1942年11月24日午後7時、ニューギニア東部フォン湾。輸送任務を終え反転しようとしていた駆逐艦「早潮」の頭上に、7機のB-17爆撃機が波状攻撃を仕掛けた。至近弾で浸水し左舷機械が使用不能になった直後、19時10分から25分にかけて受けた直撃弾が第一砲塔と艦橋の間で炸裂し、艦は瞬く間に大火災に包まれる。駆けつけた僚艦「春雨」は接舷を試みたが、誘爆の危険から果たせなかった。
陽炎型駆逐艦19隻の5番艦として1940年8月に竣工した「早潮」は、突出した戦果を持つ艦ではない。真珠湾攻撃にもミッドウェーにも参加していないが、その代わりに、輸送・護衛・旗艦代行という地味だが欠かせない役目を、開戦から一貫して担い続けた駆逐艦だった。1942年9月には川口支隊総攻撃の掩護作戦で、そして同年11月12日には第三次ソロモン海戦の輸送作戦本番で、二水戦司令官・田中頼三少将は2度にわたって旗艦を「早潮」に託している。
そして――その信頼の重さが、最後には皮肉な結末を招くことになる。総員退去を命じた艦長は頭部負傷で意識不明のまま救助され、燃え盛る「早潮」に引導を渡したのは、敵ではなく僚艦「白露」の砲撃だった。
1938年6月30日
1940年8月31日竣工
山隈和喜人中佐
118.5m
52,000馬力
3基6門
九三式酸素魚雷搭載
(1942年9月・11月)
陽炎型で2番目の喪失艦
「早潮」は1938年6月30日、浦賀船渠で起工した。同年に起工が始まった陽炎型の中では標準的な進度で、1940年8月31日、僚艦「親潮」「夏潮」と同日に竣工。呉鎮守府籍として即日、この3隻で第十五駆逐隊が編成された。初代司令は植田弘之介大佐。編成直後は呉鎮守府の練習駆逐隊という穏やかな立場からのスタートだった。
1940年11月15日、第十五駆逐隊は第二艦隊・第二水雷戦隊に編入され、同時に第十六駆逐隊から陽炎型3番艦「黒潮」が転入して定数4隻(黒潮・親潮・早潮・夏潮)が揃う。太平洋戦争開戦時もこの編成のまま、二水戦(旗艦「神通」、司令官田中頼三少将)麾下でフィリピン・蘭印方面の攻略作戦に投入されることになった。
1942年11月23日21時、駆逐艦5隻(春雨・白露・電・磯波・早潮)からなる輸送隊がラバウルを出港し、ニューギニアのラエへ向かった。東部ニューギニア方面護衛隊が編成されて最初の輸送作戦であり、横須賀・佐世保両鎮守府の特別陸戦隊を乗せていた。
翌24日午後7時前後、輸送隊はラエ東方のフォン湾でB-17爆撃機7機の攻撃を受ける。「早潮」は至近弾により浸水し左舷機械が使用不能となった。2番砲塔は射撃不能となって死傷者も出ており、3番砲塔も射撃通信装置の故障で応戦が困難だった。指揮官・橘正雄大佐(第二駆逐隊司令)は、敵機触接下での揚陸は不可能と判断し反転を命じる。
応急処置を終えた「早潮」が速力28ノットを発揮し始めた矢先の19時10分から25分、再び至近弾と命中弾を受ける。第一砲塔と艦橋の間への直撃弾により大火災が発生。弾薬・燃料に引火して手のほどこしようがなくなり、金田清之中佐(早潮艦長)は20時25分、総員退去と軍艦旗降下を命じた。金田艦長自身は頭部を負傷して意識不明となり、その間に脱出者として救助されていたという。
炎上した味方艦を放置すれば、誘爆した弾薬や漂流する船体が後続作戦の障害になりかねない。「早潮」を沈めたのは敵弾ではなく、僚艦「白露」が撃った処分射撃だった。つまりどういうことか——駆逐艦の最期には、戦闘による撃沈だけでなく、味方の手で「引導を渡される」という選択も存在したということだ。
「早潮」の艦歴で見落とされがちなのが、二水戦(第二水雷戦隊)旗艦としての役目を2度にわたって務めたという事実である。1942年9月上旬、中破した軽巡「神通」がトラック泊地で修理に入った際、二水戦司令官・田中頼三少将は「早潮」を旗艦として川口支隊総攻撃掩護作戦に従事した。
そして2度目、より重い局面が訪れる。1942年11月12日、田中少将は輸送部隊指揮官として旗艦を「五十鈴」から「早潮」へと変更した。同日15時30分、「早潮」(二水戦旗艦)を先頭に第十五駆逐隊(親潮・陽炎)、第二十四駆逐隊(海風・江風・涼風)、第三十一駆逐隊(高波・巻波・長波)、収容隊(望月・天霧)、そして輸送船団はショートランド泊地を出撃、ガダルカナル島を目指した。これこそが第三次ソロモン海戦における輸送作戦の本隊であり、「早潮」はその先頭に立つ艦として選ばれていた。
しかし作戦は困難を極めた。飛行場砲撃に向かった挺身攻撃隊(比叡・霧島)が夜間水上戦闘に巻き込まれ、輸送船団は13日午前3時にいったん反転。再出撃した14日朝には索敵機に発見され、F4F・SBD・TBF・B-17による波状攻撃を受け、輸送船6隻が沈没する惨事となった。田中少将は残る輸送船4隻をガダルカナル島に擱座・揚陸させる決断を下し、約2000名が上陸したものの、無傷で揚陸できた物資はわずかだった。第三次ソロモン海戦は日本軍の大敗に終わり、ガダルカナル島撤退の決定的要因となった。
二水戦旗艦「早潮」を先頭に、輸送船団はガダルカナル島を目指した。
——第三次ソロモン海戦・輸送作戦、1942年11月12日
「早潮」は華々しい撃沈戦果を持つ艦ではない。ミッドウェー作戦では第十一航空戦隊(千歳・神川丸)の護衛として、輸送船団本隊とは別行動でキューア島(クレ環礁)攻略任務にあたった。5月28日にサイパンを出撃し、6月4日にはミッドウェー北西のキューア島に向けて船団から分離。だが翌5日、南雲機動部隊の主力空母4隻が壊滅すると、「早潮」を含む航空部隊は反転を命じられ、高速を活かして「千歳」と共にいち早く船団本隊へ合流した。
この「目立たないが確実な任務遂行」こそが「早潮」の真骨頂だった。5月上旬には、珊瑚海海戦で損傷した空母「翔鶴」の護衛としてサイパン付近で合流し、無事呉へ送り届けている。10月には金剛・榛名によるヘンダーソン基地艦砲射撃の護衛、10月26日の南太平洋海戦では空母「隼鷹」の護衛に徹し、目立った戦果はなくとも艦隊の生命線を支え続けた。
そして最期のフォン湾でも、この「支える力」は途切れなかった。大火災に包まれながらも、脱出者は僚艦が派遣した装載艇によって次々と救助されていった。定員約239名に対し戦死者は約50名――艦が轟々と燃え上がる中で、乗員の多くが生還したという事実は、この艦が最後まで「人を運び、人を守る」という役目を体現していたことを物語っている。
「早潮」の職務を解かれた金田中佐は、建造中の秋月型5番艦「新月」の艤装員長・初代艦長に任命される。しかし「新月」は1943年3月、クラ湾夜戦で沈没。金田中佐は第三水雷戦隊司令官・秋山輝男少将と共に戦死した。つまりどういうことか——一隻の駆逐艦を救われた指揮官も、次の艦でまた別の夜戦に呑まれていく。太平洋戦争の駆逐艦乗りたちに、安住の艦などなかった。
早潮の本質は、艦隊決戦のための撃沈戦果ではなく、輸送・護衛・旗艦代行という「縁の下の力持ち」に徹した点にある。真珠湾もミッドウェーの主力戦闘も経験していないが、キューア島任務、翔鶴護衛、川口支隊掩護、そして二水戦旗艦としての重責――目立たない任務の連続こそが、この艦の艦歴のすべてだった。
しかし、その支援任務の性質こそが、皮肉にも早潮の命を奪う結果を招いた。陽炎型は艦隊決戦兵器として設計され、対空戦闘力は決して優れていなかった。輸送任務という「本来の主目的ではない仕事」に投入され続けた末、フォン湾でB-17の反復爆撃という、艦隊決戦とは無縁の脅威に晒され、なす術もなく炎上した。陽炎型19隻の中で2番目という早い時期の喪失は、この艦が最前線の花形任務ではなく、地味だが危険な輸送の最前線に立ち続けた代償でもあった。
早潮が残したものは何か。それは、僚艦の砲撃によって引導を渡されるという壮絶な最期の中に、駆逐艦同士の絆と非情さが同居していたという事実である。そして、艦を追われた艦長がまた別の艦でまた別の夜戦に呑まれていったという事実は、この戦争において「生き延びる」ということがいかに困難だったかを、静かに、しかし雄弁に物語っている。猫工艦は、この目立たぬ輸送駆逐艦の献身に、深い敬意を表したい。
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