1944年6月8日未明、ダバオ湾。米潜水艦「ヘイク」が発射した6本の魚雷のうち2本が、駆逐艦「風雲」の左舷中央部と艦尾に命中した。搭載していた酸素魚雷が誘爆し、わずか4分で轟沈。司令駆逐艦であった風雲には第十駆逐隊司令・赤沢次寿雄大佐も座乗しており、艦と運命を共にした。ミッドウェー海戦から数えて2年余り——第十駆逐隊創設時の4隻(夕雲・巻雲・風雲・秋雲)の中で、風雲は最後まで生き残った1隻だった。
「風雲」は夕雲型駆逐艦3番艦として、浦賀船渠で1940年12月に起工され、1942年3月28日に竣工した。夕雲・巻雲に続いて第十駆逐隊に編入され、南雲機動部隊の直衛としてミッドウェー海戦に参加。以後、ソロモンの死闘、ガダルカナル撤収、キスカ島撤退、そしてフィリピン方面の渾作戦まで、太平洋の全域を駆け回った。
派手な戦果こそ少ないが、風雲は常に艦隊を支え続けた駆逐艦だった。キスカ島撤退作戦では、他艦がすべて陸軍の装備を捨てる中、唯一発動艇と——陸戦隊が飼っていた1匹の狐まで連れ帰るという、心温まる逸話も残している。この記事では、第十駆逐隊で最も長く生き延びた「風雲」の、地味だが確かな艦歴を辿る。
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「風雲」は1940年12月23日、浦賀船渠にて仮称第118号艦として起工された。1941年9月10日に「風雲」と命名され、同日付で夕雲型駆逐艦に類別、9月26日に進水した。艦名「風雲」は、強い風が吹く前兆として現れる雲を意味する。1942年1月20日、吉田正義中佐が艤装員長に任命され、3月28日の竣工と同時に正式な初代駆逐艦長となった。
竣工と同日、風雲は既に「夕雲」「巻雲」で編成されていた第十駆逐隊に編入される。4月13日には阿部俊雄大佐が司令として着任するまでの間、吉田艦長が司令職務を代行した。4月15日、陽炎型「秋雲」が加わり定数4隻が完成。第十戦隊(旗艦「長良」)に所属し、南雲機動部隊の直衛任務に就く。ミッドウェー作戦発動直前、風雲艦橋にあった吉田艦長は「作戦は大失敗だな」と直感したという——輸送船団が敵索敵機に発見されながら、機動部隊司令部が当初の攻撃計画を変更しなかったことへの懸念だった。
1943年10月6日、ベララベラ島撤退作戦。増援部隊指揮官・伊集院松治大佐(「秋雲」座乗)率いる夜襲隊は「秋雲」-「磯風」-「風雲」-「夕雲」の単縦陣で戦闘海域へ向かった。この夜、最初に敵艦隊を発見したのは風雲だったと伝えられる。しかし旗艦「秋雲」上の第三水雷戦隊司令部の判断が遅れ、日本側は米第42駆逐群の先制攻撃を受ける結果となった。
戦闘が始まると、隊列の最後尾にいた「夕雲」が集中砲火を浴びて沈没する。風雲自身も二番砲塔に被弾し、戦死1名・負傷者数名を出して砲は使用不能となった。それでも甲型3隻(秋雲・磯風・風雲)は米駆逐艦「セルフリッジ」「オバノン」に魚雷を発射している(距離が遠く命中せず)。戦闘後、風雲は沈没した夕雲の生存者を救助した——僚艦の乗員の一部は米軍にも救助されたが、風雲もまた、できる限りの救助を行ったのである。
戦場での「発見」は必ずしも「先制」に直結しない。指揮系統の判断速度もまた勝敗を左右する要素である。つまりどういうことか——風雲が最初に敵を捉えていたという事実は、この夜の悲劇が個々の駆逐艦の力不足ではなく、意思決定の一瞬の遅れによってもたらされたことを物語っている。
1943年7月、風雲は第一水雷戦隊司令官・木村昌福少将の指揮下、キスカ島撤退作戦(ケ号作戦第二期)に収容駆逐隊として参加した。濃霧という自然の味方を最大限に利用し、レーダーを装備した新鋭艦「島風」の警戒下で、5,000名を超える守備隊将兵を無傷で収容するという「奇跡の撤退」を成功させる。風雲・夕雲・秋雲はそれぞれ470名前後の将兵を救出した。
この撤退作戦で、多くの艦は収容した陸軍の装備を全て手放していく中、風雲だけは発動艇を回収し、さらに——陸戦隊が飼っていた1匹の狐まで連れ帰ったという。極限の緊張の中で行われた奇跡の撤退作戦のさなか、小さな命を見捨てなかったこの逸話は、風雲という艦の几帳面で誠実な気質を物語っているようにも思える。連れ帰られた狐は、後に上野動物公園に寄贈された。
生死をかけた撤退作戦の最中に、他艦が装備を切り捨てる中で狐を連れ帰る——これは単なる余談ではない。つまりどういうことか——風雲の乗員たちは、危機的状況にあってなお、目の前の小さな命に手を差し伸べる余裕を失っていなかったということだ。
1942年3月、夕雲・巻雲・風雲・秋雲の4隻で編成された第十駆逐隊。1943年2月に巻雲が、同年10月に夕雲が、1944年4月には秋雲までもが次々と失われていく中、風雲だけは2年以上にわたって戦い抜いた。ミッドウェー、ソロモンの死闘、ガダルカナル撤収、キスカ撤退、ラバウル、そしてフィリピン方面の渾作戦——太平洋のほぼ全域を転戦しながら、風雲は創設時の第十駆逐隊で最後まで生き残った1隻となっていた。
1944年6月7日深夜、風雲は「朝雲」と共に戦艦「扶桑」・重巡「妙高」「羽黒」を護衛してダバオを出撃した。ダバオ湾口では米潜水艦「ヘイク」が哨戒しており、翌8日未明、レーダーで湾内を高速移動する目標を探知する。午前2時12分、ヘイクは魚雷6本を発射。うち2本が風雲の左舷中央部と艦尾に命中し、搭載していた酸素魚雷も誘爆した。
2年余りにわたり僚艦を一隻、また一隻と失いながら戦い続けた艦が、最後には自らも同じ運命をたどる。つまりどういうことか——風雲の艦歴は、生き残ることそのものが決して「安全」を意味しない戦場の現実を、静かに、しかし雄弁に物語っている。
風雲の本質は、突出した戦果を挙げることはなくとも、第十駆逐隊の中で最も長く、最も広範囲を転戦し続けた「支え手」だったという点にある。ミッドウェーの空母護衛から、ソロモンの死闘、ガダルカナルとキスカという対照的な2つの撤退作戦、そしてフィリピン方面の渾作戦まで——風雲が担った任務のほとんどは、華々しい勝利ではなく、護衛・輸送・救助という地道な役割だった。
しかし、この地味さこそが風雲の価値である。キスカで狐を連れ帰った几帳面さ、ベララベラで沈む僚艦の生存者を救助した誠実さ——これらは戦果に数字として残ることはないが、艦と乗員の人間性を最もよく表すエピソードだ。一方で、最初に敵を発見しながら指揮系統の遅れで先制を許したという事実は、個艦の努力だけでは戦局を変えられない戦場の非情さも同時に示している。
風雲が残したものは何か——それは、第十駆逐隊創設時の4隻の中で最後まで戦い抜いたという記録そのものである。夕雲、巻雲、秋雲を見送りながら2年以上戦い続け、最後はダバオ湾でわずか4分の間に姿を消した。目立った武勲がなくとも、太平洋を縦横に駆け回り任務を全うし続けたこの艦の生涯に、猫工艦は静かな敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第十駆逐隊戦時日誌・第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『キスカ島撤退作戦』『第二次ベララベラ海戦』『渾作戦』関連巻
- ・岩重多四郎『日本海軍小艦艇ビジュアルガイド 駆逐艦編』大日本絵画、2012年
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・Wikipedia「風雲 (駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「キスカ島撤退作戦」「第二次ベララベラ海戦」