1943年10月24日午前0時20分、ニューブリテン島ジャキノット湾。陸戦隊約100名を揚陸中だった駆逐艦「望月」に、米軍機が襲いかかった。被弾した「望月」は、そのまま沈没した。戦死者10名。ともに揚陸作業にあたっていた僚艦「卯月」は、揚陸そのものを断念し、「望月」の生存者を収容してラバウルへ引き返した。
「望月」は睦月型駆逐艦の11番艦として、浦賀船渠で建造され、1927年10月31日に竣工した。「睦月」「如月」「弥生」とともに第30駆逐隊を編成し、ウェーク島攻略戦、ガダルカナル島攻防戦、そして幾多のソロモン諸島輸送作戦——16年に満たない艦歴の中で、「望月」は太平洋戦争のほぼ全期間にわたって最前線に立ち続けた。
そして「望月」の艦歴で最も語り継がれるべき出来事は、戦闘そのものではなく、仲間を救うために2度も出撃した、その献身にある。第三次ソロモン海戦では沈没した輸送船から1,012名を救助し、9月には駆逐艦「磯風」とともに、ノーマンビー島に取り残された「弥生」の乗組員83名を救出した。「望月」の物語は、戦うことと同じくらい、救うことに費やされた艦歴だった。
→改修後1,445t
竣工した「望月」は佐世保鎮守府に所属し、1937年からの支那事変では中支・南支方面に進出した。太平洋戦争開戦時には「睦月」「如月」「弥生」とともに第30駆逐隊を編成し、南洋部隊第六水雷戦隊に所属。開戦直後のウェーク島攻略戦では、僚艦「疾風」「如月」が失われる中、「望月」自身に被害はなかった。第二次攻略作戦にも参加し、ウェーク島は12月下旬に占領される。その後は第六水雷戦隊とともにラバウル・ラエ・サラモア・ブーゲンビル島の各攻略作戦、珊瑚海海戦ではポートモレスビー攻略部隊として参加した。
1942年5月25日、「卯月」が第30駆逐隊に編入される。8月24-25日の第二次ソロモン海戦では、沈没した空母「龍驤」の艦載機で不時着した搭乗員の救助を行った。この頃の「望月」は、まだ戦闘の主役というより、傷ついた仲間を支える役回りに近かった。だがこの経験は、後の艦歴を貫く重要なテーマの始まりでもあった。
1942年9月11日、ニューギニア島ミルン湾で僚艦「弥生」が空襲を受け沈没した。「望月」は駆逐艦「磯風」とともに、この乗員救助活動に従事することになる。9月21日夜、「磯風」「望月」はラバウルを出撃し、22日、「弥生」の連絡員とみられるカッターボート10名を収容した。だがこの日の本格的な捜索は天候不良のため延期され、生存者との接触は果たせなかった。
そして9月25日午後9時、「磯風」「望月」は再びラバウルを出撃する。この作戦でついに、艦長・梶本顗少佐以下83名の救出を成し遂げた。帰途、同じ海域で気象観測船「恭洋丸」の乗員捜索も行ったが、こちらは手がかりを得られなかった。27日午後5時、「磯風」「望月」はラバウルへ帰着する。仲間を探し、見つけ、そして見つけられない相手もいる——この一連の作戦は、駆逐艦にとっての「救助」という任務の、光と影の両方を映し出していた。
「望月」はこの作戦で「弥生」の83名を救い出す一方、同じ海域で気象観測船の乗員を見つけることはできなかった。同じ艦の、同じ数日の航海の中に、救助の成功と失敗が同居していた。これは駆逐艦の任務が抱える、避けがたい現実だった。
1942年11月中旬、「望月」は第三次ソロモン海戦において輸送船団護衛艦として参加した。増援部隊駆逐艦とともに輸送船団11隻を護衛してガダルカナル島へ向かっていたところ、空母「エンタープライズ」艦載機、ヘンダーソン基地航空隊、そしてB-17重爆撃機の反復攻撃を受ける。輸送船の多くが被弾・炎上する中、「望月」は沈没船から実に1,012名もの将兵を救助した。
救助を終えた「望月」は、被弾した輸送船「佐渡丸」を僚艦「天霧」とともに護衛し、ショートランド泊地へと戻った。第三次ソロモン海戦は日本軍の敗北に終わり、ガダルカナル島の戦局は一挙に悪化することになる。それでも「望月」がこの一夜で救った1,012名という数字は、この艦がどれほど多くの命をつなぎとめたかを、何よりも雄弁に物語っている。海戦後、「望月」は損傷した軽巡「五十鈴」を護衛してトラック泊地へ向かった。
睦月型の定員はおよそ150名前後。その艦が1,012名を救助したという事実は、艦内がどれほど過酷な状態になったかを想像させる。それでも「望月」はこの重責を全うし、僚艦とともに傷ついた輸送船を守り抜いた。
第三次ソロモン海戦後も「望月」の任務は途切れなかった。1943年1月、ムンダ・レカタへの輸送、13日にはレカタ湾外の暗礁で座礁するも翌日離礁。3月からはラバウル方面で再び輸送任務に従事し、7月5-6日のクラ湾夜戦では大発動艇の曳索をスクリューに巻き込む事故で僚艦から遅れ、単艦で帰投する途中、米艦隊から砲撃を受け小破した。それでも魚雷1本を発射して戦場を離脱している。
1943年10月23日、ニューブリテン島ジャキノットへの米軍上陸情報を受け、南東方面艦隊は「望月」と「卯月」に陸戦隊約100名の輸送を命じた。2隻は午後4時15分にラバウルを出撃する。翌24日午前0時20分、ジャキノットで揚陸作業中の「望月」は空襲を受け、被弾して沈没した。戦死者10名。「卯月」は揚陸を断念し、「望月」の乗員を収容してラバウルへ戻った。かつて「弥生」の生存者を救った「望月」自身が、今度は僚艦「卯月」に救われる番だった。1944年1月5日、「望月」は帝国駆逐艦籍から除籍された。艦名は、後年、海上自衛隊の護衛艦「もちづき」に継承されている。
「望月」の本質は、戦闘艦である以前に「救う艦」であり続けたという一点にある。「弥生」の83名、そして第三次ソロモン海戦での1,012名——「望月」がその艦歴を通じて救い出した命の数は、睦月型19隻の中でも際立っている。仲間を見捨てないという駆逐艦の精神を、これほど繰り返し体現した艦は他に少ない。
しかし「望月」の物語は美談だけでは終わらない。気象観測船の乗員を発見できなかったという事実、そして最後は自らが揚陸中に沈められ、僚艦「卯月」に救われる側になったという事実は、駆逐艦にとって「救う」と「救われる」が常に隣り合わせだったことを物語っている。1,012名を救った艦もまた、最後には10名の戦死者を出して海に消えていった。
それでも「望月」が残したものは確かにある。数えきれない命をつないだという記録と、その名を継いだ海上自衛隊の護衛艦「もちづき」という存在だ。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに「救うこと」の重みと尊さを、静かに教えてくれる。猫工艦は、「望月」と、その手で救われたすべての人々に、深い敬意を捧げたい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第六水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報・第四水雷戦隊戦時日誌・第八艦隊戦時日誌・第三水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書49『南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』、戦史叢書83『南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』、戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』関連巻
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編』光人社NF文庫、1995年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・Wikipedia「望月 (駆逐艦)」「睦月型駆逐艦」「第三次ソロモン海戦」「クラ湾夜戦」
- → 卯月——望月の生存者を収容し、睦月型を最後まで見届けた同型艦