1943年3月3日午前10時35分——ダンピール海峡。「救助作業中止、全艦一時避退せよ」という木村昌福少将の命令が各艦に届いた瞬間、第三水雷戦隊の残存艦は一斉に離脱した。しかし一隻だけ、その場に留まり続けた艦があった。第8駆逐隊司令駆逐艦「朝潮」——司令の佐藤康夫大佐が出撃前夜に老朋友へ交わした約束があったからだ。「朝潮が護衛する限り見殺しにはしない。野島乗組員を必ず生きて連れて帰る」。
「朝潮」は、朝潮型駆逐艦のネームシップとして1937年8月に佐世保海軍工廠で竣工した。条約の呪縛から解放された最初の大型甲型駆逐艦——基準排水量1,961t、35ノット、12.7cm連装砲3基、四連装魚雷発射管2基——という充実した兵装を持ち、第8駆逐隊(大潮・満潮・荒潮)の中核として太平洋戦争を迎えた。バリ島沖海戦では数的に圧倒的不利な状況下でABDA艦隊を撃退し、山本五十六司令長官から感状を受けた朝潮型最初の「勝利」の主役だった。
そして——その約束の代償は、艦と艦長の命だった。再来襲した連合軍機の猛爆を受けて朝潮は轟沈し、佐藤康夫大佐は戦死した。しかし野島艦長・松本亀太郎大佐は3日間の漂流の後に救助され、約束は結果として果たされた。「朝潮が護衛する限り」——その言葉の重さは、艦と司令の命で担保された。
C型連装砲 3基6門
×2基(8射線)
艦本式タービン2基
ビスマルク海で戦没
1935年9月7日——ロンドン海軍軍縮条約脱退を見越した上で、佐世保海軍工廠で起工された朝潮は、日本が「条約の制約なしに作れる大型駆逐艦」として設計された最初の艦だった。第三次軍備補充計画(マル3計画)前身の位置づけとなる朝潮型は、初春型・白露型という「1,400〜1,700t型に吹雪型の性能を詰め込もうとした失敗」を踏まえ、最初から余裕のある大型設計で建造された。しかし竣工後まもなく「臨機調事件」——タービン翼の折損問題——が発覚し、全艦が一時予備艦扱いとなる。朝潮は1938年から約2年間の改装工事を経て、1940年から水雷戦隊への本格編入が始まった。
1942年2月19日、バリ島サヌール泊地。揚陸を完了した輸送船1隻と共に泊地に残った朝潮と大潮の2隻の前に、深夜、ABDA艦隊の軽巡2隻・駆逐艦3隻が突入してきた。2隻vs軽巡を含む5隻という圧倒的な戦力差——しかし朝潮艦長の吉井五郎中佐(海兵50期)は怯まずに反撃した。蘭駆逐艦ピートハインに対して朝潮が砲撃と雷撃で猛攻し、ピートハインは大破炎上・沈没。その後、満潮・荒潮が戻ってきた第2波・第3波の攻撃でも蘭軽巡トロンプと米駆逐艦スチュワートに損傷を与えた。
朝潮型が「条約脱退後の大型駆逐艦」として持っていた本来の戦闘力が最も明確に発揮されたのがバリ島沖海戦だった。2隻で数倍の敵艦隊を撃退したこの夜戦は、九三式酸素魚雷の威力と艦隊型駆逐艦の夜間水雷戦能力を最大限に示した結果だった。つまり「朝潮型が最も輝いた瞬間」は、開戦からわずか2ヶ月半のこの夜にあった。
1942年6月5日から6日、ミッドウェー海戦で日本は空母4隻を失った。朝潮と荒潮は第7戦隊(最上・三隈・鈴谷・熊野)の直衛として参加していたが、6月7日、夜間の衝突事故で損傷した最上・三隈の護衛任務に就いていた。米軍機の空襲が始まると、朝潮と荒潮は退避する最上・三隈を護衛しながら、落下してくる爆弾の雨をかわし続けた。三隈は全力攻撃を受けて炎上・沈没し、朝潮も最上の生存者救助中に爆弾至近弾で燃料タンクを損傷した。荒潮も一番主砲の防水帯故障で速力低下を余儀なくされた。
1943年2月28日夜、ラバウルを出撃した輸送船団8隻・駆逐艦8隻(白雪・浦波・敷波・朝潮・荒潮・朝雲・時津風・雪風)——第8駆逐隊司令として朝潮に座乗していた佐藤康夫大佐は、出撃前夜に老朋友である運送艦「野島」艦長・松本亀太郎大佐と酒を酌み交わしていた。海軍兵学校44期・45期の先輩後輩だった2人の間で、松本大佐が漏らした一言——「脚の遅い野島は必ず沈む。骨だけでも拾ってほしい」——に対し、佐藤大佐は迷わず答えた。「朝潮が護衛する限り見殺しにはしない。野島乗組員を必ず生きて連れて帰る」。
3月3日午前7時30分——快晴のダンピール海峡。連合軍の大編隊(約268機)が来襲し、反跳爆撃(スキップボミング)という新戦法で輸送船団を壊滅させた。零戦隊がB-17を最大の脅威として高度を上げた瞬間、低空のB-25が反跳爆撃を開始。約20分の空襲で輸送船7隻・駆逐艦3隻(白雪・荒潮・時津風)が被弾。10時35分、木村昌福司令官が重傷を負いながら「全艦避退」を命じた。朝潮だけが動かなかった。
ビスマルク海海戦でアメリカ陸軍航空隊が初めて大規模運用した「反跳爆撃(スキップボミング)」は、低空で爆弾を投下して海面を跳ねさせ喫水線近くに命中させる戦法だった。命中率は従来の高高度爆撃の5倍以上——しかも訓練3ヶ月の搭乗員でも65%の命中率を叩き出した。日本海軍の対空砲火は高高度爆撃用に整備されており、超低空で侵入するB-25に対してはほぼ無力だった。この日の惨状が、制空権なき海域での水上艦艇輸送の限界を日本海軍に突きつけた最初の決定的な証明となった。
「朝潮が護衛する限り見殺しにはしない。野島乗組員を必ず生きて連れて帰る」
——松本大佐の「骨だけでも」という言葉への返答
——佐藤康夫 第8駆逐隊司令大佐、1943年3月3日 ダンピール海峡にて戦死
朝潮の本質は、「約束を守った艦長の艦」という一点に収束する。バリ島沖海戦での輝き、ミッドウェーの損傷、ガダルカナルの消耗——様々な戦歴を持ちながら、朝潮という艦を最終的に定義するのは、木村司令官の撤退命令に従わず、単艦で漂流艦の救助を続けたあの3月3日の選択だ。「命令」という体制の論理と「約束」という人間の論理が衝突した時、佐藤康夫大佐は後者を選んだ。
しかし、この「約束」の美しさには、苦い影がある。佐藤司令と吉井艦長は戦死し、救助された朝潮の乗員は少数に留まった。「朝潮型のネームシップ」が消えたことで、艦型名は「満潮型」に変更されるという皮肉も生じた。「美談」として語られる行為の裏には、艦と乗員の命が払われた事実がある。朝潮の選択を否定する気持ちはないが、その「約束」が生まれた背景には、民間人の船員も含む「野島」の絶望的な状況があり、それを生んだのは制空権を持たない海での無謀な輸送作戦だったことも、同時に記憶されなければならない。
「野島」の松本亀太郎大佐は3日間の漂流の後に救助された。約束は、命をもって果たされた。佐藤康夫大佐が「朝潮が護衛する限り」と言った時、その言葉は「艦が沈むまで」を意味していたことになる。朝潮とその乗員の死が、一人の命を救った——その事実を、猫工艦は静かな敬意と共に記憶したい。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『南東方面海軍作戦』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)朝潮公文備考 / 第8駆逐隊戦時日誌
- ・Wikipedia「朝潮 (朝潮型駆逐艦)」「バリ島沖海戦」「ビスマルク海海戦」
- ・増田禮二『怨み深し血の海、ビスマルクの海』
- ・海老原康之『夜戦の白眉 第八駆逐隊 朝潮型四隻の奮戦』
- ・片桐大自『帝国海軍全艦艇史』ベストセラーズ
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫
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