1944年11月3日午後10時53分、南シナ海。台湾・馬公からブルネイへ向けて航行中の空母「隼鷹」を護衛していた駆逐艦「秋風」は、米潜水艦「ピンタド」が発射した魚雷の直撃を受けた。大爆発とともに艦体は分断され、わずか5分後の午後10時58分、艦尾部分が沈没した。山崎艦長をはじめ、乗組員全員が行方不明となり、後に戦死認定される。ピンタドが放った魚雷は本来「隼鷹」に向けられたものだったのか、それとも「秋風」自身が身を挺してこれを遮ったのか——真相は今も定かではない。
「秋風」は峯風型駆逐艦の9番艦として、三菱長崎造船所で1920年に進水、1921年4月1日に竣工した。横須賀鎮守府に所属し、1933年の昭和三陸地震では救援任務にあたり、日中戦争では華中沿岸作戦に従事した。太平洋戦争末期には、竣工から20年を超える艦齢のまま睦月型の第30駆逐隊に編入され、最前線での任務を続けた末に戦没している。
だが「秋風」の艦歴を語る上で、避けて通ることのできない出来事がある。1943年3月、ニューギニア方面で発生した「駆逐艦秋風虐殺事件」である。この記事は、その事実を含めて「秋風」という艦の全ての歴史を、正確に、そして誠実に記録することを目的としている。
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竣工した「秋風」は横須賀鎮守府に所属し、日本近海での任務に従事した。1933年3月に発生した昭和三陸地震では、被災地への救援任務にあたっている。1937年からの日中戦争では華中沿岸での作戦に参加し、1940年末には第34駆逐隊(羽風・秋風・太刀風)に編入された。竣工から20年を経ても、「秋風」は依然として第一線任務に投入され続けていた。
太平洋戦争開戦後は南方戦線に投入され、ラバウル方面を中心に船団護衛や輸送任務に従事する。だがその艦歴の中に、1943年3月、決して見過ごすことのできない重大な出来事が刻まれることになる。
1943年3月18日、「秋風」はカビエンを出港し、ラバウルへ向かった。艦上には、カイリル島とマヌス島などの現地住民、ドイツ人を中心とする多国籍の民間人およそ70名が乗せられていた。命令により、これらの住民をラバウルへ移送するための輸送だったとされている。しかし乗せられた人々の誰1人として、ラバウルの地を踏むことはなかった。移送中の艦上で、老若男女を問わず全員が命を落としたのである。
この処刑の理由は、今もはっきりとは判明していない。犠牲者の中には10歳に満たない子供も含まれていたことが記録されている。艦長はこの命令に抵抗したいという意向を示していたとされるが、上官の命令に逆らうことはできなかった。艦長以下、乗組員たちがこの命令をどのように受け止め、実行に至ったのかについては、生存者の証言や戦後の裁判記録の中で語られている。
この事件は「駆逐艦秋風虐殺事件」として記録され、戦後、連合国による戦争犯罪調査の対象となった。責任の所在を巡っては、当時「秋風」を指揮下に置いていたとされる第八艦隊司令長官・三川軍一中将と参謀長・大西新蔵少将、そして南東方面艦隊司令長官・草鹿任一中将の間で、指揮命令系統についての主張が対立した。三川・大西の両名は、事件当時の「秋風」が南東方面部隊(南東方面艦隊司令長官・草鹿任一中将)の指揮下、その命令を受けて行動していたと反論している。
1943年3月から4月にかけてのラバウル方面は、ビスマルク海海戦(第81号作戦)や「い号作戦」の実施をめぐり、連合艦隊・南東方面艦隊(第十一航空艦隊)・第三艦隊・第八艦隊・陸軍の指揮系統が複雑に絡み合う状況にあった。1948年10月上旬の裁判では、元「秋風」機関長・小口茂ら乗組員が被告側証人として出廷。同月15日、海軍兵学校54期出身の土肥一夫が南東方面艦隊の戦時日誌を法廷に提出したことにより、事件当時の「秋風」が南東方面艦隊の指揮下にあったことが示された。この調査と裁判の過程は、戦争という極限状況下における命令系統の責任のあり方を、今に問い続けている。
この事件について、猫工艦は英雄的な戦歴として語ることは決してしない。1隻の艦の歴史を伝えるにあたり、その艦がたどった全ての事実——輝かしい功績も、深く重い過ちも——を、可能な限り正確に、そして誠実に記録することこそが、歴史を伝える者の責任だと考えている。
1944年5月1日、竣工から23年を経た「秋風」は、睦月型駆逐艦の第30駆逐隊(松風・卯月・夕月)に編入された。峯風型でありながら睦月型の艦隊に加わり、第三水雷戦隊の一員として最前線任務にあたることになる。だがこの部隊の運命は過酷だった。6月には僚艦「松風」が米潜水艦「ソードフィッシュ」の雷撃で沈没。部隊は「皐月」「夕凪」を加え5隻編成となるが、8月には「夕凪」が「ピクーダ」に撃沈され、9月には最前線を走り続けていた「皐月」も空襲で戦没する。わずか数ヶ月のうちに、部隊はまたたく間に「秋風」「卯月」「夕月」の3隻にまで減っていった。
それでも「秋風」は任務を続けた。10月の捷一号作戦では、小沢治三郎中将率いる機動部隊の給油タンカー「仁栄丸」を護衛する任務にあたっている。竣工から20年を大きく超えた旧式艦でありながら、日本海軍にとって「秋風」は、最後まで頼らざるを得ない戦力の1つであり続けた。
1944年10月30日、空母「隼鷹」を中心とする隼鷹隊は佐世保を出発し、31日、「秋風」がこれに合流した。台湾・馬公に立ち寄った後、ブルネイに向けて航行していた11月3日夜、米潜水艦「ピンタド」が「隼鷹」に向けて魚雷6本を発射する。だがピンタドの魚雷は「隼鷹」ではなく、「秋風」に命中した。
午後10時53分の大爆発により「秋風」の艦体は分断され、艦尾部分は5分後の午後10時58分に沈没した。「夕月」が救援にあたったが、山崎艦長をはじめ乗組員全員が行方不明となり、後に戦死認定される。「卯月」「夕月」による爆雷攻撃を受けたピンタドは戦場から離脱し、結果として「隼鷹」は難を逃れた。「秋風」が「隼鷹」の盾となるべく身を挺したのか、それとも本来「隼鷹」を狙った魚雷がたまたま外れて「秋風」に命中したのか——真相は今も定かではない。
1945年1月10日、「秋風」は峯風型駆逐艦・帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。同日、多号作戦で残存していた「夕月」「卯月」の2隻も戦没しており、第30駆逐隊も解隊された。「秋風」の慰霊碑は、沈没から半世紀近くを経た1991年、隼鷹の慰霊碑(1983年建立)の傍らに、呉海軍墓地に建立されている。
「秋風」の艦歴を振り返るとき、私たちはこの艦を単純な英雄譚として語ることはできない。竣工から23年、太平洋戦争のほぼ全期間を戦い抜いた駆逐艦としての功績——救援任務、船団護衛、そして最後には空母を守る盾になったかもしれないという最期——がある一方で、1943年3月の出来事は、この艦の歴史に決して消えることのない重い記録として刻まれている。
軍艦もまた、その時代と命令系統の中に置かれた存在だった。「秋風」の乗組員たちが置かれていた状況、そして戦後の裁判で問われ続けた指揮命令の所在——これらは、戦争という極限状況が人間に何を強い、そして誰が責任を負うべきなのかという、重く困難な問いを私たちに投げかけ続けている。
猫工艦は、「秋風」という艦の歴史を、その全てにおいて正確に伝えることを使命としている。輝かしい献身の記録も、深く重い過ちの記録も、共にこの艦が背負ってきた事実である。私たちはこの艦を美化することも、その過ちを覆い隠すこともせず、ただ史実として記録し、伝え続けたい。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛庁防衛研修所戦史部『中部太平洋方面海軍作戦〈2〉昭和十七年六月以降』戦史叢書第62巻、朝雲新聞社、1973年
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
- ・木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・寺内正道ほか『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』潮書房光人社、2015年
- ・塚田享「ラバウル海域の雄『峯風型』の三十四駆逐隊」(戦史研究論考)
- ・『丸』編集部編『写真 日本の軍艦 駆逐艦I 睦月型・神風型・峯風型』第10巻、光人社、1990年
- ・BC級戦犯裁判関連記録(連合国戦争犯罪調査記録)
- ・Wikipedia「秋風 (駆逐艦)」「峯風型駆逐艦」
- → 松風——同じ第30駆逐隊で船団旗艦として散った神風型の艦