1944年10月25日午前3時10分——スリガオ海峡。「山雲」が轟沈し、「朝雲」が艦首切断で落伍し、戦艦「扶桑」が戦列を離れた。漆黒の海峡に押し寄せる米水雷戦隊の雷撃の中、「満潮」は孤立した。同型艦の朝潮・大潮・荒潮はすでに1年半前に失われ、第8駆逐隊の生き残りとして渡り歩いた第4駆逐隊の仲間もまた次々と倒れた。午前3時58分——駆逐艦ハッチンズが朝雲に向けて発射した魚雷5本が、「満潮」に命中した。高橋進駆逐隊司令を含む約230名が戦死した。
「満潮」は朝潮型駆逐艦3番艦として1937年10月に竣工した。第8駆逐隊(朝潮・大潮・満潮・荒潮)の3番手として太平洋戦争を迎えた満潮は、バリ島沖海戦で機関室に被弾し大破・64名戦死という艦歴最大の損傷を負いながら、漂流しながら残敵の哨戒を続け、長期修理を経て戦線に復帰した。しかし同艦隊の朝潮・大潮・荒潮は次々と沈み、孤独な生き残りとなった満潮は第24駆逐隊を経て第4駆逐隊に移籍し、全く異なる仲間と共に西村艦隊の一員として最後の戦場に立った。
そして——バリ島沖で64名が死に、満潮は漂流しながら哨戒を続けた。スリガオでは約230名が死に、満潮は二度と浮かばなかった。第8駆逐隊の中で最後まで生き残り、3つの駆逐隊を渡り歩いた満潮だけが、最終的に「西村艦隊」という最も苛酷な戦場を体験した。それが朝潮型3番艦の宿命だった。
3基6門
(8射線・九三式酸素魚雷)
艦本式タービン2基
スリガオ海峡夜戦で戦没
1935年12月4日、大阪の藤永田造船所で起工した満潮は、1937年10月31日に竣工し、朝潮・大潮と同日付で第25駆逐隊を編制した。初代艤装員長の有田貢中佐は翌1938年3月に病死するという不運に見舞われたが、臨機調事件の改装工事を経て1939年11月1日に第8駆逐隊へ改称。荒潮が加わり、朝潮・大潮・満潮・荒潮の4隻編制が完成した。第8駆逐隊は開戦時の南方攻略からマレー上陸・フィリピン攻略まで行動を共にした。しかしバリ島沖海戦で大きな損傷を受けた満潮はその後も大破を繰り返し、1943年にかけて朝潮・大潮・荒潮が次々と沈む中、ただ一隻だけ生き残ることになる。
バリ島沖海戦の第2波——ABDA艦隊第2陣(軽巡トロンプと米駆逐艦4隻)が突入してきた午前3時47分、バダン海峡に戻っていた満潮と荒潮は砲戦を開始した。満潮の機関室に砲弾が直撃した。64名が戦死し、満潮は航行不能になった。しかし満潮は沈まなかった。船体が海峡を漂流しながら、乗員は残敵の哨戒を続けた。朝潮・大潮・荒潮の1番隊が戦果を挙げている中、満潮は64名の死者を抱えながら自らは動けないまま、海峡の真ん中で任務を続けた。
バリ島沖で航行不能となった満潮が「漂流しながら残敵の哨戒にあたった」という事実は、乗員が64名の死を乗り越えて戦闘意欲を失わなかったことを示している。同型艦・朝潮が最後に救助任務を選んだように、満潮の乗員も沈みかけた艦の上で任務を続けた。第8駆逐隊という部隊の気風がそうさせたのか——それを証明する手段はないが、バリ島沖海戦において満潮は「撃沈艦0隻・戦死者64名・漂流哨戒継続」という一見矛盾した記録を残した。
1943年2月20日——大潮がショートランド沖で米潜水艦の雷撃を受けて沈没した。3月3日——朝潮がビスマルク海でダンピール海峡に沈んだ。3月4日——荒潮がビスマルク海でダンピール海峡に沈んだ。わずか12日間で第8駆逐隊の3艦が消えた。生き残ったのは満潮だけだった。バリ島沖で64名を失い、ショートランドで大破して長期修理中だった満潮が、戦列に復帰しようとしていた矢先に、仲間の艦が次々と沈んだ。
「寄せ集め」の駆逐隊だった。
第8駆逐隊(開戦〜1943年4月)→ 第24駆逐隊(仮転籍)→ 第4駆逐隊(1944年〜最期)
3年間で3つの部隊を渡り歩いた満潮の艦歴は、朝潮型の中でも最も複雑な人事異動を経ている。本来の仲間(朝潮・大潮・荒潮)は全員失い、新しい仲間(野分・山雲・朝雲)も全員スリガオで失った。満潮は常に「生き残った者」として、新たな仲間の中に投げ込まれ続けた。
1944年10月22日、ブルネイを出撃した西村祥治中将率いる第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)——戦艦山城・扶桑、重巡最上、駆逐艦時雨・満潮・朝雲・山雲の7隻——は、レイテ湾突入を目指してスリガオ海峡に向かった。しかし待ち受けていたのは、オルデンドルフ少将率いる米艦隊が準備した完璧な「T字戦法」の包囲だった。魚雷艇の先制攻撃、次々と来る米駆逐艦隊の雷撃——午前3時10分には山雲が轟沈し、朝雲が艦首切断で落伍し、扶桑が戦列を離れた。
午前3時58分——朝雲を目標に発射された米駆逐艦ハッチンズの魚雷5本が、満潮に命中した。高橋進駆逐隊司令を含む約230名が戦死した。第8駆逐隊で最後まで生き残り、3つの部隊を渡り歩いた満潮は、スリガオ海峡の闇の中で沈んだ。旗艦山城もその後沈没し、西村艦隊の中で生還したのは時雨1隻のみだった。
西村艦隊がスリガオ海峡に突入した時点で、栗田艦隊の一時後退によりレイテ湾への同時突入作戦は事実上破綻していた。西村司令官もそれを知っていた可能性が高い。しかし「全軍突撃」の命令に従い、7隻は海峡に入っていった。満潮もその中にいた——3年間生き残り、3つの部隊を渡り歩いてきた満潮が、最終的にたどり着いたのがこの「出口のない海峡」だった。
満潮の本質は、「生き残ることの重さを最も長く背負った艦」にある。バリ島沖では64名を失い、大破した艦体で漂流しながら哨戒を続けた。1943年に3隻の仲間が消え、第8駆逐隊という「家族」を失った。新しい駆逐隊に転籍し、また新しい仲間と共に戦い、その仲間たちもスリガオで失った。満潮は常に「生き残った方」だった。それが満潮の宿命だった。
しかし「生き残る」ということは、「次の戦場に立つ」ということでもある。朝潮はビスマルク海で「約束」のために沈み、大潮はケ号作戦を全うした13日後に沈んだ。満潮は——特別な「約束」も「完遂の翌日」もなく、西村艦隊の一員として「出口のない海峡」に入り、そして沈んだ。バリ島沖での64名の死は意味があったのか。3つの駆逐隊を渡り歩いた7年間は何のためだったのか。そう問うこと自体が、戦争の残酷さそのものを照らし出している。
朝潮型3番艦「満潮」——型名を与えられながら型名の意味を担うことなく、ただ生き残り、渡り歩き、最後に沈んだ艦。艦名「みちしお」は戦後、海上自衛隊の潜水艦に引き継がれた。スリガオの海底に眠る230名とともに、猫工艦は今も満潮に静かな敬意を捧げたい。
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3つの駆逐隊を渡り歩いた「最後の生き残り」——満潮の魂を、その身に纏え
「バリ島沖64名の死と、スリガオ海峡230名の死——生き残ることの重さを背負った朝潮型3番艦」
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『捷号海上作戦』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)満潮公文備考 / 第8駆逐隊戦時日誌 / 第4駆逐隊戦時日誌
- ・Wikipedia「満潮 (駆逐艦)」「バリ島沖海戦」「スリガオ海峡夜戦」「レイテ沖海戦」
- ・村井至「太平洋戦争と日本の駆逐艦 満潮、朝雲、山雲、時雨。西村艦隊第四&二十七駆逐隊に象徴される駆逐艦の苦闘」
- ・丹羽年雄「第九駆逐隊の奮闘と壮烈なる最後」
- ・片桐大自『帝国海軍全艦艇史』ベストセラーズ
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫
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