1943年5月8日午前3時59分、ブラケット海峡。コロンバンガラ島への5回目の輸送任務を終え、帰路についた第15駆逐隊の先頭を切っていたのは「親潮」だった。突然の大爆発——僚艦「黒潮」「陽炎」がまだ何が起きたか理解する前に、司令駆逐艦「親潮」が最初にその犠牲になった。「潜水艦の雷撃だ」と判断した2隻が対応に追われている間、実際には海峡一帯が機雷原と化していた。
「親潮」は陽炎型駆逐艦の4番艦。1942年2月、僚艦「夏潮」がマカッサル沖で戦没した後、第15駆逐隊の司令駆逐艦という重責を引き継いだ艦である。以来、空母「加賀」「大鷹」「冲鷹」、重巡「鳥海」など、幾度となく大型艦の護衛を任され、地味ながら堅実にその役目を果たし続けた。
しかし、この艦を待っていた最後の任務は、皮肉にも隊列の先頭で機雷原に飛び込む役目だった。司令駆逐艦として常に先頭に立ち続けたその姿勢が、最も過酷な形で報われることになる。「親潮」の全戦歴と、ブラケット海峡での第15駆逐隊全滅の一部始終を追う。
1938年3月29日
1940年8月20日竣工
金岡国三中佐
全長118.5m
52,000馬力
九三式酸素魚雷
艦名は戦後、海上自衛隊潜水艦「おやしお」に継承
ブラケット海峡で最初に触雷、空襲を受け沈没
「親潮」は1938年3月29日、舞鶴海軍工廠で起工された。1939年12月1日、吹雪型駆逐艦6番艦「東雲」の艦長を務めた金岡国三中佐が艤装員長に任命され、1940年5月1日、正式に初代駆逐艦長となった。同年8月20日に竣工し、呉鎮守府に所属。8月31日、僚艦「早潮」「夏潮」と共に第15駆逐隊を編成し、初代司令には駆逐艦「子日」「吹雪」艦長や特務艦「野島」艦長を歴任した植田弘之介大佐が任命された。11月15日、僚艦「黒潮」が第16駆逐隊から編入され、第15駆逐隊は陽炎型4隻編制となる。
1942年2月8日、マカッサル沖で輸送船団を護衛していた第15駆逐隊は米潜水艦S-37の襲撃を受けた。艦列最後尾の「夏潮」が被雷し航行不能となり、「黒潮」がこれを曳航しようと試みたが、浸水は止まらず翌9日朝に沈没した。陽炎型19隻の中で最初の戦没艦だった。
この事件の後、第15駆逐隊の司令駆逐艦は「親潮」に変更された。竣工当初から所属していた艦として、僚艦を失った直後の隊を率いる立場を引き継いだのである。以後、「親潮」はクーパン攻略作戦、ジャワ南方機動作戦、そして座礁で艦底を損傷していた空母「加賀」の本土護衛と、地味ながら重要な任務を次々にこなしていく。
司令駆逐艦になるということは、隊列の先頭に立ち続けるということでもある。つまりどういうことか。1年3ヶ月後、この立場が「親潮」を機雷原の最初の犠牲にする直接の要因となった。夏潮を失って引き継いだ責務が、巡り巡って自らの最期を早める結果になったという構図は、この艦の物語に重い一貫性を与えている。
「親潮」の戦歴の多くは、華々しい海戦ではなく、大型艦の護衛任務で占められている。1943年1月にはトラックで応急修理を受け、2月には「箱崎丸」を護衛して呉へ帰投。3月まで呉工廠で本格修理を行った後、4月4日には駆逐艦「漣」「響」「黒潮」と共に、空母「大鷹」「冲鷹」、重巡「鳥海」という大型艦3隻の護衛任務に就いた。この輸送中、米潜水艦「タニー」に発見・襲撃されるが、被害はなかった。
4月24日、第15駆逐隊は第二水雷戦隊4隻(親潮・黒潮・陽炎・海風)として南東方面艦隊(外南洋部隊)に編入され、4月26日にラバウルへ進出した。地味な護衛任務を積み重ねてきた「親潮」にとって、これが実質的に最後の”平穏な”任務だった。
空母や重巡の護衛任務は、戦果として語られることが少ない。つまりどういうことか。「親潮」の戦歴の大半を占めるこうした任務こそが、艦隊全体の機動力を支える土台だった。海戦の華やかさとは無縁でも、この種の堅実な働きなしに帝国海軍の作戦は成立しなかった。
1943年4月、ムンダ・コロンバンガラ島の部隊が栄養不良で戦力低下していたため、駆逐艦による6回のコロンバンガラ輸送が計画された。第15駆逐隊(親潮・黒潮・陽炎)は奇数回(1・3・5回目)を担当。第1回(4月29日)、第3回(5月3日)は成功したが、毎回同じ航路——ファーガスン水道からブラケット水道——を通ったことで、アメリカ軍にルートを察知される。5月6日、敷設駆逐艦「ガンブル」「ブリーズ」「プレブル」がブラケット水道に機雷を敷設した。
5月7日17時、3隻はブインから5回目の輸送に出撃。8日午前1時頃にコロンバンガラ島ヴィラ泊地に入泊し、揚陸と交代人員の収容を終えて3時10分頃に出港した。3時59分、隊列の先頭を航行していた「親潮」が、フェアウェイ島北西付近で触雷した。「黒潮」と「陽炎」はこれを潜水艦の雷撃と判断し爆雷を投射したが、実際には機雷原の中にいた。まもなく「陽炎」も触雷、続いて5時6分に「黒潮」も触雷して瞬時に沈没した。漂流する「親潮」は日中、マーク・ミッチャー少将が放った米軍機の空襲を受け、爆弾1発が命中。損傷した「親潮」と「陽炎」は、この日のうちに海に沈んでいった。
「親潮」が最初に触雷したことで、僚艦は「潜水艦の雷撃」という誤った判断のまま行動を続け、結果的に全滅の連鎖を招いた。つまりどういうことか。司令駆逐艦として隊列を率いる立場が、皮肉にも真っ先に危険を引き受け、しかもその犠牲が僚艦への正しい警告にすらならなかった——この最期は、先頭に立つことの重さと理不尽さの両方を物語っている。
「親潮」の本質は、「僚艦を失うたびに、その責務を引き継ぎ続けた艦」という一点にある。夏潮の戦没を受けて司令駆逐艦の座を継ぎ、以後は空母や重巡といった大型艦の護衛という、目立たないが欠かせない任務を淡々とこなし続けた。
しかし、その「先頭に立つ」という立場は、最後には最も過酷な形で報われることになる。ブラケット海峡で真っ先に機雷に触れたのは、隊列の先頭を航行していた司令駆逐艦「親潮」だった。責任を引き受け続けた艦が、最も早くその代償を払う——駆逐艦という存在の宿命を、これほど象徴的に体現した最期は少ない。
この艦が残したものは何か。「親潮」の名は戦後、海上自衛隊の潜水艦「おやしお」に受け継がれている。華々しい戦果を挙げた僚艦たちの陰で、地味な護衛任務と隊の存続を支え続けた「親潮」の在り方は、目立たなくとも艦隊を支える存在の尊さを教えてくれる。猫工艦は、責務を引き継ぎ続け、最後に最も重い代償を払ったこの艦に敬意を表したい。
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