陽炎型 · 1番艦(ネームシップ) · 第18駆逐隊→第15駆逐隊
KAGERŌ 陽炎
艦隊型駆逐艦の集大成、その名を19隻に与えた艦
陽炎型駆逐艦19隻のネームシップ。友鶴事件・第四艦隊事件の教訓を完全に反映し、竣工時から九三式酸素魚雷を搭載した最初のクラスとして1939年11月に竣工。真珠湾攻撃からルンガ沖夜戦での重巡撃沈まで戦い抜きながら、1943年5月8日、ブラケット海峡で機雷に触れ戦没した。
SPECIFICATIONS
SPEC
基本諸元サマリー
TYPE
陽炎型 1番艦
DISPLACEMENT
2,000 t
MAX SPEED
35.0 kt
MAIN GUN
12.7cm × 6
TORPEDO
61cm × 8射線
FATE
1943.5.8 戦没
| 艦名 | 陽炎(かげろう) |
| 艦型・番艦 | 陽炎型駆逐艦 1番艦(ネームシップ) |
| 建造所 | 舞鶴海軍工廠 |
| 起工日 | 1937年9月3日 |
| 進水日 | 1938年9月27日 |
| 就役日 | 1939年11月6日(同型艦中最速で竣工) |
| 全長 | 118.5m |
| 全幅 | 10.8m |
| 吃水 | 3.76m |
| 基準排水量 | 2,000トン |
| 公試排水量 | 約2,490トン |
| 機関 | ロ号艦本式缶3基/艦本式タービン2基2軸 |
| 出力 | 52,000馬力 |
| 速力(計画) | 35.0ノット |
| 航続距離 | 18ノットで5,000海里 |
| 主砲 | 12.7cm連装砲C型 3基6門(最大仰角55度) |
| 魚雷発射管 | 九二式61cm4連装発射管 2基8門 |
| 搭載魚雷 | 九三式酸素魚雷(陽炎型は竣工時搭載の最初のクラス) |
| 対空機銃 | 25mm連装機銃2基(竣工時。1943年以降増備) |
| 爆雷 | 九四式爆雷投射機1基・投下台6基 |
| 電探 | 竣工時未装備(戦没のため未改装) |
| 初代艤装員長 | 山本岩多中佐(1939年8月10日就任) |
| 歴代艦長 | 山本岩多中佐 → 横井稔中佐 → 有本輝美智中佐(1941年12月22日〜) |
| 所属駆逐隊 | 第18駆逐隊(霞・霰=朝潮型)→ 第15駆逐隊(親潮・黒潮・早潮) |
| 特記事項 | 陽炎型19隻のネームシップ。竣工最速。酸素魚雷搭載最初のクラス。ネームシップにもかかわらず現存写真が非常に少ないとされる |
| 戦没 | 1943年5月8日 ブラケット海峡 |
| 戦没原因 | 米軍が5日前に敷設した機雷原に触雷。日中の空襲でも被弾 |
| 戦死者 | 18名(重傷11名・軽傷25名) |
BATTLE HISTORY
TIMELINE
竣工から戦没まで
1937年9月3日 — 起工
舞鶴海軍工廠にて起工
- 陽炎型では3番目の起工だが、建造が最も早く進み、結果的に1番艦(ネームシップ)となった。
1939年11月6日 — 竣工
同型艦中最速で竣工。第18駆逐隊(霞・霰)に編入
- 初代艤装員長は山本岩多中佐。当初の僚艦は朝潮型の霞・霰だった。
1940年10月11日 — 特別観艦式
紀元二千六百年特別観艦式に参加
- 横浜港沖で行われた帝国海軍最後の特別観艦式に、第18駆逐隊の僚艦と共に参加。
1941年11月26日 — 真珠湾攻撃
機動部隊護衛として単冠湾を出撃
- 赤城・加賀・蒼龍・飛龍・翔鶴・瑞鶴を中心とする機動部隊の護衛任務に従事。
1941年12月22日 — 艦長交代
開戦時艦長・横井稔中佐が病に倒れる
- 横井中佐が脳溢血で倒れ、有本輝美智中佐に指揮が交代した。
1942年4月 — セイロン沖海戦
ジャワ南方機動作戦・ポート・ダーウィン攻撃護衛
- 第二航空戦隊のポート・ダーウィン攻撃護衛も担当し、インド洋・南方海域で機動部隊を支えた。
1942年6月 — ミッドウェー海戦
攻略隊護衛。空母喪失後は重巡護衛に転じる
- 空母4隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)喪失後、大破した重巡最上・熊野・鈴谷の護衛任務に切り替えた。
1942年8月18-19日 — 一木支隊揚陸
僚艦相次ぐ撤退の中、ガ島付近に単艦残置
- 僚艦5隻で陸軍一木支隊をガダルカナル島に揚陸後、僚艦が次々に被弾・撤退。ガ島付近に残る駆逐艦は陽炎のみとなった。
1942年8月24-25日 — 一時旗艦
田中少将の将旗を一時的に掲げる
- 空襲で軽巡神通が大破後、輸送船団への将旗が一時的に陽炎へ移された。
1942年9月21日 — 夜間空襲
「カミンボ」で揚陸中に艦首被弾・浸水
- 機銃掃射により水線上に穴が開き、揚錨機が使用不能に。以後、月明下での鼠輸送は避けられるようになった。
1942年10月11日 — 前線復帰
工作艦「明石」で修理完了、飛行場砲撃作戦に編入
- 前進部隊に編入され、空母隼鷹・飛鷹の護衛を担当した。
1942年10月26-27日 — 南太平洋海戦
米搭乗員を捕虜として収容
- 米艦隊を追撃した陽炎と巻波が、空母エンタープライズ・ホーネットの搭乗員各1名を収容した。
1942年11月13-15日 — 第三次ソロモン海戦
輸送作戦支援。識別不能により攻撃機会を逃す
- 戦艦比叡・重巡衣笠・駆逐艦暁・夕立を失う激戦下、田中少将の命で親潮と共に突撃するも、敵味方の識別ができず攻撃には至らなかった。
1942年11月29-30日 — ルンガ沖夜戦
重巡ノーザンプトンを撃沈
- 予備魚雷を陸揚げした状態での交戦だったが、巻波と共に発射した魚雷2本が命中。日本側の戦術的勝利となった。
1942年12月〜1943年1月 — 輸送任務
ドラム缶輸送・ガ島撤収支援
- 複数回のドラム缶輸送任務を実施し、ケ号作戦(ガ島撤退)の支援隊としても参加した。
1943年2-4月 — 内地帰投・整備
呉で整備後、コロンバンガラ輸送任務へ
- 第15駆逐隊で外南洋部隊に編入され、コロンバンガラ島輸送任務を開始した。
1943年5月8日 04:06-04:11 — 陽炎も触雷
航行不能。直後に黒潮も爆沈
- 第一・第二缶室に浸水。実際には5日前に米軍が敷設したばかりの機雷原だった。
1943年5月8日 18:17 — 戦没
フェアウェイ島沖で沈没
- 日中の空襲で被弾・出火(鎮火)の後、浸水が進行し総員退去。戦死18名・重傷11名・軽傷25名。生存者は翌9日夜、大発により救助された。
SUMMARY
RECORD
陽炎 全艦歴まとめ
陽炎型19隻のネームシップとして、友鶴事件・第四艦隊事件の教訓を完全に反映した「理想の艦隊型駆逐艦」として1939年11月に竣工した「陽炎」。真珠湾攻撃からミッドウェー、ガダルカナルでの単艦残置、そしてルンガ沖夜戦での重巡ノーザンプトン撃沈まで、艦隊型駆逐艦として設計通りの働きを見せた。しかし最期は、敵艦との砲雷撃戦ではなく、存在しない潜水艦を追って迷い込んだブラケット海峡の機雷原だった。1943年5月8日、僚艦親潮・黒潮と共にこの海峡で戦没した。
ネームシップの皮肉——陽炎型19隻に名を与えたネームシップでありながら、現存する写真は非常に少ないとされる。その最期もまた、敵の実体ではなく敵の幻影(潜水艦誤認)に翻弄された末の機雷原突入だった。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書29・49・83・96『北東方面/南東方面海軍作戦』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)陽炎関連公文書
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・高田敏夫「第十五駆逐隊触雷沈没記」『丸別冊』潮書房、1985年
- ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年
- ・Wikipedia「陽炎 (陽炎型駆逐艦)」「陽炎型駆逐艦」