられないかもしれない。だがその踏ん張りがなければ、「睦月」はこの1935年の夜に、太平洋戦争を待たずして海に消えていた可能性がある。つまり、一隻の艦の生涯は、艦長や提督だけでなく、名もなき乗組員一人ひとりの手に支えられている。
1942年8月24日、第二次ソロモン海戦。「睦月」は「弥生」「磯風」「陽炎」「江風」とともにガダルカナル島に向かい、午後10時から約10分間、ヘンダーソン飛行場を砲撃した。翌25日午前0時頃、米軍F4F戦闘機の機銃掃射を受け乗員3名が負傷するが、艦は健在だった。午前5時40分、輸送船「ぼすとん丸」「大福丸」「金龍丸」と、護衛の軽巡「神通」らと合流する。だが直後の午前6時5分、ヘンダーソン飛行場から発進したSBDドーントレス急降下爆撃機8機が奇襲、「神通」と「金龍丸」が被弾・炎上した。
戦闘不能となった「神通」は僚艦とともに離脱、「睦月」と「弥生」は炎上する「金龍丸」の救援にあたった。乗員を「弥生」と哨戒艇1号・2号に収容した後、「睦月」は自らの手で「金龍丸」を雷撃処分した。味方の船を、自らの魚雷で沈めるという苦渋の任務——それは駆逐艦にとって、救助と同じくらい重い責務だった。
そしてその直後、午前8時27分、「睦月」自身が米軍のB-17爆撃機3機の攻撃を受ける。後部機械室に爆弾1発が命中し、火災が発生。午前9時40分、「睦月」は沈没した。戦死者40名、負傷者11名。生存者は全員、僚艦「弥生」に収容された。仲間の船を救い、そして自らの手で処分し、そのわずか30分ほど後に自身も海に消える——「睦月」の最期は、駆逐艦という艦種が背負う「救う」と「失う」の両方を、一つの朝に凝縮したような結末だった。
「風に向かって艦を立てただけです」
1935年の第四艦隊事件で艦を救った上妻一水の、後年の控えめな述懐と伝わる
——吉田俊雄『海軍人間語録』より
「睦月」の本質は、艦型全体の「型名艦」でありながら、その物語の核心が艦長でも提督でもなく、名もなき一人の水兵の踏ん張りに支えられていたという一点にある。1935年の荒天下、舵輪にしがみついた上妻一水がいなければ、「睦月」は太平洋戦争を待たずして海に消えていた。この事実は、軍艦という巨大な機構が、実は無数の個人の小さな決断の積み重ねで成り立っていることを静かに物語る。
しかし「睦月」の物語は美談だけでは終わらない。開戦からわずか3日で僚艦「如月」の喪失を目撃し、自らも1942年8月25日、輸送船を救助・処分した直後にあっけなく撃沈された。「日本初の61cm魚雷」という技術的な誇りを持ちながら、竣工から15年を経た「旧式艦」として最前線に投入され続けたという現実は、艦艇の設計思想がいかに早く時代遅れになりうるかを物語っている。
それでも「睦月」が残したものは確かにある。荒天を乗り切った一人の水兵の名前と、金龍丸乗員を救ったのちに自らも消えていったという記録だ。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに戦争の実相——名もなき人々の勇気と、あっけなく訪れる終わりの両方——を静かに教えてくれる。猫工艦は、睦月型の型名艦として、そして上妻一水という名もなき勇者を含めた全乗組員に、深い敬意を捧げたい。
⚓ 猫工艦ミリタリーグッズはこちら
一水兵の勇気が救った艦、そして金龍丸を救って散った睦月型の型名艦——「睦月」の記録を、その身に纏え
「風に向かって艦を立てただけです——名もなき水兵が守った駆逐艦」
SHOP を見る →▼ 関連記事
■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第六水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報・第2水雷戦隊戦時日誌・外南洋部隊増援部隊戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書49巻『南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』、戦史叢書62巻関連巻
- ・木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編』光人社NF文庫、1995年
- ・吉田俊雄『海軍人間語録 現代に生きる海軍式言行録』光人社、1985年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・田村俊夫『睦月型駆逐艦』歴史群像太平洋戦史シリーズ、学研
- ・Wikipedia「睦月 (駆逐艦)」「睦月型駆逐艦」「第二次ソロモン海戦」「第四艦隊事件」
- → 如月——ウェーク島で目撃した、睦月型最初の喪失艦の全記録
- → 弥生——睦月の生存者を救い、駆逐隊司令艦となった同型艦の全記録
- → 皐月——クラ湾夜戦を戦い、片脚を失っても指揮を続けた艦長を戴いた同型艦
- → 水無月——メレヨン島へ3,200名を送り届けた同型艦の全記録