1941年12月31日——開戦からわずか23日後。フィリピン・リンガエン湾のサンフェルナンド灯台南西沖を航行していた「山雲」の右舷に、突如として爆発が起きた。「山雲」は味方が敷設した機雷に触れた。機械室に浸水し、航行不能に陥った。太平洋戦争の「開戦年」の最終日——大晦日の朝に、山雲は戦わずして朽ちた。「とんだ新年を迎えることになった」——この失態から復帰するまでに約9ヶ月を要した。
「山雲」は朝潮型6番艦として1938年1月に竣工した。朝雲と同日命名(1936年10月22日)、同じ神戸川崎造船所の朝雲より2ヶ月半早く竣工し、第41駆逐隊を経て第9駆逐隊(朝雲・夏雲・峯雲)に加わった。しかし開戦直後の触雷で9ヶ月間戦列を離脱し、復帰後も夏雲・峯雲が相次いで戦没する中、護衛任務や輸送任務を地道に続けた。1943年9月に第4駆逐隊に編入され、満潮・朝雲と共に西村艦隊の一員としてスリガオへ向かった。
そして——1944年10月25日、スリガオ海峡。単縦陣の2番手として突入した山雲に、米駆逐艦隊の魚雷が命中した。「満潮・山雲・朝雲がほぼ同時に被雷し、山雲は轟沈した」と時雨艦長・西野昇太郎大尉が記録している。ほぼ全員が戦死した。生存者1名がマニラ地区地上部隊に編入されたという記録があるが、その後の消息は不明だ。味方機雷で始まった山雲の艦歴は、敵の魚雷で終わった。
3基6門
(8射線・九三式酸素魚雷)
艦本式タービン2基
スリガオ海峡夜戦で轟沈
「山雲」という艦名は「山に立ちこめた雲」を意味する。1936年10月22日、朝雲・工作艦明石と同日に命名された。藤永田造船所(大阪)で1936年11月4日に起工し、1938年1月15日に竣工した山雲は、第41駆逐隊に編入され、臨機調事件の改装工事を経て1939年11月15日に第9駆逐隊(朝雲・夏雲・峯雲)となった。開戦時には山雲・朝雲・夏雲・峯雲の4隻で第4水雷戦隊に所属し、台湾の高雄に集結して太平洋戦争の開幕を迎えた。
太平洋戦争開戦から23日後の1941年12月31日午前6時15分——山雲はリンガエン湾のサンフェルナンド灯台南西沖を航行中だった。第14軍主力のリンガエン湾上陸を支援し終え、蘭印部隊に転属するための移動中だった。その時、右舷部に爆発が起きた。日本軍が自ら敷設した機雷だった。右舷大破、機械室浸水、航行不能——山雲は特設砲艦南浦丸に曳航されてセントトーマス島に避難した。開戦年の最後の日に、敵の攻撃ではなく「味方の機雷」で行動不能になった。
山雲が味方の機雷で9ヶ月を失った間、太平洋の戦況は決定的に変化した。バリ島沖海戦(2月)、スラバヤ沖海戦(3月)、ミッドウェー海戦(6月)、ガダルカナル島攻防戦開始(8月)、夏雲の戦没(10月)——山雲は全てを修理ドックから聞いていた。「戦わずして失った時間」は、山雲の艦歴の中で最大の空白であり、最大の皮肉だった。
1942年10月に前線復帰した山雲は、警備駆逐艦として横須賀鎮守府海面防備部隊に編入された。1943年2月8日——山雲は輸送船「龍田丸」を護衛してトラックへ向かっていた。龍田丸はかつて北米航路を行き来した大型客船(東洋汽船・1万6,975総トン)を改装した特設巡洋艦だった。その夜、龍田丸は米潜水艦ターポンの雷撃を受けて沈没した。山雲が引き返した時には、嵐の海に龍田丸の痕跡はなかった。風速20メートルの大時化——山雲は捜索したが、龍田丸に乗っていた1000名を超える人々の大部分を救助することができなかった。
龍田丸が雷撃を受けた時、山雲は龍田丸の前方を航行していた。後方で起きた爆発に気づいて引き返した時、嵐の夜の海に1万6,000トンの客船はすでに消えていた。救助できたのは「非常に少数」または「ゼロ」とされる。山雲は護衛任務を失敗し、1000名以上の命を救えなかった——それは「戦闘での敗北」とは異なる、「護衛者としての無力」を体験した瞬間だった。
1944年10月25日未明——スリガオ海峡。西村艦隊の単縦陣は「満潮→山雲→朝雲→時雨→山城→扶桑→最上」の順で進んでいた。山雲は先頭の満潮に続く2番手だった。米魚雷艇の先制攻撃を撃退した後、米駆逐艦隊の大規模な雷撃が始まった。午前2時20〜30分頃、満潮・山雲・朝雲がほぼ同時に被雷した。時雨艦長・西野昇太郎大尉の記録によれば「山雲は轟沈だった」。艦首から艦尾まで、山雲は一瞬で海の中に消えた。
ほぼ全員が戦死した。生存者1名がマニラ地区地上部隊に編入されたという記録があるが、その後の消息は不明だ。山雲から救助されたと確認できる者はいない。野分も同日別方向で撃沈され、第4駆逐隊は1日で全滅した。山雲の名は戦後、海上自衛隊のやまぐも型護衛艦1番艦「やまぐも」に継承された。
開戦31日目に味方の機雷で行動不能になり、1944年10月に敵の魚雷で轟沈した——山雲の艦歴は「機雷」と「魚雷」という2つの爆発で括られている。前者は「戦わずして失った9ヶ月」、後者は「全員の命」だった。龍田丸の1000名を救えなかった無力感、9ヶ月の修理ブランク——山雲という艦は、「できなかったこと」の積み重ねの中を生きた。それでも最後まで、戦い続けた。
山雲の本質は「沈黙の中を生き続けた艦」にある。開戦31日目に味方の機雷で戦列を離れ、9ヶ月の空白を経て復帰した。復帰後は護衛任務を担ったが龍田丸を失い、仲間の夏雲・峯雲が相次いで消え、2つの駆逐隊を渡り歩いて最後にスリガオへ向かった。山雲には「バリ島沖での大活躍」も「ビスマルク海での救助」も「キスカでの快挙」もなかった。ただ淡々と任務を続けた艦だった。
しかし「淡々と任務を続ける」ことの重さは、戦争の文脈では「目立つ戦功」と同じかそれ以上かもしれない。龍田丸を失った夜の無力感を抱えながら、山雲は翌日も任務に就いた。仲間が次々と消える中でも、新しい駆逐隊に加わり、スリガオへ向かった。「結果として轟沈した」という事実の裏に、その積み重ねがある。
「山に立ちこめた雲」——その名のとおり、山雲は静かに存在し続けた。朝雲の「怒れる生き残り」でもなく、朝潮の「命をかけた約束」でもなく、山雲は語られることの少ない地味な艦として記録に残った。しかし「山に立ちこめた雲」は簡単には晴れない。スリガオの海底に今も眠る山雲に、猫工艦は静かな敬意を捧げたい。
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「沈黙の艦歴」——味方機雷で始まり、敵魚雷で終わった山雲の魂を、その身に纏え
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『比島・マレー方面海軍進攻作戦』『捷号海上作戦』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)山雲公文備考 / 第9・第4駆逐隊戦時日誌
- ・Wikipedia「山雲 (駆逐艦)」「スリガオ海峡夜戦」「レイテ沖海戦」「龍田丸 (特設巡洋艦)」
- ・西野昇太郎「スリガオ海峡の夜戦——時雨艦長の証言」
- ・村井至「太平洋戦争と日本の駆逐艦 満潮、朝雲、山雲、時雨」
- ・片桐大自『帝国海軍全艦艇史』ベストセラーズ
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫