1944年10月26日、ミンドロ島南方の海。艦首と二番煙突を吹き飛ばされ、浸水を食い止めるためにセミララ島の浅瀬へ自ら乗り上げた駆逐艦「早霜」の艦上から、乗員たちは奇妙な光景を目撃することになる。救援に駆けつけた僚艦「藤波」が、そして翌日には「不知火」が、いずれも「早霜」の目の前で米軍機の空襲を受けて轟沈していったのだ。助けに来た艦が、助けられる側の眼前で次々と海に消えていく——それは、もはや戦闘というより、死そのものが伝染していくような光景だった。
「早霜」は夕雲型駆逐艦の17番艦として、舞鶴海軍工廠で1943年1月20日に起工、同年10月20日に進水、1944年2月20日に竣工した。姉妹艦「秋霜」「清霜」とともに第2駆逐隊を編成し、竣工から半年余りの間に、僚艦の轟沈を目の前で見届け、僚艦の救助に何度も加わり、そして自らも僚艦2隻を「道連れ」にするかのように失わせてしまう——夕雲型19隻の中でも、最も重く、最も理不尽な巡り合わせを背負った艦だった。
そして「早霜」自身の最期は、今もはっきりとはわかっていない。座礁した艦に約30数名の乗員を残したまま、戦線は先へ進んでいった。生死不明のまま歴史に刻まれた、静かで、あまりに重い結末である。
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竣工した「早霜」は訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入され、瀬戸内海で訓練を積んだ。甲標的(特殊潜航艇)の訓練協力までこなす多忙な日々の中、3月中旬からは空母「龍鳳」の護衛、続いて空母「大鳳」の護衛にもあたった。4月2日、艦長は荒井靖夫中佐から平山敏夫少佐へ交代する。平山少佐は姉妹艦「秋霜」の艦長を務めていた人物で、以後「早霜」を率いることになった。4月21日には戦艦「大和」を臨時に護衛する任務も務めている——竣工からわずか2ヶ月で、この艦は既に帝国海軍の主力艦を次々と護衛する重責を担わされていた。
5月10日、「早霜」は「秋霜」「響」「電」と共に機動部隊に編入され、戦艦「武蔵」や空母6隻を護衛してタウイタウイ泊地へ進出する。だがこの泊地は米潜水艦の頻出海域であり、日本側の駆逐艦がむしろ複数隻を喪失する危険な場所だった。6月9日、対潜掃討中の僚艦「谷風」が米潜水艦「ハーダー」の雷撃を受け、「磯風」「早霜」「島風」の眼前で轟沈する。残された3隻は「沖波」と共に「谷風」の生存者を救助した。この時「早霜」が目撃した「僚艦が眼前で轟沈する」という光景は、4ヶ月後、より過酷な形で自らに降りかかることになる。
1944年10月24日、シブヤン海。栗田艦隊は米軍機動部隊艦載機の波状攻撃を受けた。この日、第2駆逐隊は「秋霜」が若干の損傷、僚艦「清霜」も損傷を負う。「早霜」は損傷した「浜風」とともに、戦艦「武蔵」の護衛のために栗田艦隊主隊から分離する。翌25日朝、栗田艦隊はサマール沖で米護衛空母部隊を追撃するが、二水戦の戦果は乏しかった。その日の夕刻、「早霜」は爆撃を受けて損傷する。
栗田長官は当初、「早霜」単艦でのコロン湾回航を命じた。だが単艦での航行はあまりに危険と判断され、続いて「秋霜」に「早霜」掩護が下令される。「秋霜」は栗田艦隊主隊から分離反転して「早霜」に合流した。応急修理により「早霜」も自力航行が可能になったため、2隻だけでサンベルナルジノ海峡を突破し、栗田艦隊本隊を追いかけた。10月26日午前7時50分、両艦はようやく栗田艦隊本隊を発見する。だがここで、第2駆逐隊司令・白石長義大佐(「早霜」座乗)の命令により、「秋霜」は「早霜」の護衛を一旦解かれた——それから15分後、対空戦闘が始まった。
「秋霜」が護衛を解かれてから対空戦闘が始まるまでの時間は、わずか15分だった。もしこの命令がなければ、「早霜」の運命——そして「秋霜」自身の運命——はまったく違うものになっていたかもしれない。つまりこの15分間の判断は、生死を分ける分水嶺だった。
対空戦闘の後、9時過ぎに「秋霜」は再び「早霜」のそばに戻ってきた。しかしその直後、二水戦旗艦の軽巡「能代」が空襲で沈没する。「秋霜」は「早霜」と分離し、「浜波」と共同で「能代」の乗組員救助に向かった。取り残された「早霜」は単独でミンドロ島南方を航行中、第38任務部隊の艦載機の攻撃を受ける。艦首部と艦中央部に命中弾を受け、艦首と二番煙突を吹き飛ばされた。沈没を防ぐため、「早霜」はアンティーケ州セミララ島の浅瀬に自ら乗り上げた。
そこへ、重巡「鈴谷」の生存者を収容していて栗田艦隊から遅れていた「沖波」が、擱座した「早霜」を発見して近づいてきた。「早霜」の使用可能燃料はわずか5トン程度しかなく、燃料に海水が混じっていた。「沖波」自身にも燃料の余裕はなかったが、それでも「早霜」に横付けし、補給を開始する。この時、2隻は「藤波」が約10km沖を航行しているのを発見した。だが「藤波」は空襲を受け、「早霜」と「沖波」の目前で轟沈した。「早霜」と「沖波」も空襲を受けたため、「沖波」は横付けを離して回避に転じ、「早霜」を残してコロン湾へ向かった。
「早霜」が座礁していた頃、多号作戦からの帰途に空襲で沈没した軽巡「鬼怒」と駆逐艦「浦波」の救援のため、第一水雷戦隊の駆逐艦「不知火」がコロン湾を出撃していた。「鬼怒」を発見できず帰途についた「不知火」は、10月27日午前9時35分頃、擱座している「早霜」を発見して接近する。しかしその直後、「不知火」はセミララ島西方海域で米軍機動部隊艦載機の空襲を受け、沈没した。「早霜」はその光景を、なすすべもなく目撃することになる。2日連続で、助けに来た艦が自分の目の前で失われていったのである。
11月1日、第二遊撃部隊旗艦の重巡「那智」の水上偵察機が、擱座している「早霜」を発見して着水した。この時、「不知火」の最期の様子が聞き出されている。その後、「早霜」は放棄された。田中大尉以下約30数名が艦に残っていたとされるが、その後どうなったかは定かではない。アメリカ軍によるフィリピン奪回が進んだ後、米海軍の調査班が擱座している「早霜」を調査したというが、残留した乗組員たちの消息は、今も判然としていない。座礁するほどの浅瀬であったため、「早霜」の船体とほぼ同規模の海中構造物が、セミララ島イトガオ湾に今も存在することが衛星写真から確認できるという。12月1日、平山中佐は早霜駆逐艦長の職務を解かれ、1945年1月10日、「早霜」は帝国駆逐艦籍から除籍された。
田中大尉以下約30数名が艦に残っていたという
放棄された「早霜」に残された乗員たちの、その後の消息は今も定かではない
——士官の手記(史実調査部資料)より
「早霜」の本質は、戦闘そのものよりも、戦場という場所がどれほど理不尽に「死」を連鎖させるかを体現した艦だという点にある。僚艦「谷風」の轟沈を目の前で見た経験を持つこの艦が、半年後には自らが座礁し、救援に来た「藤波」「不知火」という2隻の僚艦を、今度は自分の目の前で失うことになった。助けようとした者が、助けられる者の眼前で消えていく——この繰り返しは、単なる不運では説明できない、戦争末期の制空権を失った戦場の残酷さそのものだった。
しかし「早霜」の物語には、もう一つの重みがある。それは、この艦の最期がいまだにはっきりとわかっていないという事実だ。約30数名の乗員を残して部隊は先へ進み、その後の消息は歴史の空白として残された。派手な戦闘記録や劇的な最後の言葉ではなく、「わからない」という結末——それもまた、戦争が人に残す傷の一つの形である。
それでも「早霜」が残したものは確かにある。谷風の生存者を救い、飛鷹の乗員を救い、そして自らが座礁した後も、僚艦たちが命を懸けて助けに来ようとしたという事実だ。セミララ島の浅瀬に今も眠るその船影は、戦後80年近くを経てもなお、衛星写真の中に静かに残り続けている。猫工艦は、記録の少なさゆえに語られることの少ないこの艦の軌跡にも、深い敬意を捧げたい。
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谷風の生存者を救い、飛鷹の乗員を救った艦——「早霜」の記録を、その身に纏え
「助けに来た艦が、目の前で消えていく——それでも早霜は生き延びようとした」
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)駆逐艦秋霜戦闘詳報・第11水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報・第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書56巻『海軍捷号作戦(2) フィリピン沖海戦』、戦史叢書81巻『大本營陸軍部<9>』関連巻
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・岸見勇美『地獄のレイテ輸送作戦』光人社NF文庫、2010年
- ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年
- ・山本平弥ほか『秋月型駆逐艦〈付・夕雲型・島風・丁型〉』潮書房光人社、2015年
- ・Wikipedia「早霜 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「レイテ沖海戦」「マリアナ沖海戦」
- → 清霜——同じ第2駆逐隊の僚艦、武蔵の最期を看取った夕雲型最終艦