1944年11月3日、南シナ海。空母「隼鷹」を護衛していた駆逐艦「秋風」に、本来「隼鷹」へ向けられていたはずの魚雷が命中し、轟沈した。「秋風」は峯風型駆逐艦の1隻でありながら、この時すでに睦月型の第30駆逐隊に編入されていた——竣工から23年、艦型の垣根を越えて最前線に立ち続けた末の戦没だった。峯風型・野風型15隻は、日本海軍が初めて到達した「日本オリジナル」の艦隊駆逐艦として1920年代に生まれ、その多くが太平洋戦争の終わりまで、旧式艦としてなお戦い続けた。
峯風型は、それまで英国艦をモデルに試行錯誤を重ねてきた日本海軍が確立した、初の国産設計思想の駆逐艦だった。艦首楼甲板をカットしたウェルデッキ、艦橋の船体中央移動——これらは第一次大戦前のドイツ水雷艇に学んだ凌波性向上策であり、39ノットという高速はレキシントン級やイギリス巡洋戦艦への対抗を意識したものだった。中でも4番艦「島風」が記録した40.7ノットは、当時の日本海軍最速記録であり、後の丙型駆逐艦「島風」(1943年、40.9ノット)にその名と記録を引き継がせることになる。
15隻のうち13番艦「野風」以降の3隻は、主砲・魚雷発射管の配置を改良し、非公式に「野風型」と呼ばれた。この改良——後部主砲を背負式に近づけ、魚雷発射管を連続配置する設計——は、続く神風型・睦月型、そして特型以降の背負式配置へと発展していく、日本駆逐艦設計史の重要な転換点だった。太平洋戦争開戦時には既に20年選手の旧式艦だったが、15隻中5隻(澤風・汐風・夕風・波風・矢風)が終戦まで生き残るという、決して低くない生存率を記録している。
八四艦隊計画・八六艦隊計画のもと、1917年(大正6年)から1918年(大正7年)にかけて建造が始まった峯風型は、それまで日本海軍がイギリス駆逐艦の設計を手本にしてきた歴史に、初めて区切りをつけた艦型だった。艦首楼甲板を艦橋の直前でカットしてウェルデッキを設け、艦橋を船体中央部に寄せることで波浪の直撃を避けるという設計は、第一次世界大戦前のドイツ海軍が水雷艇に採用していた方式を取り入れたものだった。あわせて艦首にはスプーンバウを採用し、当時の秘密兵器「一号機雷」の運用にも対応させている。
主機にはパーソンズ式インパルス・リアクション・ギアード・タービンを搭載したが、竣工当初から故障が多く、この経験がのちの国産艦本式タービン開発の直接の契機となった。用兵側の満足には遠く及ばなかったものの、航洋駆逐艦としてようやく実用に足る性能を得た艦型と評価される。凌波性で用兵側を真に満足させるには吹雪型(特型)まで、航続距離の要求を満たすには無条約時代の陽炎型まで、それぞれ十数年を待たねばならなかった。
15隻のうち13番艦「野風」以降の最後の3隻(野風・波風・沼風)は、主砲・魚雷発射管の配置を改良したため、非公式に「野風型」あるいは「峯風改型」と呼ばれることがある。だが日本海軍の公式類別では、この3隻も含め全15隻が一貫して「峯風型」だった——「野風型」という艦種は、公式には存在しない。それでも後檣を後部に移し、3番砲と4番砲を背中合わせに配置するという設計変更は、続く神風型・睦月型、そして特型以降の背負式主砲配置へと発展する、日本駆逐艦史の重要な転換点となった。
峯風型・野風型15隻は、舞鶴海軍工廠と三菱長崎造船所の2箇所で建造された。太平洋戦争開戦時には既に20年選手の旧式艦だったが、多くが解体されることなく駆逐艦籍のまま最前線任務——輸送船団護衛、空母随伴、トンボ釣り(不時着水機搭乗員の救助)——に投入され続けた。8隻が戦没、2隻が哨戒艇・標的艦へ艦種変更、5隻が終戦まで生存している。
| 艦名 | 建造所 | 竣工日 | 特記・最期 |
|---|---|---|---|
| 峯風(みねかぜ)★型名艦 [諸元→] | 舞鶴海軍工廠 | 1920.5.29 | 主にトラック島方面への船団護衛に従事。1944.2.10、台湾沖で米潜水艦「ポーギー」の雷撃を受け戦没。 |
| 澤風(さわかぜ)★第1号艦 [諸元→] | 三菱長崎造船所 | 1920.3.16 | 起工から竣工まで全工程を最初に完了した艦(澤風型・澤風級とも呼ばれる由来)。終戦まで生存、船体は福島県小名浜港で防波堤に転用(1965年撤去)。 |
| 沖風(おきかぜ) | 舞鶴海軍工廠 | 1920.8.17 | 主に船団護衛に従事。1943.1.10、勝浦灯台南方で米潜水艦「トリガー」の雷撃を受け戦没。 |
| 島風(しまかぜ)★初代・40.7ノット記録 | 舞鶴海軍工廠 | 1920.11.15 | 公試で40.7ノットの当時最速記録を樹立。1940.4.1哨戒艇「第一号哨戒艇」に改称、第二次ソロモン海戦等に参加。1943.1.13、カビエン沖で米潜水艦「ガードフィッシュ」の雷撃で戦没。艦名は後の丙型駆逐艦「島風」(40.9ノット)に継承。 |
| 灘風(なだかぜ) | 舞鶴海軍工廠 | 1921.9.30 | 1940.4.1哨戒艇「第二号哨戒艇」に改称。1945.7.25、ジャワ海で英潜水艦「スタッボーン」の雷撃を受け戦没——峯風型・野風型最後の喪失艦。 |
| 矢風(やかぜ) | 三菱長崎造船所 | 1920.7.19 | 1942.5.5標的艦に改造、7.20除籍・特務艦へ艦種変更。航空攻撃訓練・船団護衛に従事。終戦を迎えるも横須賀係留中に浸水・着底、浮揚後解体。 |
| 羽風(はかぜ) | 三菱長崎造船所 | 1920.9.16 | 南方攻略作戦後、主に船団護衛に従事。1943.1.23、カビエン沖で米潜水艦「ガードフィッシュ」の雷撃を受け戦没。 |
| 汐風(しおかぜ) [諸元→] | 舞鶴海軍工廠 | 1921.7.29 | 主に空母機動部隊・船団護衛に従事。1944-45年に回天搭載艦へ改造。1945.2.15、睦月型の第1駆逐隊へ編入。終戦まで生存、船体は澤風と同じ福島県小名浜港で堤防に転用され現存。 |
| 秋風(あきかぜ)★睦月型第30駆逐隊に編入 | 三菱長崎造船所 | 1921.4.1 | 主に船団護衛に従事。1943年3月、ソロモン諸島で「秋風虐殺事件」の舞台となる。1944.5.1、睦月型の第30駆逐隊(卯月・夕月等)へ編入。同年11.3、空母「隼鷹」護衛中、本来隼鷹へ向けられた米潜水艦「ピンタド」の魚雷が命中し南シナ海で戦没。 |
| 夕風(ゆうかぜ) | 三菱長崎造船所 | 1921.8.24 | 空母「鳳翔」の随伴艦として行動、三日月と共に三航戦所属。ほぼ無傷で終戦を迎え、1947.8.14、戦時賠償艦としてイギリスへ引き渡された。 |
| 太刀風(たちかぜ) | 舞鶴海軍工廠 | 1921.12.5 | 第十一航空艦隊附属として行動。1944.2.17、トラック島空襲で米空母艦載機の攻撃を受け戦没。 |
| 帆風(ほかぜ) | 舞鶴海軍工廠 | 1921.12.22 | 北方作戦後、主に船団護衛に従事。1944.7.6、セレベス海サンギ島西岸沖で米潜水艦「パドル」の雷撃を受け戦没。 |
| 野風(のかぜ)★野風型 | 舞鶴海軍工廠 | 1922.3.31 | 1943年7月、キスカ島撤退作戦などに参加。1945.2.20、東シナ海で米潜水艦「パーゴ」の雷撃を受け戦没。 |
| 波風(なみかぜ)★野風型 | 舞鶴海軍工廠 | 1922.11.11 | 1943年7月、キスカ島撤退作戦などに参加。損傷離脱後、再投入されず終戦まで生存。1947.10.3、戦時賠償艦として中華民国へ引き渡された。 |
| 沼風(ぬまかぜ)★野風型 | 舞鶴海軍工廠 | 1922.7.24 | キスカ島撤退作戦などに参加。1943.12.18、沖縄南方沖で米潜水艦「グレイバック」の雷撃を受け戦没。 |
1944年5月1日、竣工から23年を経た峯風型「秋風」は、睦月型駆逐艦の第30駆逐隊(卯月・夕月・松風とともに)に編入された。艦型としては20年以上前の設計でありながら、峯風型はこうして最後まで最前線の一員として扱われ続けた。同年11月3日、空母「隼鷹」を護衛していた「秋風」に、米潜水艦「ピンタド」が発射した魚雷が命中する——本来「隼鷹」を狙った一撃が、たまたまそこにいた「秋風」を捉えたのである。「卯月」は護衛を続行し、「夕月」が生存者の捜索にあたったが、発見には至らなかった。峯風型でありながら睦月型の物語の一部となった「秋風」の最期は、艦型という区分を超えて、日本海軍の駆逐艦がどれほど柔軟に、そして過酷に運用され続けたかを物語っている。
峯風型4番艦「島風」は、公試運転で40.7ノットという、当時の日本海軍最速記録を樹立した。だが1940年、老朽化により哨戒艇「第一号哨戒艇」へと艦種変更され、1943年1月、カビエン沖で戦没する。その名と「最速」の称号は、1943年に竣工した丙型駆逐艦「島風」——次発装填装置を持たず、61cm5連装発射管3基15射線という破格の雷装で知られる、あの「島風」——へと引き継がれた。新型の「島風」が記録した40.9ノットは、旧「島風」の記録をわずかに更新するものであり、初代の挑戦が、20年以上の時を超えて後継艦の性能目標そのものになっていたことを示している。
「澤風」と「汐風」は、共に終戦まで生き延び、そして共に福島県小名浜港で防波堤に転用されるという、同じ運命をたどった。同じ艦型の2隻が、同じ場所で第二の人生を送ったという事実は、峯風型という艦型がどれほど地道に、そして長く、日本の戦後にまで足跡を残したかを物語っている。
峯風型・野風型の本質は、日本海軍が初めて自らの設計思想で作り上げた駆逐艦でありながら、太平洋戦争開戦時にはすでに旧式艦として扱われ、それでも最後まで最前線での任務を担い続けた、という一点にある。ウェルデッキと中央寄りの艦橋という凌波性向上策、そして13番艦以降の兵装配置改良——これらの設計上の工夫は、後の神風型・睦月型、さらには特型の背負式主砲配置にまで受け継がれる、日本駆逐艦発展史の礎となった。
しかし峯風型の物語は、技術史だけでは語り尽くせない。8隻が戦没する一方、5隻が終戦まで生き延び、うち2隻が戦時賠償艦として海外へ引き渡されるという結末は、この艦型がどれほど長く、そしてしぶとく戦争を生き抜いたかを物語っている。「秋風」が峯風型でありながら睦月型の艦隊に加わって散ったという事実、「島風」がその名と記録を後継艦に託したという事実——これらは、艦型という区分を超えて受け継がれていく、日本海軍駆逐艦全体の系譜そのものを象徴している。
峯風型・野風型が残したものは何か。それは、後に続くすべての日本駆逐艦の設計の出発点であり、そして「旧式艦」と呼ばれながらも最後まで戦い抜いた、地道な献身の記録である。猫工艦は、日本海軍駆逐艦史の原点に立った峯風型・野風型15隻すべてに、深い敬意を表したい。
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日本オリジナル設計の原点、そして旧式艦として最後まで戦い抜いた15隻——峯風型・野風型の意志を、その身に纏え
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書31『海軍軍戦備〈1〉昭和十六年十一月まで』、戦史叢書46『海上護衛戦』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)「一等駆逐艦 一般計画要領書 附現状調査」・各艦支那事変功績概見表
- ・『日本駆逐艦史』世界の艦船1992年7月号増刊第453集、海人社、1992年
- ・牧野茂、福井静夫編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年
- ・『丸』編集部編『写真日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』光人社、1990年
- ・森恒英『軍艦メカニズム図鑑 日本の駆逐艦』グランプリ出版、1995年
- ・Wikipedia「峯風型駆逐艦」「峯風 (駆逐艦)」「島風 (峯風型駆逐艦)」
- → 神風型駆逐艦(2代)——峯風型の改良発展型、全9隻の記録