1944年1月16日、南シナ海。輸送船団護衛中の駆逐艦「天津風」に、米潜水艦の魚雷が左舷中部へ命中した。艦体は瞬時に切断され、艦橋を含む前半分が海中へ消える。それでも後半分は沈まず、乗員たちはこの半分だけの艦体にしがみつき、漂流しながら生還を果たした。約9ヶ月にわたる再生工事を経て仮艦首を装備した天津風は、再び海へ戻ってくる。だが、この艦にとって、これが最初の九死に一生ではなかった。
陽炎型9番艦として1940年10月に竣工した「天津風」は、島風建造のために開発された新型高温高圧缶を試験搭載した特別な艦だった。第三次ソロモン海戦では米駆逐艦「バートン」を魚雷2本で撃沈するという確実な戦果を残しながら、自らも激しい損傷を負っている。艦橋を失うほどの大破、そして輸送任務中の被弾——天津風は、駆逐艦一隻を轟沈させるに十分なはずの大損害を、都合三度にわたって乗り越えてきた。
そして——1945年4月、日本本土への回航中に米軍機の攻撃を受けた天津風は、中国・廈門湾で座礁する。現地の武装勢力からの銃撃を受けながらも自力離礁を試み、それが叶わないと悟った艦長は、ついに自沈を決断した。三度の危機を乗り越えた不沈艦の最期は、敵弾によってではなく、自らの手による幕引きだった。
(40kg/cm²・400℃)
3基6門
(九三式酸素魚雷)
(雪風・初風・時津風)
島風の技術的先駆け
廈門湾で自沈
天津風は1939年2月、舞鶴海軍工廠で起工し、1940年10月26日に竣工した。陽炎型19隻の中でこの艦を特別な存在たらしめているのは、その機関にある。当時、列強各国の新型戦艦は速度を増す一方であり、日本駆逐艦の速力低下(吹雪型38ノットに対し陽炎型35ノット)が課題視されていた。海軍は次期主力駆逐艦向けに新型ボイラーの開発を進めており、その試験艦に選ばれたのが天津風だった。従来の甲型駆逐艦が蒸気圧力30kg/cm²・温度350℃だったのに対し、天津風は圧力40kg/cm²・温度400℃という高温高圧缶を搭載。出力自体は他の陽炎型と同じ52,000馬力だったが、全速時の燃費は11%向上し、航続距離も6%延伸したという。
天津風の乗組員には各種学校のエリート卒業生が集められ、機関の運転状況や整備状況を詳細に記録・報告する任務も課せられていた。試験結果は良好で、海軍はこの成果に大いに満足したと伝えられる。この天津風での経験を踏まえて建造されたのが、日本駆逐艦史上最も名高い高速艦「島風」だった(島風の出力は約80,000馬力に達し、これは駆逐艦でありながら扶桑型戦艦をも上回る数値である)。天津風は僚艦「雪風」「初風」「時津風」と共に第十六駆逐隊を編成。第二水雷戦隊所属で太平洋戦争を迎えた。
1941年12月8日の開戦時、天津風は軽巡「神通」・僚艦「初風」と一直線に並び、ダバオ空襲を終えて帰投する空母「龍驤」航空隊の誘導・支援にあたった。以後、レガスピー、ダバオ、メナド、ケンダリー、アンボン、クーパンの各攻略作戦を転戦し、1942年2月27日にはスラバヤ沖海戦にも参加している。3月8日には、当時の艦長・原為一中佐が米潜水艦シャークを撃沈したと自著に記述しているが、これはアメリカ軍側の記録とは食い違っているとされる。3月下旬にはクリスマス島攻略作戦にも参加(第十六駆逐隊では天津風のみ)、4月1日には米潜水艦シーウルフの雷撃で大破した軽巡「那珂」を、名取による曳航のもと護衛して帰投させた。
1942年8月24日、第二次ソロモン海戦。天津風は僚艦「時津風」、重巡「利根」と共に空母「龍驤」を中心とする機動部隊支隊(陽動部隊)を編制し、本隊から分離してガダルカナル島へ向かった。しかしこの日、龍驤は米空母「サラトガ」艦載機の攻撃を受けて沈没する。支隊指揮官(第八戦隊司令官・原忠一少将)は天津風に龍驤の曳航を命じたが、浸水のため実施できなかった。天津風は代わりに、龍驤の乗組員と不時着した艦載機搭乗員の救助にあたる。時津風とも協力し、僚艦と合わせて300~500名もの人員を救い出した(記録によって数に幅がある)。なお、龍驤は自沈処分の命令が下されていたともいい、味方の魚雷を受けていた可能性も指摘されているが、実際に誰が発射したかは判然としていない。
1942年11月12日、戦艦「比叡」「霧島」を中心とする挺身攻撃隊(阿部弘毅中将指揮)は、ヘンダーソン飛行場への大規模な艦砲射撃を目指しショートランドを出撃した。護衛には軽巡「長良」と駆逐艦11隻が付いていた。天津風は雪風・照月と共に部隊中央左翼に位置していたが、激しいスコールにより隊形が乱れる。米側もキャラガン少将率いる艦隊がヘンダーソン飛行場前面でほとんど決死の覚悟で待ち構えており、両軍は相互の錯誤と偶然が重なる形で、反航状態のまま突入する事態となった。
第三次ソロモン海戦第一夜戦——両軍合計25隻がひしめき、彼我最短距離1000メートル以下、相対速力60ノット近くという、まさに鋼鉄の乱闘だった。天津風は比叡の左舷やや前方、雪風の後方に占位していたが、戦闘の始まりは唐突だった。比叡が探照灯を照射し主砲を発砲すると、ほぼ同時に敵艦隊の一斉射撃が比叡に集中する。この乱戦の中、天津風は魚雷2本を発射し、米駆逐艦「バートン」に命中させて撃沈するという確実な戦果を挙げた。しかし天津風自身も戦闘で損傷を負い、内地への帰投を余儀なくされている。
第三次ソロモン海戦第一夜戦は、レーダーもまだ不完全な時代の水上戦闘が、いかに視認と偶然に左右されるものだったかを象徴している。1000メートルという至近距離での交戦は、まさに海戦というより乱闘に近い。この混戦の中で天津風が確実にバートンを仕留めたことは、乗員の練度の高さを物語る一方、自らも大きな損傷を免れなかったことは、この種の近接戦闘がいかに双方に犠牲を強いるものだったかを示している。
損傷から復帰した天津風は南太平洋海戦にも参加し、空母「翔鶴」護衛の任にあたり、不時着機の搭乗員13名を救助している。だが1944年1月16日、天津風はヒ31船団護衛中、南シナ海で米潜水艦の雷撃を受けた。魚雷は左舷中部に命中し、艦体は真っ二つに切断される。艦橋を含む前半分は失われたが、奇跡的に後半分の船体は浮力を保ち続けた。当時「天津風」水雷長だった真庭英治中尉は、この漂流の様子を「風と波の音と」と題する手記に残している。
乗組員たちは残された後部船体にしがみつき、漂流を耐え抜いた。この時の損傷は、通常であれば一隻の駆逐艦を轟沈させるに十分なものだったが、天津風はそれでも沈まなかった。回収された後部船体は本土へ運ばれ、約9ヶ月にわたる再生工事——失われた艦首を新造して接合するという大工事——を経て、天津風は仮艦首を備えた姿で再び戦列に復帰することになる。
第三次ソロモン海戦での被弾、そしてこの南シナ海での艦体切断——天津風はこの時点で、駆逐艦としては異例なまでに二度の壊滅的損傷を乗り越えていた。それぞれが単独でも艦を失うに十分な被害でありながら、天津風は生還を果たし続けた。この「沈まない」という実績こそが、後にこの艦を語る際に「不沈艦」という呼び名を与えることになる。
9ヶ月に及ぶ再生工事を終え、仮艦首を装備して戦列に復帰した天津風だったが、その戦力は既に本来のものではなかった。1945年4月7日、坊ノ岬沖海戦で僚艦「浜風」「磯風」が相次いで戦没し、陽炎型で残る艦は「雪風」と、日本本土への回航中だった天津風だけになっていた。その道中、天津風は米軍機の攻撃を受け、中国・廈門(アモイ)沖で座礁する。
やがて座礁した天津風を、現地の住民が物珍しそうに眺め始めた。廈門根拠地からほど近い場所だったため、乗組員たちは特に警戒していなかったという。ところが天津風は突如、軽機関銃による銃撃を受ける。天津風は直ちに25ミリ機銃で応射し、戦闘能力が健在であることを示したが、この不意打ちで乗組員1名が戦死した。米軍偵察機もすでにこの艦を発見しており、いつ空襲を受けてもおかしくない状況だった。天津風は現地の小型船舶を使って最後の離礁を試みるが、これも失敗に終わる。ここに至り、艦長・森田某大佐(または「森田艦長」)は天津風の放棄を決意せざるを得なかった。
天津風の本質は、通常であれば艦を失うに十分な損害を、三度にわたって乗り越え続けた驚異的な生命力にある。第三次ソロモン海戦での被弾、南シナ海での艦体切断、そして廈門湾での座礁——それぞれが単独でも致命傷になり得た中で、この艦は都度、乗員の献身と艦自体の頑丈さによって生き延び続けた。米駆逐艦バートンを確実に仕留めた戦闘力と、次世代駆逐艦「島風」の礎となった技術的先進性を併せ持つ艦だったことも、天津風という艦の特異な価値を物語っている。
しかし、その不屈の生命力をもってしても、太平洋戦争末期の制空権・制海権を失った戦局を覆すことはできなかった。三度目の危機は敵の砲弾でも魚雷でもなく、座礁という不運と、そこに追い打ちをかける現地勢力からの不意打ちだった。最終的に、艦を沈めたのは敵ではなく、乗員自身の手による自沈処分だった。これは敗北というより、これ以上戦い続けることができないと悟った末の、乗員たちの冷静な判断だったといえる。
天津風が残したものは何か。それは、三度の危機を乗り越え続けた「不沈艦」としての記録であり、そして技術的な実験艦としての静かな貢献である。島風という伝説的な高速駆逐艦の陰に、天津風の高温高圧缶という地道な試験航海があったことを、忘れてはならない。猫工艦は、幾度も死線を越え、最後は自らの手で幕を引いたこの艦の意志に、深い敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書24・40・46『比島・マレー方面海軍進攻作戦/南太平洋陸軍作戦<3>/海上護衛戦』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)天津風関連公文書・第十六駆逐隊戦時日誌戦闘詳報
- ・原為一『帝国海軍の最後』河出書房新社、2011年(原著1955年)
- ・当時「天津風」水雷長・海軍中尉真庭英治「風と波の音と 駆逐艦『天津風』被雷遭難す」
- ・当時「天津風」砲術長・海軍大尉小川治夫「歴戦艦『天津風』アモイ沖に憤死す」
- ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年
- ・Wikipedia「天津風 (陽炎型駆逐艦)」「陽炎型駆逐艦」「第三次ソロモン海戦」