1942年6月5日未明、ミッドウェー沖。大破し漂流する空母「飛龍」の艦上から、退艦してきた副長が駆逐艦「巻雲」に一つの言伝を伝えた——第二航空戦隊司令官・山口多聞少将の命令、「巻雲で飛龍の雷撃処分」。巻雲は雷撃位置に移動し、手旗信号で「これより雷撃す」と伝えると2本の魚雷を発射する。1発目は不発、2発目が炸裂した。遠ざかる飛龍の艦尾に、手を振る人影が見えたという。一時は引き返そうとしたが、要求は受け入れられずそのまま離脱した。
「巻雲」は夕雲型駆逐艦2番艦として、藤永田造船所で1940年12月に起工され、1942年3月14日に竣工した。夕雲型1番艦「夕雲」と共に第十駆逐隊を編成し、南雲機動部隊の直衛としてミッドウェー海戦に初陣を飾る。しかしその初陣で待っていたのは、勝利ではなく、味方空母「飛龍」を自らの手で葬るという、駆逐艦乗りにとって最も重い任務だった。
巻雲の艦歴を語る上で欠かせないのが、この「雷撃処分」という言葉である。ミッドウェーで「飛龍」を、南太平洋海戦では大破漂流する米空母「ホーネット」を処分し、日米双方の空母を魚雷で葬るという世界戦史でも稀有な記録を残した。そして——1943年2月、ガダルカナル島撤収作戦の最中、巻雲自身もまた機雷によって航行不能となり、僚艦「夕雲」の魚雷によって処分されることになる。この記事では、2隻の空母を沈め、そして自らも「処分」された巻雲の、因縁めいた艦歴を辿る。
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「巻雲」は1940年12月23日、藤永田造船所にて仮称第117号艦として起工された。艦名は、敷設艇「澎湖」「鷹島」等と共に1941年8月5日に命名され、同日付で一等夕雲型に登録される。11月5日に進水し、12月20日には藤田勇中佐が艤装員長として着任した。
1942年3月14日、巻雲は竣工。同日、藤田艤装員長がそのまま初代駆逐艦長となり、夕雲型1番艦「夕雲」と共に第十駆逐隊(司令・阿部俊雄大佐)を編成する。3月28日には「風雲」、4月15日には「秋雲」が加わり、夕雲型としては初めて定数4隻の駆逐隊が完成した。第十戦隊(旗艦「長良」)に編入された第十駆逐隊は、南雲機動部隊の直衛という重責を担う。竣工からわずか3ヶ月足らずで、巻雲は太平洋戦争の帰趨を決するミッドウェー海戦に投入されることになる。
1942年6月5日、南雲機動部隊は米軍機動部隊の攻撃により空母「赤城」「加賀」「蒼龍」が相次いで被弾炎上するという壊滅的な打撃を受けた。第十戦隊は各空母の護衛艦として乗員救助にあたり、「夕雲」「巻雲」は「蒼龍」の乗員救助を担当。巻雲艦長・藤田中佐は救助隊を編成し、炎上する蒼龍に自ら送り込んで艦長・柳本大佐の退艦を試みたという。
その後、浜風・磯風と交代した巻雲と風雲は、最後まで戦闘力を保持していた空母「飛龍」の救援に向かった。飛龍の乗組員は巻雲・風雲に移乗し、御真影(昭和天皇の写真)も収容された。接舷の際、風雲が飛龍に衝突し測距儀が破壊される事故もありながら、空が白む頃には収容を完了する。そして退艦してきた飛龍副長から伝えられたのが、第二航空戦隊司令官・山口多聞少将の言伝——「巻雲で飛龍の雷撃処分」だった。
この戦闘では、撃墜され漂流していた米空母ヨークタウン所属のパイロットら3名を巻雲が捕虜とした。当時の戦場の混乱と復讐心の中、捕虜たちは過酷な扱いを受け、うち2名は海に、1名は艦内で落命したと記録されている。これは太平洋戦争という総力戦の中で起きた、目を背けたくなる史実の一つである。猫工艦は、この出来事を美化することなく、また誇張することなく、あった事実として記録に留めておきたい。
味方空母を自らの魚雷で沈めるという任務は、駆逐艦乗りにとって最も過酷な役目の一つである。つまりどういうことか——巻雲の初陣は、栄光の戦果ではなく、上官の最期の意志を実行するという、重く静かな任務だった。
1942年10月26日、南太平洋海戦。日本本土初空襲(ドーリットル空襲)を敢行した米空母「ホーネット」が、日本軍の攻撃で大破・漂流する事態となった。当初、日本側は「事情許さば拿捕曳航されたし」との命令を受けていたが、大炎上する巨艦を駆逐艦2隻で曳航することは現実的に不可能だった。巻雲は僚艦「秋雲」と共に、やむなくホーネットへの雷撃処分を実行する。
処分の最中、敵潜水艦の存在も懸念される戦場で、秋雲が突如探照灯を照射するという一幕があった。巻雲は発光信号で「お前どうした」と問い質したという——緊迫した戦場の中にも、こうした人間味あるやり取りが記録されている。この一件により、巻雲は初陣の「飛龍」処分と合わせ、日米双方の空母を魚雷で葬った、世界戦史でも稀有な駆逐艦となった。翌27日には、撃沈されたホーネットの乗員の収容も行っている。
味方の空母も、敵の空母も、大破し戦闘力を失えば同じように「処分」の対象となる。つまりどういうことか——巻雲が担った役割は、戦況や陣営を問わず、海戦の後始末という駆逐艦の宿命そのものだった。
1943年1月31日、巻雲はガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)第一次作戦に参加する大部隊の一員としてショートランドを出撃した。米軍はこの「東京急行」を、駆逐群・機雷敷設部隊・魚雷艇群の三段構えで待ち受けていた。2月1日夕刻、米軍の機雷敷設部隊はエスペランス岬付近に255個もの機雷を敷設する。その約3時間後——エスペランス岬沖に接近しつつあったその時、巻雲は艦尾に触雷し、航行不能に陥った。
僚艦「夕雲」が接近し、横付け曳航法でカミンボ沖まで北上を試みた。しかし船体に歪みが生じ、浸水も悪化。曳航は困難となり、やがて曳航索も切断されてしまう。第十駆逐隊司令・吉村真武大佐の許可を得て、藤田艦長以下全乗員は夕雲に移乗した。そしてその後、巻雲は自らが「飛龍」に対して行ったのと同じように、僚艦の魚雷によって処分された。
巻雲は「飛龍」を処分した艦であり、そして自らも「夕雲」に処分された艦となった。つまりどういうことか——「処分」という行為の当事者だった艦が、最後にはその行為の対象になるという巡り合わせは、太平洋戦争という戦場の非情さを静かに物語っている。ただし巻雲の最期には、乗員全員が生還したという救いが残されていた。
巻雲の本質は、太平洋戦争を通じて「処分」という行為の当事者であり続けた艦だという点にある。初陣のミッドウェーで味方空母「飛龍」を、南太平洋海戦で敵空母「ホーネット」を、そして最後には自らが僚艦「夕雲」によって処分される——この一貫した巡り合わせは、単なる偶然というより、艦隊決戦の裏側で駆逐艦が担い続けた「後始末」という役割の縮図と言える。
しかし、巻雲の艦歴には光と影の両面がある。「飛龍」処分は上官の最期の意志を実行するという重い任務であり、多くの乗員を救助した人道的な行動でもあった。一方でミッドウェー海戦時に発生した捕虜への過酷な扱いは、戦争という極限状況が人をどこまで追い詰めるかを示す、目を背けられない事実として記録されている。猫工艦はこの艦を「英雄」とだけ語ることも、「加害者」とだけ語ることもしない。両方の事実を、そのまま伝えることが誠実さだと考える。
巻雲が残したものは何か——それは、艦の最期に必ずしも悲劇だけがあるわけではないという事実である。触雷から処分に至るまで、全乗員が生還したという結末は、夕雲型19隻の中でも稀な「犠牲者ゼロの喪失」だった。2隻の空母を沈めた駆逐艦が、最後は誰も失うことなく海に還った——猫工艦は、この巡り合わせに満ちた艦歴と、そこに関わったすべての乗員に、敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第十駆逐隊/第八艦隊戦時日誌・横須賀鎮守府戦時日誌
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『ミッドウェー海戦』『ガダルカナル島撤収作戦』関連巻
- ・岩重多四郎『日本海軍小艦艇ビジュアルガイド 駆逐艦編』大日本絵画、2012年
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・Wikipedia「巻雲 (夕雲型駆逐艦)」「夕雲型駆逐艦」「ミッドウェー海戦」「南太平洋海戦」