神風型(2代) · 4番艦 · 第30駆逐隊
MATSUKAZE 松風
コロンバンガラを戦い抜き、船団旗艦として散った駆逐艦
舞鶴工作部が建造した神風型駆逐艦(2代)4番艦。フィリピン攻略戦、蘭印作戦、コロンバンガラ島沖海戦を経て、竣工から20年を経て睦月型の第30駆逐隊に編入。1944年6月9日、輸送船団の旗艦として父島沖で米潜水艦ソードフィッシュの雷撃を受け轟沈した艦の諸元と全戦歴。
SPECIFICATIONS
SPEC
基本諸元サマリー
| 艦名 | 松風(まつかぜ)※初代神風型「松風」に続き2隻目 |
| 艦型・番艦 | 神風型駆逐艦(2代) 4番艦 |
| 計画名称 | 第七駆逐艦→第七号駆逐艦 |
| 建造所 | 舞鶴工作部 |
| 起工日 | 1922年(大正11年)12月2日 |
| 進水日 | 1923年(大正12年)10月30日(軽巡「川内」と同日) |
| 竣工日 | 1924年(大正13年)4月5日 |
| 改名 | 1924年4月24日「第七号駆逐艦」/1928年8月1日「松風」に正式改称 |
| 類別等級表からの削除 | 1944年(昭和19年)8月10日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 全長 | 97.54m |
| 全幅 | 9.14m |
| 基準排水量 | 1,270t |
| 速力 | 39.2ノット(新造時公試)/常用34.0ノット |
| 主砲 | 12cm単装砲 4門 |
| 魚雷発射管 | 53.3cm連装発射管3基(6門) |
| 最終艦長 | 角野鉄男大尉(1944.1.18〜1944.6.9戦死) |
| 所属部隊 | 第5駆逐隊(朝風・春風・旗風)→睦月型第30駆逐隊(卯月・夕月・秋風)/第五水雷戦隊他 |
| 特記事項 | 1924年、竣工直後に戦艦「薩摩」の雷撃処分に参加。1944年2月、トラック島空襲で僚艦「文月」の曳航を試みるも空襲激化で中止。負傷した艦長は病院船で治療後、自ら艦に戻り指揮を継続した |
| 最期 | 1944年6月9日午前4時17分、第3606船団(第三護衛船団司令官・門前鼎少将旗艦)を護衛航行中、小笠原諸島父島沖(北緯27度14分・東経145度55分)で米潜水艦ソードフィッシュの雷撃を受け大爆発、轟沈。門前少将(戦死により中将昇進)・臨時参謀檜野武良中佐戦死。救助人員は准士官1名・下士官兵7名の計8名のみ |
TIMELINE
HISTORY
松風 全戦歴タイムライン
1922年12月2日 — 起工
舞鶴工作部にて起工(第七駆逐艦)
- 1921年10月12日、神風型駆逐艦7隻の命名の一環として「第七駆逐艦」の艦名が付与される。竣工直後「第七号駆逐艦」に、1928年8月1日「松風」に正式改称。
1924年9月2日 — 薩摩処分
戦艦「薩摩」の雷撃処分に参加
- ワシントン軍縮条約により標的艦とされていた「薩摩」が実弾射撃でも沈まず、第5駆逐隊(朝風・春風・松風)が雷撃で処分した。
1926年10月16日 — 座礁事故
山口県安岡町沖、第二水雷戦隊の座礁
- 佐世保から大阪経由横須賀へ移動中、旗艦「五十鈴」・「第7号駆逐艦」・「第9号駆逐艦」が座礁。「松風」はスクリュー破損等の損傷。艦長・吉田庸光中佐、航海長・藤牧美徳大尉が処分を受けた。
1936年 — 演習と事故
廃艦7号の観測、機関部小火災
- 5月上旬、空母「鳳翔」と共に廃艦7号(海防艦「見島」)への演習観測実施、5月5日廃艦7号沈没。9月6日、機関部で小火災発生、1名死亡・3名負傷。
1938-1940年 — 第45駆逐隊、再編
朝風と共に一時分離、後に復帰
- 1938年11月、朝風・松風で第45駆逐隊新編。1940年11月解隊、元の第5駆逐隊(朝風・春風・旗風・松風)に復帰。同日、第五水雷戦隊も編制。
1941年12月 — 太平洋戦争開戦
フィリピン攻略戦
- 第5駆逐隊は第五水雷戦隊所属としてフィリピン攻略戦に参加。
1942年3月-9月 — 蘭印作戦、ビルマ攻略
龍驤護衛、東南アジア方面の輸送任務
- 3月1日のバタビア沖海戦では第四航空戦隊(空母龍驤)護衛のため不参加。3月10日第五水雷戦隊解隊、第一南遣艦隊転属。3月下旬ビルマ攻略作戦。9月13-29日、陸軍輸送船護衛でバタビヤ〜ラバウル間を護衛。
1943年2-6月 — ラバウル方面進出
第5駆逐隊解隊、単艦で最前線へ
- 2月25日第5駆逐隊解隊。3月31日横須賀帰投、修理後6月23日出撃、ラバウル方面へ進出。
1943年7月9-20日
コロンバンガラ島沖海戦と夜戦部隊輸送隊
- 7月9-10日、輸送隊(皐月・三日月・松風・夕凪)としてコロンバンガラ島出動。7月12日、コロンバンガラ島沖海戦、輸送隊(皐月・水無月・夕凪・松風)参加。軽巡「神通」沈没、伊崎俊二司令官戦死。
- 7月19-20日、夜戦部隊輸送隊(三日月・水無月・松風)出動。夜間空襲で「清波」「夕暮」沈没、「熊野」「水無月」「松風」も損傷。
1943年8-10月 — レカタ・セ号・ベララベラ撤収作戦
陽動隊・輸送部隊として連続出撃
- 8月25日、レカタ撤収作戦、陽動隊(川内・漣・松風)。10月上旬、セ号作戦(コロンバンガラ撤収)、陽動隊(松風)。10月6日、ベララベラ撤収、輸送部隊(文月・夕凪・松風)。
1943年10月-1944年1月 — 横須賀帰投、再進出
第三水雷戦隊、ニューブリテン島輸送
- 10月27日横須賀帰投。12月9日再出撃、ラバウル方面へ。12月19日時点、第三水雷戦隊最前線8隻(文月・水無月・皐月・松風・夕凪・卯月・秋風・太刀風)。ニューブリテン島輸送任務に従事。1944年1月下旬、アドミラルティ諸島輸送も。
1944年2月17日
トラック島空襲、文月曳航中止
- トラック泊地で米機動部隊の空襲に遭遇。僚艦「文月」大破、「松風」は文月を海岸座礁させるべく曳航準備するも再空襲で中止、文月は沈没。
- 「松風」自身も損傷、病院船「天応丸」(元蘭病院船オプテンノール)に接舷し負傷者を引き渡す。負傷した松風艦長も同船で治療後、自ら艦に戻り指揮続行。
- この空襲で三水戦から「文月」「太刀風」が沈没。「松風」はサイパン回航後、3月1日横須賀帰投。
1944年3月10日-5月1日 — 中部太平洋部隊編入
第30駆逐隊へ、3艦型混成部隊に
- 3月10日、第三水雷戦隊麾下(松風・秋風・夕凪)が中部太平洋方面部隊編入。4月28日横須賀出撃。5月1日、峯風型「秋風」と共に第30駆逐隊(卯月・夕月)に編入、卯月型・神風型・峯風型の混成部隊に。
1944年6月6-9日
第3606船団旗艦、父島沖で轟沈
- 6月上旬、輸送船7隻・護衛艦多数からなる第3606船団の旗艦に。指揮官・門前鼎少将、臨時参謀・檜野武良中佐が乗艦。サイパンへ向かう最後の船団。
- 6月6日午前5時、館山出撃。6月9日午前4時17-19分、父島沖で米潜水艦ソードフィッシュの雷撃を受け大爆発、轟沈。門前少将(戦死により中将昇進)・檜野参謀戦死。救助人員わずか8名。
- 船団はサイパン行き中止、父島へ退避。
1944年8月10日 — 類別表・編制表から削除
神風型・第30駆逐隊から削除
- 内令により艦艇類別等級表の神風型の項、第30駆逐隊の編制表からそれぞれ削除された。
SUMMARY
RECORD
松風 全艦歴まとめ
松風は1924年に舞鶴工作部で竣工した神風型駆逐艦(2代)4番艦。竣工直後には戦艦「薩摩」の処分に参加し、1926年には座礁事故も経験している。太平洋戦争ではフィリピン攻略戦、蘭印作戦を経て、1943年のコロンバンガラ島沖海戦では輸送隊として参加、僚艦の喪失が相次ぐソロモンの消耗戦を生き延び続けた。1944年2月のトラック島空襲では僚艦「文月」の曳航を試みるも果たせず、自らも損傷しながら艦長は病院船での治療後に艦へ戻り指揮を継続した。同年5月、竣工から20年を経て睦月型の第30駆逐隊に編入。6月、輸送船団の旗艦として司令官・参謀を乗せてサイパンへ向かう途上、父島沖で米潜水艦「ソードフィッシュ」の雷撃を受け轟沈した。救助されたのはわずか8名のみだった。
3つの艦型を渡り歩いた最前線——神風型・峯風型・卯月型の混成部隊となった第30駆逐隊は、太平洋戦争末期の日本海軍がどれほど戦力を掻き集めていたかを物語る。
司令官と参謀を乗せた船団旗艦の轟沈——竣工から20年の旧式艦が、最後まで重要な指揮任務を託され続けたという事実は、太平洋戦争後半の日本海軍が置かれていた過酷な現実を物語る。
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コロンバンガラを戦い抜き、船団旗艦として散った駆逐艦——「松風」の記録を、その身に纏え
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第5水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報・海上護衛総司令部戦時日誌・第7昭和丸戦時日誌各号
- ・防衛庁防衛研修所戦史部『中部太平洋方面海軍作戦〈2〉昭和十七年六月以降』戦史叢書第62巻、朝雲新聞社、1973年
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
- ・木俣滋郎『撃沈戦記 海原に果てた日本艦船25隻の航跡』光人社NF文庫、2013年
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社NF文庫、1993年
- ・三神國隆『海軍病院船はなぜ沈められたか 第二氷川丸の航跡』光人社NF文庫、2005年
- ・高松宮宣仁親王『高松宮日記 第七巻』中央公論社、1997年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年
- ・Wikipedia「松風 (2代神風型駆逐艦)」「神風型駆逐艦 (2代)」
1944年6月9日午前4時17分、小笠原諸島・父島沖。輸送船7隻を率いる第3606船団の旗艦として、サイパンへ向けての最後の輸送任務についていた駆逐艦「松風」は、米潜水艦「ソードフィッシュ」の雷撃を受けた。大爆発とともに艦は轟沈し、乗艦していた第三護衛船団司令官・門前鼎少将と臨時参謀・檜野武良中佐が戦死した。救助された人員はわずか8名——准士官1名、下士官兵7名のみだった。
「松風」は神風型駆逐艦(2代)の4番艦として、舞鶴工作部で1922年12月2日に起工、1923年10月30日に進水、1924年4月5日に竣工した。当初は「第七駆逐艦」、続いて「第七号駆逐艦」と呼ばれ、1928年8月1日にようやく「松風」という固有の艦名を得ている。竣工から20年、フィリピン攻略戦から蘭印作戦、そしてソロモン諸島での輸送戦——「松風」はその艦歴を通じて、常に最前線の輸送任務を担い続けた。
その艦歴には、僚艦「文月」を救おうとして果たせなかった重い決断、負傷しながらも艦に戻り指揮を執り続けた艦長の姿、そして最後には南洋部隊の司令官を乗せたまま、輸送船団の旗艦として海に消えていった終わりが刻まれている。竣工から20年を経た「松風」の物語を辿る。
■ 神風型(2代)4番艦「松風」基本諸元 ■
進水・竣工
1923.10.30 → 1924.4.5
当初「第七駆逐艦」
最大速力
39.2ノット(新造時公試)
神風型・峯風型と同水準の高速を証明
魚雷兵装
53.3cm連装発射管3基(6門)
神風型の標準兵装
所属部隊
第5駆逐隊→睦月型第30駆逐隊
第五水雷戦隊他
特筆データ
コロンバンガラ島沖海戦に参加
第3606船団の旗艦を務めた
最終艦名・結末
1944.6.9 父島沖で戦没
米潜水艦ソードフィッシュの雷撃
前史——薩摩の処分から、座礁事故、そして機関部の火災
竣工からわずか5ヶ月後の1924年9月2日、「松風」は戦艦「薩摩」の処分作業に立ち会った。ワシントン海軍軍縮条約により標的艦とされていた「薩摩」は、実弾射撃を受けても沈まず、最終的に第5駆逐隊(第三号「朝風」・第五号「春風」・第七号「松風」)が雷撃で処分することになった。竣工したばかりの艦が、日本海軍で最も歴史ある戦艦の1隻を、その手で送り届けるという役目を担ったのである。
だが1926年10月16日未明、佐世保から大阪経由で横須賀へ向かっていた第二水雷戦隊は、山口県豊浦郡安岡町沖で座礁事故を起こす。旗艦「五十鈴」と共に「第7号駆逐艦(松風)」「第9号駆逐艦(旗風)」が座礁し、「松風」はスクリュー破損などの損傷を負った。当時の艦長・吉田庸光中佐と航海長・藤牧美徳大尉は、この事故の責任を問われ処分を受けている。1936年9月6日には機関部で小火災が発生し、1名が死亡、3名が負傷するという事故にも見舞われた。竣工から太平洋戦争開戦までの「松風」の艦歴には、こうした平時の事故もいくつか刻まれている。
■ 「松風」の全戦歴ハイライト ■
【1924.4.5】:舞鶴工作部で竣工(当初「第七駆逐艦」)
【1924.9.2】:戦艦「薩摩」の雷撃処分に参加
【1926.10.16】:山口県安岡町沖で座礁事故
【1941.12】:太平洋戦争開戦、フィリピン攻略戦
【1943.7.12】:コロンバンガラ島沖海戦、輸送隊として参加
【1943.7.19-20】:夜戦部隊輸送隊、清波・夕暮喪失の中で自らも損傷
【1944.2.17】:トラック島空襲、文月曳航を試みるも中止、松風も損傷
【1944.5.1】:睦月型の第30駆逐隊(卯月・夕月・秋風)に編入
【1944.6.9】:第3606船団旗艦として父島沖で戦没
【1944.8.10】:神風型駆逐艦・第30駆逐隊より削除
エピソード①——コロンバンガラ島、輸送隊としての死闘
1943年7月9日、外南洋部隊指揮官・鮫島具重中将直率のコロンバンガラ島敵艦艇撃滅・輸送作戦に、「松風」は輸送隊(皐月・三日月・松風・夕凪)の一員として参加する。米艦隊は現れず輸送のみを実施して引き上げたが、3日後の7月12日、今度はコロンバンガラ島沖海戦の本番が待っていた。ラバウル出撃の警戒隊とブイン出撃の輸送隊(皐月・水無月・夕凪・松風)が合流した直後、クラ湾で米艦隊との夜間水上戦闘が勃発する。輸送そのものは成功したが、軽巡「神通」が沈没し、第二水雷戦隊司令官・伊崎俊二少将と司令部が全滅した。
7月19日から20日にかけての作戦行動でも、「松風」は輸送隊(三日月・水無月・松風)としてコロンバンガラ島方面に出動する。だが夜間空襲により駆逐艦2隻(清波・夕暮)が失われ、「松風」自身も熊野・水無月と共に損傷を負った。それでも「松風」は任務を続け、8月のレカタ撤収作戦では陽動隊(川内・漣・松風)として、10月のセ号作戦(コロンバンガラ撤収)でも陽動隊としての役割を果たしている。同月のベララベラ撤収作戦でも輸送部隊(文月・夕凪・松風)として行動し、ソロモンの消耗戦を生き延び続けた。
エピソード②——トラック島空襲、文月を救えなかった判断
1944年2月17日、トラック泊地に所在していた「松風」は、「時雨」「春雨」等とともに米軍機動部隊によるトラック島空襲に遭遇する。この空襲で僚艦「文月」が大破し、当時の文月艦長・長倉義春少佐の証言によれば、「松風」は「文月」を海岸に座礁させるべく曳航準備を行った。だが再び空襲が始まると、「松風」は文月の曳航を中止して避退せざるを得なかった。その後「文月」は沈没している。
「松風」自身もこの空襲で損傷し、トラック泊地に停泊していた病院船「天応丸」(元オランダ病院船オプテンノール)に接舷して負傷者を引き渡した。この時、負傷していた松風艦長も「天応丸」で戦時治療を受けたが、治療後、艦長は「松風」に戻り、指揮を続行したと伝えられている。この一連の空襲により、第三水雷戦隊からは「文月」「太刀風」の2隻が沈没する大きな損害を受けた。「松風」はサイパンへ回航され、3月1日に横須賀へ帰投している。
■ 救えなかった僚艦、それでも戻った艦長
「文月」を救おうとした試みが空襲で断念せざるを得なかったという事実は、駆逐艦1隻の努力では戦況を覆せない現実を物語っている。それでも負傷した艦長が治療後に自らの艦へ戻り、指揮を執り続けたという事実は、この艦にとって最後まで責務を全うしようとする姿勢の表れだった。
エピソード③——睦月型の艦隊へ、そして最後の船団旗艦
1944年5月1日、竣工から20年を経た「松風」は、峯風型「秋風」とともに睦月型の第30駆逐隊(卯月・夕月)に編入された。神風型・峯風型・卯月型という3つの異なる艦型の混成部隊が、ここに生まれることになる。6月上旬、「松風」は輸送船7隻と護衛艦(千鳥・隠岐・天草・能美・駆潜艇2隻・特設掃海艇2隻)で編成された第3606船団の旗艦となった。この船団の指揮官は第三護衛船団司令官・門前鼎少将であり、軍令部からは臨時参謀として檜野武良中佐も「松風」に乗艦していた。この船団は、サイパン島(中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一中将)へ向かう最後の輸送船団となる。
6月6日午前5時、第3606船団は館山を出撃した。3日後の6月9日午前4時17分から19分にかけて、小笠原諸島父島沖で、米潜水艦「ソードフィッシュ」の雷撃を受けた「松風」は大爆発を起こし、轟沈する。乗艦していた門前鼎少将(戦死により海軍中将に昇進)と檜野武良参謀は戦死した。救助された人員は、准士官1名・下士官兵7名の合計8名のみだったと記録されている。船団はサイパン行きを中止し、父島へ退避した。
■ 父島沖、最後の航海 ■
6/6 5:00
第3606船団、館山出撃。サイパンへ向かう最後の船団
6/9 4:17
「ソードフィッシュ」の雷撃、大爆発
直後
轟沈。門前少将・檜野参謀戦死。生存者わずか8名
1944年8月10日、「松風」は艦艇類別等級表の神風型の項目、そして第30駆逐隊の編制表から削除された。竣工から20年、フィリピン攻略戦から蘭印作戦、ソロモン諸島での輸送戦、そして最後は司令官と参謀を乗せた船団旗艦としての戦没——「松風」の艦歴は、旧式駆逐艦が太平洋戦争のあらゆる局面でいかに酷使され続けたかを物語っている。
猫工艦の考察
「松風」の本質は、竣工から20年、太平洋戦争のほぼ全期間を通じて、常に最前線の輸送任務を担い続けた艦だった、という一点にある。戦艦「薩摩」の処分、コロンバンガラ島沖海戦、そして睦月型の艦隊への編入——この艦は艦型の垣根を超えて、日本海軍が必要とする場所に、必要とされる限り投入され続けた。
しかし「松風」の物語で最も重い意味を持つのは、僚艦「文月」を救おうとして果たせなかった判断と、負傷しながらも自らの艦へ戻った艦長の姿だろう。そして最期は、輸送船団の旗艦として司令官と参謀を乗せたまま、太平洋の海に消えていった。竣工から20年を経た旧式艦が、最後まで重要な指揮任務を託され続けていたという事実は、太平洋戦争後半、日本海軍がどれほど戦力の逼迫に直面していたかを物語っている。
「松風」が残したものは何か。それは、旧式艦がどれほど長く、そしてどれほど過酷に戦い続けたかという記録である。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに戦争の実務——輸送、護衛、そしてその先にある指揮官たちの重責——を、静かに教えてくれる。猫工艦は、神風型4番艦「松風」と、門前鼎少将・檜野武良中佐をはじめとする全乗組員に、深い敬意を表したい。
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コロンバンガラを戦い抜き、船団旗艦として散った駆逐艦——「松風」の記録を、その身に纏え
「竣工から20年、最前線を担い続けた旧式艦の記録」
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第5水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報・海上護衛総司令部戦時日誌・第7昭和丸戦時日誌各号
- ・防衛庁防衛研修所戦史部『中部太平洋方面海軍作戦〈2〉昭和十七年六月以降』戦史叢書第62巻、朝雲新聞社、1973年
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
- ・木俣滋郎『撃沈戦記 海原に果てた日本艦船25隻の航跡』光人社NF文庫、2013年
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社NF文庫、1993年
- ・三神國隆『海軍病院船はなぜ沈められたか 第二氷川丸の航跡』光人社NF文庫、2005年
- ・高松宮宣仁親王『高松宮日記 第七巻』中央公論社、1997年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年
- ・Wikipedia「松風 (2代神風型駆逐艦)」「神風型駆逐艦 (2代)」
峯風型 · 9番艦 · 第30駆逐隊
AKIKAZE 秋風
太平洋戦争の光と影を刻んだ駆逐艦
三菱長崎造船所が建造した峯風型駆逐艦9番艦。竣工から23年、太平洋戦争のほぼ全期間を戦い抜き、睦月型の第30駆逐隊に編入され、1944年11月、空母「隼鷹」護衛中に米潜水艦「ピンタド」の雷撃を受け戦没した。艦歴には1943年3月の「駆逐艦秋風虐殺事件」という重大な戦争犯罪の記録も含まれる、正確な史実の記録。
SPECIFICATIONS
SPEC
基本諸元サマリー
| 艦名 | 秋風(あきかぜ) |
| 艦型・番艦 | 峯風型駆逐艦 9番艦 |
| 計画 | 1917年度計画(八四艦隊案) |
| 建造所 | 三菱造船(株)長崎造船所 |
| 進水 | 1920年(大正9年) |
| 竣工日 | 1921年(大正10年)4月1日 |
| 除籍日 | 1945年(昭和20年)1月10日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 籍 | 横須賀鎮守府籍 |
| 全長 | 102.6m |
| 基準排水量 | 1,215t(竣工時)/公試1,345t |
| 出力 | 38,500馬力(計画) |
| 速力 | 39.0ノット(計画) |
| 主砲 | 12cm単装砲 4門 |
| 魚雷発射管 | 53.3cm連装発射管、魚雷8本搭載 |
| 最終艦長 | 山崎某艦長(戦没時、乗組員全員と共に行方不明・戦死認定) |
| 所属部隊 | 横須賀鎮守府部隊→第34駆逐隊(羽風・秋風・太刀風)→睦月型第30駆逐隊(松風・卯月・夕月)/第三水雷戦隊他 |
| 特記事項 | 1943年3月18日、「駆逐艦秋風虐殺事件」——カビエンからラバウルへの移送中、艦上でカイリル島・マヌス島等の民間人約70名(ドイツ人を中心とする多国籍)が死亡。戦後、連合国により戦争犯罪として調査された |
| 最期 | 1944年11月3日午後10時53分、空母「隼鷹」護衛中、米潜水艦「ピンタド」の魚雷が命中し大爆発。午後10時58分沈没。乗組員全員行方不明 |
| 戦後 | 1991年、呉海軍墓地に慰霊碑建立(1983年建立の「隼鷹」慰霊碑の傍ら) |
TIMELINE
HISTORY
秋風 全戦歴タイムライン
1921年4月1日 — 竣工
竣工。横須賀鎮守府に所属
- 一等駆逐艦に類別、横須賀鎮守府籍に編入。日本近海での任務に従事。
1933年3月 — 昭和三陸地震
被災地への救援任務
1937-1940年 — 日中戦争、第34駆逐隊編入
華中沿岸作戦から南方戦線へ
- 日中戦争で華中沿岸の諸作戦に参加。1940年末、「羽風」「太刀風」と第34駆逐隊を編成。
1943年3月18日
駆逐艦秋風虐殺事件
- カビエンを出港しラバウルへ向かう途上、艦上のカイリル島・マヌス島等の民間人(ドイツ人を中心に多国籍、約70名)が死亡。
- 戦後、連合国の戦争犯罪調査対象に。第八艦隊(三川軍一中将・大西新蔵少将)と南東方面艦隊(草鹿任一中将)の間で指揮責任の所在が争われる。
- 1948年10月、旧「秋風」機関長・小口茂ら乗組員が裁判の証人に。同月、南東方面艦隊戦時日誌の提出により指揮系統が明らかにされた。
1943年後半-1944年前半 — ラバウル方面での任務
船団護衛・輸送任務を継続
- ラバウル方面を中心に、南西太平洋での海上護衛戦に従事し続ける。
1944年5月1日 — 第30駆逐隊編入
睦月型の艦隊へ、峯風型のまま加わる
- 「松風」「卯月」「夕月」と共に第三水雷戦隊隷下の第30駆逐隊を編成。竣工23年の艦体で最前線任務を続ける。
1944年6-9月 — 相次ぐ僚艦の喪失
第30駆逐隊、次々と艦を失う
- 6月、「松風」が米潜水艦「ソードフィッシュ」の雷撃で沈没。部隊は「皐月」「夕凪」を加え5隻編成に。
- 8月、「夕凪」が「ピクーダ」に撃沈。9月、「皐月」も空襲で戦没。部隊は「秋風」「卯月」「夕月」の3隻に。
1944年10月 — 捷一号作戦
小沢艦隊給油タンカーの護衛
- 小沢治三郎中将率いる機動部隊の給油タンカー「仁栄丸」を護衛する任務にあたる。
1944年10月30日-11月3日
隼鷹隊合流、南シナ海での最期
- 10月30日、隼鷹隊が佐世保出発。「秋風」は31日に合流。台湾・馬公に立ち寄った後、ブルネイへ向け航行。
- 11月3日午後10時53分、米潜水艦「ピンタド」が「隼鷹」に向け発射した魚雷6本のうち1本が「秋風」に命中、大爆発。
- 午後10時58分、艦尾部分沈没。「夕月」が救援にあたるも、山崎艦長以下乗組員全員行方不明。「卯月」「夕月」の爆雷攻撃でピンタドは離脱、「隼鷹」は無事だった。
- 沈没地点:ルソン島サンフェルナンド西方(北緯16度50分・東経117度11.9分)。
1945年1月10日 — 除籍
峯風型・帝国駆逐艦籍より除籍
- 同日、多号作戦で残存していた「夕月」「卯月」も戦没しており、第30駆逐隊も同日付で解隊された。
1991年 — 慰霊碑建立
呉海軍墓地に「秋風」の慰霊碑
- 1983年に建立された空母「隼鷹」の慰霊碑の傍らに、8年後、「秋風」の慰霊碑が建立された。
SUMMARY
RECORD
秋風 全艦歴まとめ
秋風は1921年に三菱長崎造船所で竣工した峯風型駆逐艦9番艦。竣工後は横須賀鎮守府に所属し、昭和三陸地震での救援任務、日中戦争での華中沿岸作戦などに従事した。艦歴の中には、1943年3月18日の「駆逐艦秋風虐殺事件」という重大な戦争犯罪の記録が含まれ、戦後、連合国による戦争犯罪調査と裁判の対象となった。1944年5月、竣工から23年を経て睦月型の第30駆逐隊に編入され、相次ぐ僚艦の喪失を経験しながらも最前線任務を続けた。同年11月3日、空母「隼鷹」護衛中に米潜水艦「ピンタド」の雷撃を受け、大爆発とともに戦没。乗組員全員が行方不明となった。1945年1月10日除籍。1991年、呉海軍墓地に慰霊碑が建立されている。
史実として正確に記録すべき出来事——1943年3月の事件は、戦後に連合国の戦争犯罪調査対象となった重大な史実である。指揮命令系統の所在は当時の関係者の間で争われ、南東方面艦隊の戦時日誌によって明らかにされた。
盾となったのか、偶然だったのか——「隼鷹」を狙った魚雷が「秋風」に命中したことで空母は難を逃れた。この最期の真相は、今も定かではない。
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峯風型9番艦——太平洋戦争の光と影を刻んだ「秋風」の記録
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■ 参考文献・資料
- ・防衛庁防衛研修所戦史部『中部太平洋方面海軍作戦〈2〉昭和十七年六月以降』戦史叢書第62巻、朝雲新聞社、1973年
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
- ・木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・寺内正道ほか『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』潮書房光人社、2015年
- ・塚田享「ラバウル海域の雄『峯風型』の三十四駆逐隊」(戦史研究論考)
- ・『丸』編集部編『写真 日本の軍艦 駆逐艦I 睦月型・神風型・峯風型』第10巻、光人社、1990年
- ・BC級戦犯裁判関連記録(連合国戦争犯罪調査記録)
- ・Wikipedia「秋風 (駆逐艦)」「峯風型駆逐艦」
- → 【諸元と全戦歴】松風——竣工から父島沖での最期まで
1944年11月3日午後10時53分、南シナ海。台湾・馬公からブルネイへ向けて航行中の空母「隼鷹」を護衛していた駆逐艦「秋風」は、米潜水艦「ピンタド」が発射した魚雷の直撃を受けた。大爆発とともに艦体は分断され、わずか5分後の午後10時58分、艦尾部分が沈没した。山崎艦長をはじめ、乗組員全員が行方不明となり、後に戦死認定される。ピンタドが放った魚雷は本来「隼鷹」に向けられたものだったのか、それとも「秋風」自身が身を挺してこれを遮ったのか——真相は今も定かではない。
「秋風」は峯風型駆逐艦の9番艦として、三菱長崎造船所で1920年に進水、1921年4月1日に竣工した。横須賀鎮守府に所属し、1933年の昭和三陸地震では救援任務にあたり、日中戦争では華中沿岸作戦に従事した。太平洋戦争末期には、竣工から20年を超える艦齢のまま睦月型の第30駆逐隊に編入され、最前線での任務を続けた末に戦没している。
だが「秋風」の艦歴を語る上で、避けて通ることのできない出来事がある。1943年3月、ニューギニア方面で発生した「駆逐艦秋風虐殺事件」である。この記事は、その事実を含めて「秋風」という艦の全ての歴史を、正確に、そして誠実に記録することを目的としている。
■ 峯風型9番艦「秋風」基本諸元 ■
基準排水量
1,215t(竣工時)
→公試1,345t
全長 102.6m
最大速力
39.0ノット(計画)
出力38,500馬力
魚雷兵装
53.3cm連装発射管(魚雷8本)
六年式魚雷
所属部隊
第34駆逐隊→睦月型第30駆逐隊
第三水雷戦隊他
特筆事項
1943年3月「秋風虐殺事件」
戦後に責任が調査された戦争犯罪
最終艦名・結末
1944.11.3 南シナ海で戦没
米潜水艦ピンタドの雷撃
前史——三陸沖の救援から、太平洋戦争の最前線へ
竣工した「秋風」は横須賀鎮守府に所属し、日本近海での任務に従事した。1933年3月に発生した昭和三陸地震では、被災地への救援任務にあたっている。1937年からの日中戦争では華中沿岸での作戦に参加し、1940年末には第34駆逐隊(羽風・秋風・太刀風)に編入された。竣工から20年を経ても、「秋風」は依然として第一線任務に投入され続けていた。
太平洋戦争開戦後は南方戦線に投入され、ラバウル方面を中心に船団護衛や輸送任務に従事する。だがその艦歴の中に、1943年3月、決して見過ごすことのできない重大な出来事が刻まれることになる。
駆逐艦秋風虐殺事件——記録されるべき史実
1943年3月18日、「秋風」はカビエンを出港し、ラバウルへ向かった。艦上には、カイリル島とマヌス島などの現地住民、ドイツ人を中心とする多国籍の民間人およそ70名が乗せられていた。命令により、これらの住民をラバウルへ移送するための輸送だったとされている。しかし乗せられた人々の誰1人として、ラバウルの地を踏むことはなかった。移送中の艦上で、老若男女を問わず全員が命を落としたのである。
この処刑の理由は、今もはっきりとは判明していない。犠牲者の中には10歳に満たない子供も含まれていたことが記録されている。艦長はこの命令に抵抗したいという意向を示していたとされるが、上官の命令に逆らうことはできなかった。艦長以下、乗組員たちがこの命令をどのように受け止め、実行に至ったのかについては、生存者の証言や戦後の裁判記録の中で語られている。
この事件は「駆逐艦秋風虐殺事件」として記録され、戦後、連合国による戦争犯罪調査の対象となった。責任の所在を巡っては、当時「秋風」を指揮下に置いていたとされる第八艦隊司令長官・三川軍一中将と参謀長・大西新蔵少将、そして南東方面艦隊司令長官・草鹿任一中将の間で、指揮命令系統についての主張が対立した。三川・大西の両名は、事件当時の「秋風」が南東方面部隊(南東方面艦隊司令長官・草鹿任一中将)の指揮下、その命令を受けて行動していたと反論している。
1943年3月から4月にかけてのラバウル方面は、ビスマルク海海戦(第81号作戦)や「い号作戦」の実施をめぐり、連合艦隊・南東方面艦隊(第十一航空艦隊)・第三艦隊・第八艦隊・陸軍の指揮系統が複雑に絡み合う状況にあった。1948年10月上旬の裁判では、元「秋風」機関長・小口茂ら乗組員が被告側証人として出廷。同月15日、海軍兵学校54期出身の土肥一夫が南東方面艦隊の戦時日誌を法廷に提出したことにより、事件当時の「秋風」が南東方面艦隊の指揮下にあったことが示された。この調査と裁判の過程は、戦争という極限状況下における命令系統の責任のあり方を、今に問い続けている。
■ 記録し、記憶するということ
この事件について、猫工艦は英雄的な戦歴として語ることは決してしない。1隻の艦の歴史を伝えるにあたり、その艦がたどった全ての事実——輝かしい功績も、深く重い過ちも——を、可能な限り正確に、そして誠実に記録することこそが、歴史を伝える者の責任だと考えている。
■ 「秋風」の全戦歴ハイライト ■
【1921.4.1】:三菱長崎造船所で竣工
【1933.3】:昭和三陸地震、救援任務
【1940末】:第34駆逐隊編入
【1943.3.18】:駆逐艦秋風虐殺事件
【1944.5.1】:睦月型の第30駆逐隊(松風・卯月・夕月)に編入
【1944.6】:僚艦「松風」がソードフィッシュに撃沈
【1944.8-9】:「夕凪」「皐月」が相次いで戦没
【1944.10】:捷一号作戦、小沢艦隊給油タンカー護衛
【1944.11.3】:空母「隼鷹」護衛中、米潜水艦「ピンタド」の雷撃を受け轟沈
【1945.1.10】:帝国駆逐艦籍より除籍。第30駆逐隊も解隊
【1991年】:呉海軍墓地に「秋風」慰霊碑建立
エピソード①——睦月型の艦隊へ、そして次々と失われる僚艦
1944年5月1日、竣工から23年を経た「秋風」は、睦月型駆逐艦の第30駆逐隊(松風・卯月・夕月)に編入された。峯風型でありながら睦月型の艦隊に加わり、第三水雷戦隊の一員として最前線任務にあたることになる。だがこの部隊の運命は過酷だった。6月には僚艦「松風」が米潜水艦「ソードフィッシュ」の雷撃で沈没。部隊は「皐月」「夕凪」を加え5隻編成となるが、8月には「夕凪」が「ピクーダ」に撃沈され、9月には最前線を走り続けていた「皐月」も空襲で戦没する。わずか数ヶ月のうちに、部隊はまたたく間に「秋風」「卯月」「夕月」の3隻にまで減っていった。
それでも「秋風」は任務を続けた。10月の捷一号作戦では、小沢治三郎中将率いる機動部隊の給油タンカー「仁栄丸」を護衛する任務にあたっている。竣工から20年を大きく超えた旧式艦でありながら、日本海軍にとって「秋風」は、最後まで頼らざるを得ない戦力の1つであり続けた。
エピソード②——隼鷹への一撃、盾となったのか、偶然だったのか
1944年10月30日、空母「隼鷹」を中心とする隼鷹隊は佐世保を出発し、31日、「秋風」がこれに合流した。台湾・馬公に立ち寄った後、ブルネイに向けて航行していた11月3日夜、米潜水艦「ピンタド」が「隼鷹」に向けて魚雷6本を発射する。だがピンタドの魚雷は「隼鷹」ではなく、「秋風」に命中した。
午後10時53分の大爆発により「秋風」の艦体は分断され、艦尾部分は5分後の午後10時58分に沈没した。「夕月」が救援にあたったが、山崎艦長をはじめ乗組員全員が行方不明となり、後に戦死認定される。「卯月」「夕月」による爆雷攻撃を受けたピンタドは戦場から離脱し、結果として「隼鷹」は難を逃れた。「秋風」が「隼鷹」の盾となるべく身を挺したのか、それとも本来「隼鷹」を狙った魚雷がたまたま外れて「秋風」に命中したのか——真相は今も定かではない。
■ 南シナ海、最後の夜 ■
11/3 22:53
「ピンタド」の魚雷が「秋風」に命中、大爆発
直後
「卯月」「夕月」が爆雷攻撃、ピンタド離脱。「隼鷹」は無事
1945年1月10日、「秋風」は峯風型駆逐艦・帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。同日、多号作戦で残存していた「夕月」「卯月」の2隻も戦没しており、第30駆逐隊も解隊された。「秋風」の慰霊碑は、沈没から半世紀近くを経た1991年、隼鷹の慰霊碑(1983年建立)の傍らに、呉海軍墓地に建立されている。
猫工艦の考察
「秋風」の艦歴を振り返るとき、私たちはこの艦を単純な英雄譚として語ることはできない。竣工から23年、太平洋戦争のほぼ全期間を戦い抜いた駆逐艦としての功績——救援任務、船団護衛、そして最後には空母を守る盾になったかもしれないという最期——がある一方で、1943年3月の出来事は、この艦の歴史に決して消えることのない重い記録として刻まれている。
軍艦もまた、その時代と命令系統の中に置かれた存在だった。「秋風」の乗組員たちが置かれていた状況、そして戦後の裁判で問われ続けた指揮命令の所在——これらは、戦争という極限状況が人間に何を強い、そして誰が責任を負うべきなのかという、重く困難な問いを私たちに投げかけ続けている。
猫工艦は、「秋風」という艦の歴史を、その全てにおいて正確に伝えることを使命としている。輝かしい献身の記録も、深く重い過ちの記録も、共にこの艦が背負ってきた事実である。私たちはこの艦を美化することも、その過ちを覆い隠すこともせず、ただ史実として記録し、伝え続けたい。
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峯風型9番艦——太平洋戦争の光と影を刻んだ「秋風」の記録
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■ 参考文献・資料
- ・防衛庁防衛研修所戦史部『中部太平洋方面海軍作戦〈2〉昭和十七年六月以降』戦史叢書第62巻、朝雲新聞社、1973年
- ・防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
- ・木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・寺内正道ほか『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』潮書房光人社、2015年
- ・塚田享「ラバウル海域の雄『峯風型』の三十四駆逐隊」(戦史研究論考)
- ・『丸』編集部編『写真 日本の軍艦 駆逐艦I 睦月型・神風型・峯風型』第10巻、光人社、1990年
- ・BC級戦犯裁判関連記録(連合国戦争犯罪調査記録)
- ・Wikipedia「秋風 (駆逐艦)」「峯風型駆逐艦」
- → 松風——同じ第30駆逐隊で船団旗艦として散った神風型の艦
峯風型 · 8番艦 · 第三駆逐隊
SHIOKAZE 汐風
僚艦「梅」を見送り、今も小名浜港に眠る駆逐艦
舞鶴海軍工廠が建造した峯風型駆逐艦8番艦。空母「龍驤」護衛、蘭印攻略戦、そして太平洋戦争後半の輸送船団護衛では幾多のウルフパック攻撃を目撃した。1945年1月、僚艦「梅」を自らの手で処分。回天搭載艦への改造を経て終戦を迎え、1948年、姉妹艦「澤風」と同じ小名浜港に沈設。「澤風」が1965年撤去された今も、この艦は現地に眠り続けている艦の諸元と全戦歴。
SPECIFICATIONS
SPEC
基本諸元サマリー
| 艦名 | 汐風(しおかぜ/しほかぜ) |
| 艦型・番艦 | 峯風型駆逐艦 8番艦 |
| 計画 | 1917年度計画(八四艦隊案) |
| 建造所 | 舞鶴海軍工廠 |
| 起工日 | 1920年(大正9年)5月15日 |
| 進水日 | 1920年(大正9年)10月22日 |
| 竣工日 | 1921年(大正10年)7月29日 |
| 除籍日 | 1945年(昭和20年)10月5日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 籍 | 横須賀鎮守府籍 |
| 全長 | 102.6m |
| 基準排水量 | 1,215t(竣工時)/公試1,345t |
| 出力 | 38,500馬力(計画) |
| 速力 | 39.0ノット(計画) |
| 主砲(竣工時) | 12cm単装砲 4門 |
| 主砲(最終時) | 45口径三年式12cm単装砲 1門のみ(回天搭載艦改造で撤去) |
| 機銃(最終時) | 25mm連装機銃 6基、13mm単装機銃 8挺 |
| 特殊兵装(最終時) | 特攻兵器「回天」 4艇搭載、艦尾発進用スロープ新設 |
| 電探(最終時) | 22号電探(艦橋後部)、13号電探(前部マスト) |
| 初代艦長 | (心得)高橋為次郎少佐(1921年6月8日〜) |
| 最終艦長 | 河辺忠四郎少佐(1945年7月15日〜終戦時) |
| 所属部隊 | 第三駆逐隊(島風・灘風・夕風)/第一航空艦隊第四航空戦隊他 |
| 特記事項 | 1942年3月、僚艦「松風」と共にオランダ掃海艇「エンデ」を撃沈。1945年1月、被弾航行不能となった松型「梅」を、生存者退艦後に自ら砲撃処分した |
| 終戦時 | 呉に在泊、無傷。第1駆逐隊(連合艦隊付属)所属 |
| 戦後 | 1945年12月、特別輸送艦(復員輸送艦)として復員輸送に従事。1948年8月25日、福島県小名浜港1号埠頭先端に防砂防波堤として埋設。姉妹艦「澤風」が1965年撤去された後も、現在まで現地に現存 |
TIMELINE
HISTORY
汐風 全戦歴タイムライン
1920年5月15日 — 起工
舞鶴海軍工廠にて起工
- 1917年度計画(八四艦隊案)による建造。1921年7月29日竣工、横須賀鎮守府籍・一等駆逐艦に類別。12月5日、第三駆逐隊に編入。
1922-1938年 — 所属変遷を重ねる第三駆逐隊
第二水雷戦隊、大湊要港部、横須賀警備戦隊
- 1922年12月、第二艦隊第二水雷戦隊指揮下。1923年12月、横須賀鎮守府予備艦。1925年12月、再び第二水雷戦隊指揮下。1926年12月、再び予備艦。
- 1930年12月、大湊要港部指揮下。1932年12月、横須賀鎮守府部隊指揮下。1933年・1935年、横須賀警備戦隊編入。
1928年3月9日 — 潜水艦と衝突
横須賀湾で「伊21」と衝突事故
- 午前11時、横須賀湾で魚雷発射訓練中、速力試験中の潜水艦「伊21」と衝突し損傷。横須賀で修理。
1937年 — 日中戦争
華南沿岸作戦に参加
- 9月、第三駆逐隊は第三艦隊第三水雷戦隊指揮下に。1938年12月、第三駆逐隊解隊、汐風は横須賀鎮守府部隊指揮下へ。1940年2月、予備艦。
1940年10-11月 — 第三駆逐隊再編、トンボ釣り
夕風・帆風と共に第一航空戦隊指揮下へ
- 10月15日、夕風・帆風と第三駆逐隊再編成。11月15日、第一艦隊第一航空戦隊指揮下となりトンボ釣り(不時着機救助)に従事。
- 1941年4月、第三駆逐隊(汐風・帆風)は第一航空艦隊第四航空戦隊指揮下に。
1941年11月-1942年1月 — 龍驤護衛
空母「龍驤」とパラオへ
- 11月29日、空母「龍驤」を護衛し佐世保出港、12月5日パラオ到着。以降「龍驤」と行動を共にする。1942年1月10日、第三駆逐隊解隊、第四航空戦隊付属に。
1942年3-7月 — エンデ撃沈、アリューシャン作戦
蘭印攻略戦から北方戦線へ
- 3月2日、ビリトン島南方80浬で「松風」と共にオランダ海軍掃海艇「エンデ」を撃沈。4月、重巡「鳥海」護衛でシンガポールから横須賀へ。
- アリューシャン攻略作戦(AL作戦)参加のため大湊へ移動、特設水上機母艦「君川丸」を護衛。7月3日、被爆した「君川丸」を横須賀まで護衛。
1942年後半-1943年前半 — 南方船団護衛
第一海上護衛隊編入
- 千島列島輸送船団護衛の後、舞鶴経由で南方船団護衛に従事。10月1日、第一海上護衛隊編入。1943年1月、横須賀で整備後、再び南方護衛。
1943年9月13日 — 大和丸沈没
舟山群島沖、スヌークを取り逃がす
- 基隆行き第195船団護衛中、米潜水艦「スヌーク」の雷撃で陸軍輸送船「大和丸」(9,655トン)が沈没。汐風は爆雷攻撃するも取り逃がす。
1943年10月10-15日 — 志かご丸沈没
台湾彰化沖、タリビーの雷撃
- 高雄行き第105船団を単独護衛中、米潜水艦「タリビー」に発見・追跡され、15日未明「志かご丸」(6,182トン)が被雷沈没。他船が生存者を救助。
1943年10月24-28日
マ08船団、ウルフパックによる連続喪失
- 「加茂丸」「富士丸」「鴨緑丸」の門司行きマ08船団を護衛。27日未明、奄美大島沖で米潜水艦「グレイバック」「シャード」の群狼作戦に遭遇。
- 「加茂丸」被雷、「富士丸」も救助中に被雷し沈没。「鴨緑丸」にも被雷(不発)、汐風は救助作業を打ち切り。28日門司到着。
1943年12月13-20日 — さらわく丸損傷
沖縄南方、アスプロを取り逃がす
- 高雄行き第121船団(輸送船15隻)を第33号掃海艇と護衛。17日夜、米潜水艦「アスプロ」の攻撃で「さらわく丸」ほかタンカー1隻が損傷。爆雷20発投下も取り逃がす。
1944年2-4月 — ヒ45船団、ヒ40船団支援
海防艦三宅と共同護衛
- 2月16日、ヒ45船団を海防艦「三宅」と護衛し門司出港。米潜「ジャック」に攻撃されたヒ40船団の護衛支援に一時分離。27日昭南到着。
- 3月15日、ヒ50船団を海防艦「佐渡」と護衛、サンジャック・マニラ・高雄・馬公を経て4月8日門司到着。
1944年10月17-28日
ルバング島沖、ブルーギルによる3隻喪失
- マニラからミリへ退避する船団を護衛。18日朝、ルバング島北西で米潜水艦「ブルーギル」に発見される。
- 7時16分、「あらびあ丸」機関室付近と「鎮西丸」に被雷、鎮西丸沈没。正午過ぎ「あらびあ丸」に追撃、20時15分には「白鹿丸」にも被雷、共に沈没。
- 船団は20日バキット湾、24日ガヤ湾、28日ミリに到着。
1945年1月10-13日 — 第30駆逐隊解隊
パトリナオ輸送作戦へ
- 第30駆逐隊解隊、名目上の第30駆逐艦配備に。13日、佐世保出港・左営寄港後、高雄到着。フィリピンからの搭乗員救出作戦へ。
1945年1月31日
アパリ輸送、僚艦「梅」を処分
- 午前9時、松型「梅」「楓」と高雄出港。出撃2時間後、偵察B-24に発見される。
- 午後3時、ガランピ岬南方でB-25・P-38・P-47の空襲。汐風は至近弾で右舷タービン・推進軸損傷、乗員4名負傷。「楓」も艦首被弾。「梅」は直撃弾・至近弾で機関部損傷、20度傾斜し航行不能に。
- 「梅」生存乗員全員退艦後、汐風が砲撃処分。生存者を乗せ高雄へ引き返す。
1945年2月15-19日 — 回天搭載艦への改造
大湊警備府第1駆逐隊編入、呉で大改造
- 2月15日大湊警備府部隊第1駆逐隊編入。16日北号作戦護衛に参加も本隊から逸れる。19日呉到着、修理と共に回天搭載艦への改造開始。
- 魚雷・機銃・機雷設備撤去、主砲1番のみ残置。25mm連装機銃6基・13mm単装8挺装備。22号電探・13号電探装備。後部マスト移設、回天4艇搭載スペースと艦尾発進スロープ新設。
1945年3月1日 — 連合艦隊付属
第1駆逐隊、連合艦隊直属に
- 回天搭載艦としての改造を終え、連合艦隊付属となる。実戦での回天発進機会のないまま終戦を迎える。
1945年8月15日 — 無傷の終戦
呉にて終戦
- 竣工から24年、幾多の戦いを経て無傷のまま終戦を迎える。10月5日除籍。
1945年12月1日 — 復員輸送艦に
特別輸送艦として復員輸送に従事
- 多くの日本人を海外から故郷へ送り届ける任務にあたった。
1948年8月25日
小名浜港の防波堤として埋設、現存
- 解体後、船体は福島県小名浜港1号埠頭先端に防砂防波堤として埋設。同年4月に沈設された姉妹艦「澤風」に続く2隻目。
- 「澤風」が1965年に撤去された後も、「汐風」は現在まで現地に現存。2000年、解説プレート設置。艦尾部分のシルエットを囲む形でタイル舗装がなされている。
SUMMARY
RECORD
汐風 全艦歴まとめ
汐風は1921年に舞鶴海軍工廠で竣工した峯風型駆逐艦8番艦。竣工後は幾度も所属部隊を変えながら日本近海での任務を重ね、太平洋戦争開戦時には空母「龍驤」を護衛してパラオへ進出、蘭印攻略戦ではオランダ掃海艇「エンデ」を僚艦「松風」と共に撃沈した。太平洋戦争後半は南方輸送船団の護衛に従事し、マ08船団やルバング島沖での米潜水艦ウルフパック攻撃により、幾多の輸送船の喪失を目撃している。1945年1月31日、アパリへの緊急輸送作戦中に空襲を受け、被弾航行不能となった松型駆逐艦「梅」を、生存者退艦後に自らの手で砲撃処分した。その後呉で回天搭載艦への大改造を受け、連合艦隊付属として終戦を迎える。戦後は復員輸送艦として活動した後、1948年8月25日、姉妹艦「澤風」と同じ福島県小名浜港に防波堤として埋設された。「澤風」が1965年に撤去された後も、「汐風」は現在まで現地にその姿をとどめている。
ウルフパックの猛威を見届けた艦——マ08船団、ルバング島沖と、複数回にわたり米潜水艦の群狼作戦に翻弄される輸送船団を目撃した汐風の艦歴は、太平洋戦争後半の海上護衛戦の厳しさを物語る。
「梅」を見送った駆逐艦、今も残る姉妹艦との対照——僚艦を自らの手で処分するという重い任務を経て、汐風自身は今も小名浜港にその船体を残している。撤去された「澤風」との対照が、この艦の存在をより際立たせている。
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僚艦「梅」を見送り、今も小名浜港に眠る駆逐艦——「汐風」の記録を、その身に纏え
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)AL作戦経過概要・佐世保鎮守府戦時日誌・第一海上護衛隊戦時日誌・第百四号哨戒艇戦時日誌・第三十一戦隊戦時日誌・武装商船警戒隊戦闘詳報各号
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編』光人社NF文庫、1995年
- ・志賀博ほか『駆逐艦物語 車引きを自称した駆逐艦乗りたちの心意気』潮書房光人社、2016年
- ・山本平弥ほか『秋月型駆逐艦〈付・夕雲型・島風・丁型〉』潮書房光人社、2015年
- ・市川國雄「香り浅き『梅』バシー海峡に消えたり」
- ・Wikipedia「汐風 (駆逐艦)」「峯風型駆逐艦」
1945年1月31日午後3時、台湾最南端ガランピ岬南方20海里。アパリへの緊急輸送任務に向かっていた駆逐艦「汐風」と、僚艦「梅」「楓」は、B-25爆撃機12機とP-47戦闘機4機の空襲を受けた。「梅」は直撃弾と至近弾により機関部を損傷し、20度ほど傾斜したまま航行不能に陥る。浸水を防ぐ手立てはもはや残されていなかった。「梅」の生存乗員全員が退艦したのを見届けた後、「汐風」は自らの手で「梅」を砲撃処分した。竣工からわずか半年余りで海に消えていく僚艦を、「汐風」は最後まで見届けたのである。
「汐風」は峯風型駆逐艦の8番艦として、舞鶴海軍工廠で1920年5月15日に起工、同年10月22日に進水、1921年7月29日に竣工した。空母「龍驤」の護衛、蘭印攻略戦でのオランダ掃海艇撃沈、そして太平洋戦争後半には南方輸送船団の護衛任務——「汐風」はその艦歴の中で、幾度となく米潜水艦の「群狼作戦(ウルフパック)」に翻弄される輸送船団を目撃し、時に守り、時に守り切れずに終わってきた。
そして「汐風」の物語は、太平洋戦争の終わりでも途切れなかった。終戦後、船体は解体された姉妹艦「澤風」と同じ福島県小名浜港へと運ばれ、防波堤として埋設された。「澤風」が1965年に撤去されたのに対し、「汐風」は今もなお、その場所に眠り続けている。2000年には、この防波堤について解説するプレートが設置され、艦尾部分のシルエットを囲む形でタイル舗装がなされている。竣工から100年以上を経た今も、「汐風」は静かに、その存在を伝え続けている。
■ 峯風型8番艦「汐風」基本諸元 ■
進水・竣工
1920.10.22 → 1921.7.29
初代艦長(心得)高橋為次郎少佐
基準排水量
1,215t(竣工時)
→公試1,345t
全長 102.6m
最大速力
39.0ノット(計画)
出力38,500馬力
主砲
最終時:三年式12cm単装砲1門
回天搭載艦への改造で大幅減
最終兵装
25mm連装機銃6基・13mm単装8挺
魚雷・機雷関係は全て撤去
所属部隊
第三駆逐隊(島風・灘風・夕風)
第一航空艦隊第四航空戦隊他
特筆データ
回天搭載艦へ改造(回天4艇)
僚艦「梅」を自ら処分
最終結末
1948.8.25 小名浜港の防波堤に
現在も現地に現存
前史——潜水艦との衝突事故、そして龍驤との日々
竣工した「汐風」は横須賀鎮守府に所属し、同年12月、第三駆逐隊に編入された。1928年3月9日午前11時、横須賀湾で魚雷発射訓練中、速力試験を実施していた潜水艦「伊21」と衝突事故を起こし損傷、横須賀で修理を受けている。以後、第三駆逐隊は大湊要港部、横須賀鎮守府、横須賀警備戦隊と、幾度も所属を変えながら日本近海での任務を続けた。1937年からの日中戦争では華南沿岸作戦に参加している。
太平洋戦争開戦時、「汐風」は第一航空艦隊第四航空戦隊第三駆逐隊に所属していた。1941年11月29日、空母「龍驤」を護衛して佐世保を出港、12月5日にパラオへ到着し、以降「龍驤」と行動を共にする。1942年3月2日、ビリトン島南方80浬地点付近で、「汐風」は僚艦「松風」とともにオランダ海軍の掃海艇「エンデ」を撃沈した。同年4月には重巡「鳥海」の護衛でシンガポールから横須賀へ帰投、その後アリューシャン攻略作戦(AL作戦)に参加するため大湊へ移動し、特設水上機母艦「君川丸」の護衛にあたっている。
■ 「汐風」の全戦歴ハイライト ■
【1921.7.29】:舞鶴海軍工廠で竣工
【1928.3.9】:横須賀湾で潜水艦「伊21」と衝突事故
【1941.11-12】:空母「龍驤」護衛でパラオへ
【1942.3.2】:「松風」と共にオランダ掃海艇「エンデ」撃沈
【1943.9.13】:舟山群島沖、輸送船「大和丸」が被雷沈没
【1943.10.15】:台湾彰化沖、輸送船「志かご丸」沈没
【1943.10.27-28】:奄美大島沖、ウルフパック攻撃で「加茂丸」「富士丸」沈没
【1943.12.17】:沖縄南方、「さらわく丸」ほか損傷
【1944.10.17-18】:ルバング島沖、「あらびあ丸」「鎮西丸」「白鹿丸」喪失
【1945.1.31】:パトリナオ輸送作戦、僚艦「梅」を自らの手で処分
【1945.2.19】:呉で回天搭載艦への改造を受ける
【1945.8.15】:呉にて無傷で終戦
【1948.8.25】:小名浜港1号埠頭先端に防波堤として埋設。現存
エピソード①——ウルフパック、船団を切り裂く狼たち
1943年10月24日午後4時50分、「汐風」は貨客船「加茂丸」「富士丸」「鴨緑丸」で編成された門司行きのマ08船団を護衛して基隆を出港した。だが27日未明、奄美大島久慈湾西方108km地点付近で、船団は米潜水艦「グレイバック」「シャード」の群狼作戦(ウルフパック)による攻撃を受ける。「シャード」の魚雷が「加茂丸」の船首に命中し沈み始め、午後0時40分に船体放棄。停止して救助にあたっていた「富士丸」にも「グレイバック」の魚雷が命中し、午前6時50分に沈没した。
「鴨緑丸」は富士丸の生存者救助を終えて避退したのち、進路を戻して航行を再開する。「汐風」は引き続き救助活動を続けたが、午後0時25分、今度は「グレイバック」の魚雷が「鴨緑丸」に命中——幸い不発だったものの、「汐風」はこれ以上の危険を避けるため救助作業を打ち切らざるを得なかった。28日午後8時、「汐風」と「鴨緑丸」はようやく門司に到着する。一方、救助されなかった漂流者や「加茂丸」乗船者たちは、なおも浮いていた同船に戻って応急修理を行い、久慈湾に座礁させることで辛くも沈没を免れさせた。1つの船団が、複数の潜水艦による波状攻撃で次々と食い荒らされていく——このマ08船団の悲劇は、太平洋戦争後半の輸送船団護衛が置かれた過酷な現実を象徴していた。
■ マ08船団、ウルフパックの一夜 ■
6:20-6:50
救助中の「富士丸」に被雷、沈没
12:25
「鴨緑丸」にも被雷(不発)、救助作業打ち切り
その後
「加茂丸」乗船者、応急修理の末に自力座礁で生還
翌年10月17日夜、「汐風」はマニラからミリへ退避する輸送船団を護衛して出港する。18日朝、ルバング島北西25km地点で船団は米潜水艦「ブルーギル」に発見された。午前7時16分、ブルーギルが放った魚雷は「あらびあ丸」の機関室付近と、「鎮西丸」に命中——鎮西丸は沈没した。さらに正午過ぎ、損傷していた「あらびあ丸」に追い打ちの雷撃、そして午後8時15分には実際には別の船として船団に加わっていた「白鹿丸」にまで魚雷が命中し、この艦も沈んでいった。1隻の潜水艦が、1日のうちに3隻もの輸送船を沈める——これもまた、太平洋戦争末期の輸送船団が直面していた、絶望的な戦況の縮図だった。
■ 1隻の駆逐艦では守り切れない現実
「汐風」がどれほど懸命に船団を護衛しても、複数の潜水艦による同時多発的な攻撃の前では、その努力にも限界があった。1943年末から1944年にかけての太平洋戦争後半、日本の輸送船団護衛は、質・量ともに敵側が圧倒的優位に立つ中で行われていた。
エピソード②——梅、バシー海峡に消ゆ
1945年1月31日午前9時、「汐風」は松型駆逐艦「梅」「楓」とともに高雄を出港した。目的地はルソン島最北端のアパリ——同地防衛のための高雄陸戦隊、燃料、車両、弾薬を運ぶ輸送任務だった。輸送部隊は速力24ノットで南下したが、出撃からわずか2時間後、偵察のB-24に発見される。対空砲火で追い払ったものの、さらなる空襲は避けられない情勢となった。
午後3時、台湾最南端ガランピ岬南方20海里で、第14航空軍所属のB-25爆撃機12機、P-38・P-47戦闘機の空襲を受ける。「汐風」は至近弾により右舷高低圧タービンと右舷推進軸が損傷、速力低下と乗員4名の負傷を被った。「楓」も艦首に被弾。そして「梅」は直撃弾と至近弾を受け機関部を損傷、航行不能に陥る。船体は20度ほど傾斜し、浸水を防ぐ手立てはもはや失われていた。
「梅」の生存乗員全員が退艦したのを見届けた後、「汐風」は自らの手で「梅」を砲撃処分した。竣工からわずか半年余りで戦没する僚艦を、味方の手で見送るという、駆逐艦にとって最も重い任務の1つだった。「梅」の生存者を乗せた「汐風」と「楓」は、作戦の中止を受けて高雄へ引き返した。この一件は、後年『駆逐艦「梅」バシー海峡に消ゆ』として、生存乗組員自身の手記に残されることになる。
■ パトリナオ輸送作戦、最期の数時間 ■
15:00
B-25・P-38・P-47の空襲。「梅」航行不能、「汐風」「楓」も被弾
香り浅き「梅」、バシー海峡に消えたり
熾烈なる対空戦闘の果て、誕生六ヶ月余りで海底に没した愛艦への鎮魂歌
——当時「梅」乗組・海軍上等兵曹 市川國雄の手記より
エピソード③——回天搭載艦への変貌、そして無傷の終戦
「梅」を処分した「汐風」は基隆で応急修理を受けた後、1945年2月15日、大湊警備府部隊第1駆逐隊に編入される。翌16日には、本土呉港を目指す北号作戦の護衛に参加を命じられるが、暗黒と悪天候の中、速度を上げる艦隊本隊からはぐれてしまった。19日、単独で呉に到着した「汐風」は、修理と同時に大きな改造を受けることになる。特攻兵器「回天」の搭載艦として生まれ変わる改造だった。
魚雷兵装、機銃、機雷関係の設備が全て撤去され、主砲も1番砲を残して撤去。代わりに艦橋直前・2番砲跡・3番砲跡に25mm連装機銃を各2基、合計6基が装備された。艦形も大きく変わり、後部マストを3番砲跡直後に移設、その後方の上部構造物を全て撤去して、そこに回天を縦横2列ずつ、計4艇搭載するスペースが設けられた。艦尾にはスロープが新設され、回天を艦尾から直接発進させる構造となった。かつての峯風型駆逐艦の面影は、この改造によって大きく姿を変えていた。
3月1日、第1駆逐隊は連合艦隊付属となる。だが「汐風」が回天を発進させる機会が訪れることのないまま、終戦を迎える。1945年8月15日、「汐風」は呉にて無傷のまま終戦を迎えた。同年10月5日に除籍、12月1日には特別輸送艦(復員輸送艦)の指定を受け、復員輸送に従事している。竣工から実に24年、幾多の海戦と船団護衛、そして特攻兵器搭載艦への変貌までを経験した「汐風」は、最後は多くの日本人を故郷へ送り届ける任務で、その現役生活を終えた。
■ 今も現地に眠る、姉妹艦との対照的な結末
復員輸送任務を終えた「汐風」は解体され、船体は1948年8月25日、姉妹艦「澤風」と同じ福島県小名浜港に運ばれ、1号埠頭先端の防砂防波堤として埋設された。「澤風」が1965年に撤去されたのとは対照的に、「汐風」は今もその場所に眠り続けている。2000年には解説プレートが設置され、艦尾部分のシルエットを囲む形でタイル舗装が施された。竣工から100年以上を経た現在も、「汐風」は静かにその存在を伝え続けている。
猫工艦の考察
「汐風」の本質は、太平洋戦争を通じて幾度となく輸送船団護衛の最前線に立ち続け、その中で「守り切れなかった」という現実を何度も突きつけられながら、最後まで任務を全うし続けた艦だった、という一点にある。マ08船団でのウルフパック攻撃、ルバング島沖での連続喪失——「汐風」が目撃した悲劇の数々は、太平洋戦争後半の輸送船団護衛がどれほど絶望的な戦況の中で行われていたかを物語っている。
しかしこの艦の物語で最も重い意味を持つのは、僚艦「梅」を自らの手で処分したという1945年1月の出来事だろう。竣工わずか半年余りの艦を、生存者を救い上げた後に自ら沈めるという任務は、駆逐艦乗りたちにとって最も辛い決断の1つだったに違いない。それでも「汐風」はその任務を果たし、そして自らも回天搭載艦への変貌という、時代の要請に応え続けた。
「汐風」が残したものは何か。それは、太平洋戦争が終わってなお、防波堤として地域を支え続け、そして今もなお小名浜港の海底にその姿をとどめているという、静かな存在感である。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに戦争の現実——守ろうとしても守り切れない絶望、それでも任務を全うし続けた献身——を、100年以上を経た今も語り続けてくれる。猫工艦は、峯風型8番艦「汐風」と、その乗組員たち、そして「梅」の乗組員たちすべてに、深い敬意を表したい。
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僚艦「梅」を見送り、今も小名浜港に眠る駆逐艦——「汐風」の記録を、その身に纏え
「守り切れなかった現実、それでも全うし続けた任務」
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)AL作戦経過概要・佐世保鎮守府戦時日誌・第一海上護衛隊戦時日誌・第百四号哨戒艇戦時日誌・第三十一戦隊戦時日誌・武装商船警戒隊戦闘詳報各号
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編』光人社NF文庫、1995年
- ・志賀博ほか『駆逐艦物語 車引きを自称した駆逐艦乗りたちの心意気』潮書房光人社、2016年
- ・山本平弥ほか『秋月型駆逐艦〈付・夕雲型・島風・丁型〉』潮書房光人社、2015年
- ・市川國雄「香り浅き『梅』バシー海峡に消えたり」
- ・Wikipedia「汐風 (駆逐艦)」「峯風型駆逐艦」
峯風型 · 2番艦(第1号完成艦) · 第二駆逐隊
SAWAKAZE 澤風
峯風型「第1号艦」、日本初の軍艦防波堤となった最古参駆逐艦
三菱長崎造船所が建造した峯風型駆逐艦2番艦。起工から竣工までの全工程を型名艦「峯風」より早く完了させた「第1号艦」であり、峯風型が「澤風型」とも呼ばれる由来となった。25年半の艦歴を経て終戦まで無傷で生存、戦後は日本初の軍艦防波堤として小名浜港を支え、1973年には高松宮宣仁親王臨席のもと艦魂碑除幕式が行われた艦の諸元と全戦歴。
SPECIFICATIONS
SPEC
基本諸元サマリー
| 艦名 | 澤風/沢風(さわかぜ)※命名時は旧字体「澤風」表記が正式 |
| 艦型・番艦 | 峯風型駆逐艦 2番艦(起工〜竣工全工程を最速で完了した「第1号艦」) |
| 計画 | 1917年度計画(八四艦隊案) |
| 建造所 | 三菱造船(株)長崎造船所 |
| 進水(命名式) | 1919年(大正8年)1月7日(佐世保鎮守府司令長官・財部彪中将命名) |
| 竣工日 | 1920年(大正9年)3月16日(型名艦「峯風」より早い) |
| 除籍日 | 1945年(昭和20年)9月15日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 全長 | 102.6m |
| 基準排水量 | 1,215t(竣工時)/公試1,345t |
| 出力 | 38,500馬力(計画) |
| 速力 | 39.0ノット(計画) |
| 主砲 | 12cm単装砲 4門 |
| 魚雷発射管 | 53.3cm連装発射管、魚雷8本搭載 |
| 初代艦長 | (心得)神本国太郎少佐(1919年7月18日〜) |
| 最終艦長 | 下田隆夫少佐(1944年8月25日〜終戦時) |
| 所属部隊 | 第二駆逐隊(峯風・矢風・沖風)/第二艦隊第二水雷戦隊他 |
| 特記事項 | 竣工前の予行運転でタービン重大故障を経験。1931年、河西虎三少佐が「峯風」艦長と兼任した時期もあった。1943年、被雷した特設水上機母艦「相良丸」を曳航・擱座成功 |
| 終戦時 | 横須賀にて無傷で終戦。第1特攻戦隊の特攻攻撃訓練目標艦として運用されていた |
| 戦後 | 1948年4月2日、福島県小名浜港に沈設され日本初の軍艦防波堤となる。1965年撤去、タービンは1973年に永久保存記念碑として除幕 |
| 名称継承 | 海上自衛隊たちかぜ型護衛艦3番艦「さわかぜ」(DDG-170)に継承 |
TIMELINE
HISTORY
澤風 全戦歴タイムライン
1919年2月26日 — 予行運転、タービン重大故障
パーソンズ式タービンの深刻なトラブル
- 全力公試移行時に右舷高圧タービンで振動発生、炭素パッキン部焼損。開放検査で右舷高圧・左舷高圧・低圧タービンいずれにも損傷、右舷高圧タービンでは動翼多数脱落・軸屈曲という重大故障が判明。
1920年3月16日 — 竣工
峯風型「第1号艦」として型名艦より早く完成
- 起工・進水・竣工の全工程を型名艦「峯風」より早く完了。この事実から峯風型は文献上「澤風型」「澤風級」とも呼ばれることになった。
1920年12月 — 第二駆逐隊編成
第二艦隊第二水雷戦隊へ編入
- 同型艦「峯風」「矢風」「沖風」とともに第二駆逐隊を編成。
1923年7月16-19日 — 矢風曳航
佐伯湾演習中、故障した僚艦を曳航
- 「矢風」が35ノット高速運転中に推進機が高熱を発し部品の一部が溶解・流失、運転不能に。「澤風」が曳航を開始し19日に呉入港。
1924年6月5日 — 松風とスクリュー接触
試運転帰港時の繋留事故
- 主タービン減速歯車装置の試運転を終え横須賀帰港時、隣にいた神風型「松風」(当時「第七号駆逐艦」)とスクリュー同士が接触。両艦とも入渠修理となる。
1925年6月3日
択捉島単冠湾で濃霧のため座礁
- 和田省三艦長率いる「澤風」が程越岬付近で暗礁に乗り上げ、艦首部に甚大な損害とキール折損。艦底部に最大160cmの破孔を生じつつも離岩に成功。
- 函館船渠で補強工事のみ実施後、横須賀工廠で本格修理。
1927年9月23日
長浦港沖、曳船との衝突事故
- 森口重市艦長率いる「澤風」と曳船「第一横須賀」(300トン)が接触、曳船側沈没。
- 強風下、多数の艦艇が停泊する狭い海域で発生。森口艦長の的確な指令で当初の衝突は回避したが、強風に押し流され最終的に衝突。
1928年11月15日 — 漁船との衝突
北海道忍路港沖、海難審判に発展
- 柴田力艦長率いる「澤風」が漁船「第三永福丸」(9トン)と衝突し、漁船側の船首部を損壊。
1930年11月 — トンボ釣り
第1航空戦隊編入、空母「赤城」直衛
- 第2駆逐隊が第1航空戦隊に編入され、空母「赤城」直衛として不時着機搭乗員の救助(トンボ釣り)に従事。
1932年1月 — 第一次上海事変
長江水域の諸作戦に参加
- 野村吉三郎中将司令長官の第三艦隊編制にともない、第一航空戦隊(空母加賀・鳳翔、第2駆逐隊)として上海に集結。睦月型各駆逐隊とともに作戦行動、長江水域の諸作戦に参加。
1935-1941年 — 練習艦としての日々
館山航空隊、横須賀鎮守府練習駆逐艦
- 1935年4月、館山海軍航空隊の練習艦に。1938年12月予備艦となるも引き続き同航空隊の飛行訓練に協力。
- 1939年11月、横須賀鎮守府練習駆逐艦に。1941年9月、再び館山航空隊付属として飛行訓練協力。
1942年3-4月 — 対潜掃討、ソ連船拿捕
朝日山丸救援、セルゲイ・キロフ拿捕
- 3月、館山を拠点に東京湾口で対潜掃討。3月8日、特設運搬艦「朝日山丸」が米潜水艦「グレナディアー」の雷撃を受け浸水(沈没には至らず)、「澤風」が救助・護衛を命じられ横須賀まで回航。
- 4月17日、御蔵島沖でソ連船「セルゲイ・キロフ」を拿捕、伊東へ連行。
- 11月、室蘭までの船団護衛、東京湾口対潜掃討に従事。
1943年3-6月 — 修理、船団護衛
横須賀工廠での修理、横須賀-神戸間護衛
- 3月30日から5月29日、横須賀工廠で修理。6月、横須賀-神戸間の船団護衛に従事。
1943年6月23-24日
相良丸の曳航、玉波・若月も協力
- 神子元島沖で特設水上機母艦「相良丸」が米潜水艦「ハーダー」の雷撃を受け航行不能に。「澤風」が曳航開始、夕雲型「玉波」・秋月型「若月」も救難・護衛に協力。
- 24日、天竜川河口に擱座成功。だが「相良丸」は7月4日「ポンパーノ」の攻撃で魚雷2本命中、9月1日船体放棄・除籍。
1943年9月9日 — 甲陽丸の喪失
曳航開始から1時間余りで沈没
- 米潜水艦「ハーダー」が犬吠埼東南東で輸送船団を発見、魚雷3本発射のうち1本が「甲陽丸」に命中(不発ながら船体に亀裂)。
- 被雷半日後の14時、船体放棄。15時「澤風」が救助・曳航開始も16時17分沈没。
1943年10月26日 — 飛鷹護衛
空母護衛任務
- 陽炎型「浜風」とともに空母「飛鷹」護衛のため横須賀を出港、内海西部へ。12月16日から翌年1月13日まで横須賀工廠で修理。
1944年1月14-17日
乙作戦支隊、でりい丸喪失と謎の掃討戦
- 敵潜水艦誘致作戦(乙作戦支隊)に参加予定も、護衛艦の離脱で「でりい丸」が単独行動中に米潜水艦「ソードフィッシュ」の雷撃を受け沈没、乗員の8割が戦死。
- 「澤風」急行、「第50号駆潜艇」「第23号掃海艇」と合計30発の爆雷投下で対潜掃討、「撃沈確実」と判定。
- 戦後判明:実際の「ソードフィッシュ」は既に離脱済みで誤認戦果と判明。正体不明の対象は今も謎。
1944年2-11月 — 紀伊半島方面対潜掃討
尾鷲基地、信濃曳航支援指令
- 2月から尾鷲を基地に紀伊半島方面での対潜掃討・船団護衛。11月29日、被雷した空母「信濃」の曳航・護衛協力の指令を受ける。
1944年12月-1945年5月 — 練習艦・実験艦への変遷
対潜学校練習艦、対潜実験艦改造
- 12月18日、海軍対潜学校練習艦に。1945年2月4日から3月18日、対潜実験艦への改造工事。5月5日、再び横須賀鎮守府練習駆逐艦として配備、第1特攻戦隊の特攻攻撃訓練目標艦に。
1945年8月15日 — 無傷の終戦
横須賀にて終戦、9月15日除籍
1948年4月2日
日本初の軍艦防波堤として小名浜港に沈設
- 浦賀船渠で上部構造物撤去後、小名浜港へ曳航。5時30分沈設作業開始、13時15分注水開始、14時45分船底着座確認、防波堤完成。
- 同年8月25日、「汐風」も近くの一号埠頭に沈設。
1965年10月 — 撤去、そして記念碑へ
250トンのスクラップ、10年の放置を経て
- 魚市場拡張のため防波堤撤去、250トンの鉄材スクラップ発生。一部が市民会館前に一時保管されるも約10年放置され忘れられる。
- 海洋学校調査部の調査を契機に海友会が永久保存に動き、大和田弥一いわき市長がスクラップ無償払い下げと三崎公園用地提供を快諾。
1973年11月3日
高松宮宣仁親王臨席、艦魂碑除幕式
- 福島県海友会会長・吉田真治元海軍大尉の招きにより高松宮宣仁親王が式典に臨席。台座の「艦魂」の文字は親王自らの筆による。
SUMMARY
RECORD
澤風 全艦歴まとめ
澤風は1920年に三菱長崎造船所で竣工した峯風型駆逐艦2番艦。起工から竣工までの全工程を型名艦「峯風」より早く完了させた「第1号艦」であり、峯風型が「澤風型」とも呼ばれる由来となった。竣工前のタービン重大故障を乗り越え、第二駆逐隊の一員として活動する中、択捉島での座礁、長浦港での曳船衝突事故など数々の危機を経験した。太平洋戦争では練習艦・対潜掃討艦として活動し、被雷した特設水上機母艦「相良丸」の曳航や、正体不明の敵潜水艦を巡る謎の対潜掃討戦にも関わった。1945年、横須賀で無傷のまま終戦を迎え、25年半に及ぶ艦歴に幕を閉じる。戦後は日本で初めて軍艦を利用した沈船防波堤として小名浜港に沈設され、地域の漁業を28年近く支えた。1965年の撤去後、そのタービンは1973年、高松宮宣仁親王臨席のもと永久保存記念碑として除幕された。
峯風型「第1号艦」——竣工が型名艦より早かったという事実だけで、峯風型全体が「澤風型」と呼ばれるほどの存在感を持つ艦だった。
戦闘艦から防波堤へ、そして記念碑へ——日本初の軍艦防波堤という役割を終えた後も、澤風の記憶は地域住民と元乗組員の手によって守られ続け、皇族臨席の式典にまで結実した。
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峯風型「第1号艦」、日本初の軍艦防波堤となった駆逐艦——「澤風」の記録を、その身に纏え
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)横須賀鎮守府戦時日誌・第十一水雷戦隊戦時日誌・第三海上護衛隊戦時日誌・伊勢防備隊戦時日誌戦闘詳報
- ・『丸スペシャル』第51号 日本の駆逐艦II、潮書房、1981年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・西日本重工業長崎造船所庶務課『三菱長崎造船所史 第1巻』
- ・大井篤『海上護衛戦』学習研究社(学研M文庫)、2001年
- ・『写真日本の軍艦 第4巻 空母II』光人社、1989年
- ・いわき民報 昭和40年10月7日・昭和48年11月5日各号
- ・『小名浜沿岸域形成史』小名浜沿岸域研究会、1983年
- ・いわき市史編さん委員会『いわき市史 第4巻 近代』1994年
- ・Wikipedia「沢風 (駆逐艦)」「峯風型駆逐艦」「さわかぜ (護衛艦)」
- → 【諸元と全戦歴】汐風——竣工から小名浜港に眠るまで
1973年11月3日、福島県いわき市・三崎公園。かつて駆逐艦「澤風」だった蒸気タービンの前で、艦魂碑の除幕式が執り行われていた。式典には、旧海軍軍人・軍属で結成された海友会の招きにより、高松宮宣仁親王その人が臨席していた。台座のプレートに刻まれた「艦魂」の文字は、親王自らが筆を執ったものだった。竣工から53年、戦後の防波堤としての役目を終えてなお、この艦は多くの人々の記憶と敬意によって、静かに残り続けていた。
「澤風」は峯風型駆逐艦の2番艦として計画されたが、三菱長崎造船所において起工から進水・竣工までの全工程を、型名艦「峯風」よりも早く完了させた「第1号艦」となった。この事実により、峯風型は文献によっては「澤風型」「澤風級」とも呼ばれている。1920年3月16日の竣工から、1945年9月15日の除籍まで、実に25年半——「澤風」は日本海軍が運用した一等駆逐艦の中でも最古参の艦となり、そして戦後は日本で初めて軍艦を沈めて作られた防波堤として、第二の人生を歩むことになった。
その艦歴には、濃霧の中での座礁事故、僚艦との接触事故、曳船を沈めてしまった衝突事故——数々のヒヤリとする瞬間が刻まれている。だが同時に、被雷した特設水上機母艦の救助、ソ連船の拿捕、そして正体不明の敵潜水艦を巡る謎めいた囮作戦など、この艦は太平洋戦争の様々な局面に、その名を刻み続けた。25年半の艦歴、そして戦後28年を経てなお続いた記憶の物語——「澤風」の生涯を辿る。
■ 峯風型2番艦「澤風」基本諸元 ■
建造所
三菱長崎造船所
進水命名 1919年1月7日
基準排水量
1,215t(竣工時)
→公試1,345t
全長 102.6m
最大速力
39.0ノット(計画)
出力38,500馬力
主砲
12cm単装砲 4門
対空能力なし(竣工時仕様)
魚雷兵装
53.3cm連装発射管(魚雷8本)
六年式魚雷
所属部隊
第二駆逐隊(峯風・矢風・沖風)
第二艦隊第二水雷戦隊他
特筆データ
日本海軍最古参の一等駆逐艦
終戦まで無傷で生存
最終結末
1948.4.2 日本初の軍艦防波堤に
小名浜港、1965年撤去
前史——竣工直後のタービン重大故障、そして「澤風型」という異名
1919年2月26日、「澤風」は予行運転のため長崎を出港した。だが日本海軍にとってまだ新しい技術だったパーソンズ社製ギアードタービンのライセンス生産品は、この時点で故障が頻発していた。全力公試に移る過程でタービン回転を増加させていたところ、右舷高圧タービンに振動が生じ、炭素パッキン部が焼損。予行運転は中止を余儀なくされる。長崎に帰港して開放検査を行うと、右舷高圧タービンだけでなく左舷高圧タービン、さらには低圧タービンにまで損傷が確認され、右舷高圧タービンでは動翼の多数脱落とタービン軸の屈曲という重大な故障が明らかになった。
それでも「澤風」は1920年3月16日に海軍へ引き渡され、型名艦「峯風」よりも早く、峯風型全15隻の中で最初に全工程を完了した艦となった。この事実から、峯風型は文献によって「澤風型」「澤風級」とも呼ばれることになる。同年12月、「峯風」「矢風」「沖風」とともに第二駆逐隊が編成され、第二艦隊第二水雷戦隊に編入された。竣工直後からトラブルに見舞われながらも、「澤風」はこうして日本海軍水雷戦隊の中核を担う存在としての歩みを始めた。
■ 「澤風」の全戦歴ハイライト ■
【1920.3.16】:竣工。峯風型の「第1号艦」となる
【1923.7.16-19】:僚艦「矢風」の機関故障を曳航
【1925.6.3】:択捉島単冠湾で濃霧のため座礁、艦首大破・キール折損
【1927.9.23】:長浦港沖で曳船「第一横須賀」と衝突、曳船側沈没
【1930.11】:第1航空戦隊編入、空母「赤城」直衛の「トンボ釣り」に従事
【1932】:第一次上海事変、長江水域の諸作戦に参加
【1942.4.17】:御蔵島沖でソ連船「セルゲイ・キロフ」を拿捕
【1943.6.23-24】:被雷した特設水上機母艦「相良丸」を曳航・擱座成功
【1943.9.9】:被雷した輸送船「甲陽丸」の救助曳航も沈没
【1944.1.14-17】:乙作戦支隊、囮船「でりい丸」喪失を経て謎の対潜掃討戦
【1945.8.15】:横須賀で無傷のまま終戦
【1948.4.2】:小名浜港で日本初の軍艦防波堤として沈設
【1973.11.3】:高松宮宣仁親王臨席のもと艦魂碑除幕式
エピソード①——濃霧の千島、そして長浦港の衝突事故
1925年6月3日午前4時10分頃、択捉島単冠湾の程越岬付近。濃霧の中を航行していた和田省三艦長率いる「澤風」は、暗礁に乗り上げてしまう。艦首部には甚大な損害が生じ、キール(竜骨)まで折損。艦底部には最大160cmという大きな破孔が開いた。それでも乗組員の懸命な努力により離岩に成功、最寄りの函館船渠での修理が決まったが、当時の駆逐艦修理資材は乏しく、本格修理は困難と判断される。結局、函館では応急の補強工事のみを施し、横須賀工廠であらためて本格修理を受けることになった。
それから2年後の1927年9月23日午前9時頃、長浦港沖。森口重市艦長率いる「澤風」は、曳船「第一横須賀」(300トン)と接触し、曳船側が沈没するという事故に見舞われる。この日は強風のため、本来「澤風」は港内に停泊する予定だったが断念せざるを得ないほどだった。港沖には戦艦「伊勢」、重巡「古鷹」、軽巡「北上」「五十鈴」「由良」「阿武隈」など多くの艦艇が停泊しており、目標のブイに向かうには、停泊艦同士のわずかな隙間を進む必要があった。
接近する曳船を視認した森口艦長は警笛とサイレンで警告したが、曳船側は「澤風が避けるだろう」という憶測のもと進行を続けていた。森口艦長の的確な指令により、間一髪で衝突そのものは回避され、「古鷹」の右舷側で両艦は「川」の字になる形で機関停止した。だがその後、「澤風」が再び移動しようとした際、強風に煽られて曳船との距離が急速に縮まる。乗組員総出で竿や木板、櫂を使って曳船を押し退けようと試みたが、及ばず「澤風」は曳船に衝突。破損した「第一横須賀」は沈没してしまった。
■ 平時に刻まれた、2つの危機 ■
1925.6.3
単冠湾で濃霧のため座礁、艦底破孔160cm
1927.9.23
停泊艦艇の間を縫って進行中、曳船と接触回避を試みる
直後
強風に押し流され曳船に衝突。「第一横須賀」沈没
■ 平時の海もまた、戦場だった
「澤風」の艦歴に刻まれた事故の数々は、決して乗組員の怠慢によるものではなかった。濃霧、強風、混雑した停泊地——自然の力と艦艇運用の複雑さは、戦闘とは異なる形で、常に駆逐艦乗りたちに緊張を強いていた。
エピソード②——相良丸を救い、甲陽丸を救えなかった夏
1943年6月23日未明、「澤風」は船団護衛で伊豆半島南部・神子元島沖を航行中だった。特設水上機母艦「相良丸」(日本郵船、7,189トン)が、米潜水艦「ハーダー」の攻撃を受ける。ハーダーが発射した魚雷4本のうち1本が命中し、「相良丸」は航行不能となった。「澤風」はただちに曳航を開始し、同日、武蔵護衛のため横須賀に到着していた夕雲型「玉波」、秋月型「若月」も救難作業と対潜護衛に駆けつけた。
翌24日、「澤風」は「相良丸」を天竜川河口に擱座させることに成功する。だがこの座礁した「相良丸」は7月4日、米潜水艦「ポンパーノ」からの攻撃で魚雷2本が命中し、激浪にも翻弄された末、9月1日に船体放棄・除籍となった。救助の努力が実を結ばなかった、苦い結末だった。
そして9月9日未明、今度は「相良丸」を傷つけたのと同じ米潜水艦「ハーダー」が、函館へ向かう輸送船団を発見する。犬吠埼東南東11kmの地点で発射された魚雷のうち1本が輸送船「甲陽丸」(日本郵船、3,022トン)に命中した。魚雷自体は不発だったが、命中の衝撃で船体に亀裂が入り、被雷から半日後の午後2時、「甲陽丸」の船体は放棄される。午後3時、「澤風」が救助に駆けつけ曳航を開始したが、わずか1時間17分後の午後4時17分、「甲陽丸」は沈没してしまった。皮肉にも、ハーダー側の攻撃記録には当初「与えた損害なし」とだけ記されていたという。
■ 救助という営みの、成功と失敗の間
「相良丸」は座礁までは成功したが最終的に失われ、「甲陽丸」は曳航を始めてわずか1時間余りで沈んだ。「澤風」の救助活動は、いつも成功するわけではなかった。それでも駆けつけ続けたという事実こそが、この艦の本質を物語っている。
エピソード③——謎の囮作戦、正体不明の「敵潜水艦」
1944年1月14日、横須賀鎮守府は八丈島方面での敵潜水艦誘致作戦を計画する。客船に見立てた特設砲艦「でりい丸」を囮とし、迎撃艦艇で対潜掃討を行うという「乙作戦支隊」だった。「澤風」も合流する手筈だったが、1月15日夜、護衛にあたっていた「旗風」「千鳥」が、偶然発生した別の船団護衛任務のため離脱してしまう。「でりい丸」は「第50号駆潜艇」とともに、単独で作戦海域を南下することになった。
1月16日午前0時20分頃、米潜水艦「ソードフィッシュ」が「でりい丸」を単なる商船と誤認し、雷撃を加えた。魚雷は船首左舷に命中し、船体は船橋から前後に切断される。老朽化した船首側は分解し、船尾側もついに浸水を食い止められず、午前3時37分に総員退去が発令されたわずか2分後に沈没した。救命ボートを降ろす間もない急な最期で、乗員の約8割にあたる軍人145〜155名・軍属6名が戦死する惨事となった。
「澤風」は「でりい丸」被雷の報を受け急行、午前8時に現場へ到着する。その後、航空機が発見した「敵潜水艦」に対し、「澤風」「第50号駆潜艇」「第23号掃海艇」の3隻が合計30発(澤風12個・第23号掃海艇8個・第50号駆潜艇10個)の爆雷を投下する徹底的な対潜掃討を実施した。日没と同時に大きな水柱と油膜、気泡の湧出を確認し、「撃沈確実」と判定された。だが戦後の調査では、「でりい丸」を沈めた「ソードフィッシュ」は既にその12時間も前に海域を離脱していたことが判明し、この戦果は「誤認戦果」と結論づけられている。それでも、複数の航空機と艦艇が確かに何かを発見・攻撃し、大量の油と気泡が湧き出続けたという記録は残っており、その正体は今も謎のままである。
■ でりい丸事件、謎の顛末 ■
1/16 0:20
「でりい丸」被雷、船体切断。乗員の8割が戦死
15:55-17:51
3隻で爆雷30発投下、「撃沈確実」と判定
戦後判明
実際の犯人「ソードフィッシュ」は既に離脱済み。戦果は誤認、正体は今も不明
エピソード④——無傷の終戦、そして日本初の軍艦防波堤へ
数々の危機を乗り越えた「澤風」は、1944年12月に海軍対潜学校練習艦、1945年には対潜実験艦への改造、そして第1特攻戦隊の特攻攻撃訓練目標艦として運用された後、横須賀において無傷のまま終戦を迎えた。1945年9月15日、25年半に及ぶ艦歴の末に除籍される。
戦後、食糧増産のため漁獲高向上が急務とされる中、小名浜港には防波堤が必要とされていた。だがコンクリートや石材が不足する戦後日本において、連合国軍総司令部(GHQ)の強い方針もあり、旧海軍艦艇を沈めて防波堤とする「軍艦防波堤」が各地で計画されることになる。「澤風」は1948年、浦賀船渠でマストや艦橋など上部構造物を撤去され、最低限浮かぶ状態に改装された後、救難艇「栗橋」に曳航されて小名浜港へ到着した。
1948年4月2日午前5時30分、18名の作業員により沈設作業が開始される。午後1時15分から船体内部への注水が始まり、午後2時45分、船底の着座が確認され、防波堤として完成した。「澤風」は日本で初めて軍艦を利用した沈船防波堤となり、28年間の駆逐艦としての生涯を終えたのである。同年8月25日には、同型艦「汐風」も近くの一号埠頭付近に沈設されている。GHQの厳命によりタービンを取り外さないまま沈設されたため、船体には金目のものが多く残っており、防波堤完成後は鉛や鉄材を狙う解体業者による盗掘被害にも見舞われた。
1965年10月、魚市場拡張のため澤風防波堤の解体・撤去作業が始まる。250トンもの鉄材スクラップが回収され、当初は競争入札での売却が検討されたが、当時まだ多くの元乗組員が存命しており、記念として一部を残したいという声が上がった。旧海軍軍人・軍属で結成された海友会がスクリューの保存を試みたものの、長年の埋没で取り出しは困難とされ、代わりにスクラップの一部がいわき市小名浜市民会館前の広場に一時保管されることになる。だがその後約10年近く、風雨にさらされたまま放置され、地元でもその存在は忘れられていった。
転機は社団法人海洋学校調査部による調査だった。放置されたスクラップの存在を知った調査部は、地元海友会を通じて永久保存に動き出す。ちょうど市が古物商への売却を検討していた矢先、海友会の元軍人たちが当時の大和田弥一市長のもとを訪れ、記念碑設立の趣旨を説明した。市長はこれを快諾し、無償でのスクラップ払い下げと、三崎公園の市有地提供を決定する。1973年11月3日、福島県海友会会長・吉田真治元海軍大尉が、かつて高松宮宣仁親王の教官を務めていた縁から親王を式典に招き、艦魂碑除幕式が執り行われた。台座に刻まれた「艦魂」の文字は、宣仁親王自らの筆によるものである。
艦魂
高松宮宣仁親王自らの筆による揮毫。三崎公園の澤風タービン記念碑に刻まれている
——1973年11月3日、艦魂碑除幕式にて
猫工艦の考察
「澤風」の本質は、峯風型の「第1号艦」として誕生し、竣工直後のタービン重大故障を乗り越え、25年半という日本海軍最古参の一等駆逐艦としての艦歴を、無傷のまま終戦まで生き延びたという一点にある。座礁、衝突、そして数々の救助活動——「澤風」の艦歴は華々しい戦果よりも、地道な事故対応と救難活動によって織りなされていた。それでもこの艦は、竣工から終戦まで、日本海軍の変遷のほぼ全てに立ち会い続けた。
しかし「澤風」の物語が本当に特別なのは、その戦後にある。日本で初めて軍艦を利用した沈船防波堤となり、地域の漁業を支えるという、戦闘艦としては異例の平和な「第二の人生」を歩んだ。そして1965年の撤去後、一時は忘れられかけたその記憶は、元乗組員や地域住民の尽力によって呼び覚まされ、最終的には皇族までもが臨席する記念式典として結実した。
「澤風」が残したものは何か。それは、戦争の記憶を平和の中でどう受け継いでいくか、という問いそのものである。防波堤として地域を支え、その後は記念碑として人々の記憶に刻まれ続ける——この艦の生涯は、駆逐艦という存在が、戦争の終わりの後もなお、様々な形で人々の暮らしと記憶に寄り添い続けることを示している。猫工艦は、峯風型の「第1号艦」として生まれ、25年半の艦歴と28年の防波堤としての奉仕を経て、なお記憶され続ける「澤風」に、深い敬意を表したい。
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峯風型「第1号艦」、日本初の軍艦防波堤となった駆逐艦——「澤風」の記録を、その身に纏え
「艦魂——25年半の艦歴、そしてなお続く記憶」
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)横須賀鎮守府戦時日誌・第十一水雷戦隊戦時日誌・第三海上護衛隊戦時日誌・伊勢防備隊戦時日誌戦闘詳報
- ・『丸スペシャル』第51号 日本の駆逐艦II、潮書房、1981年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・西日本重工業長崎造船所庶務課『三菱長崎造船所史 第1巻』
- ・大井篤『海上護衛戦』学習研究社(学研M文庫)、2001年
- ・『写真日本の軍艦 第4巻 空母II』光人社、1989年
- ・いわき民報 昭和40年10月7日・昭和48年11月5日各号
- ・『小名浜沿岸域形成史』小名浜沿岸域研究会、1983年
- ・いわき市史編さん委員会『いわき市史 第4巻 近代』1994年
- ・Wikipedia「沢風 (駆逐艦)」「峯風型駆逐艦」「さわかぜ (護衛艦)」
- → 汐風——同じ小名浜港に沈設され、今も現存する同型艦
峯風型 · 1番艦(型名艦) · 第二駆逐隊
MINEKAZE 峯風
日本オリジナル設計の型名艦、24年を生き抜いた駆逐艦
舞鶴海軍工廠が建造した峯風型駆逐艦1番艦、この艦型の型名艦。第一次上海事変、日中戦争、紀元二千六百年特別観艦式を経て、太平洋戦争では船団護衛任務に従事。1944年2月10日、台湾沖で米潜水艦「ポーギー」の雷撃を受け戦没した艦の諸元と全戦歴。
SPECIFICATIONS
SPEC
基本諸元サマリー
| 艦名 | 峯風(みねかぜ)※「峰風」と表記される場合もある |
| 艦型・番艦 | 峯風型駆逐艦 1番艦(型名艦) |
| 計画 | 1917年度計画(八四艦隊案) |
| 建造所 | 舞鶴海軍工廠 |
| 起工日 | 1918年(大正7年)4月20日 |
| 進水日 | 1919年(大正8年)2月8日 |
| 竣工日 | 1920年(大正9年)5月29日 |
| 除籍日 | 1944年(昭和19年)3月31日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 籍 | 横須賀鎮守府籍 |
| 全長 | 102.6m |
| 基準排水量 | 1,215t(竣工時)/公試1,345t |
| 出力 | 38,500馬力 |
| 速力 | 39.0ノット |
| 主砲 | 12cm単装砲 4門 |
| 魚雷発射管 | 53.3cm連装発射管、魚雷8本搭載 |
| 初代艦長 | 木田新平少佐(1919年着任) |
| 最終艦長 | 今泉正次郎大尉(1943.12.1〜1944.2.10戦死) |
| 所属部隊 | 第二駆逐隊(澤風・矢風・沖風)/第二艦隊第二水雷戦隊他 |
| 特記事項 | 竣工から戦没まで24年、20名を超える艦長が代々指揮を執った。1940年、紀元二千六百年特別観艦式に参加 |
| 最期 | 1944年2月10日、モタ02船団護衛中、米潜水艦「ポーギー」の雷撃を受け台湾沖(北緯23度00分・東経157度27分)で戦没 |
TIMELINE
HISTORY
峯風 全戦歴タイムライン
1918年4月20日 — 起工
舞鶴海軍工廠にて起工
- 1917年度計画(八四艦隊案)による建造。峯風型駆逐艦の型名艦として起工された。
1920年5月29日 — 竣工
竣工。横須賀鎮守府に所属
- 一等駆逐艦に類別され横須賀鎮守府籍に編入。日本海軍初の「日本オリジナル」設計思想による駆逐艦の型名艦となった。
1920年12月 — 第二駆逐隊編成
第二艦隊第二水雷戦隊へ編入
- 同型艦「澤風」「矢風」「沖風」とともに第二駆逐隊を編成。竣工直後から日本海軍の主力水雷戦隊の一員として艦隊行動に組み込まれる。
1932年 — 第一次上海事変
長江水域の諸作戦に参加
- この頃、河西虎三少佐が艦長を務め、1931年11月からは同型艦「澤風」の艦長も兼任していた。
1937-1939年 — 日中戦争
華北・華中沿岸での諸作戦
- 日中戦争における華北・華中沿岸諸作戦に従事。この時期、艦長は数ヶ月から1年程度の周期で交代を重ねていた。
1940年10月11日 — 特別観艦式
紀元二千六百年特別観艦式に参加
- 横浜港沖で行われた盛大な観艦式に、竣工から20年を経た「峯風」も参列した。
1941年9月15日 — 鎮海警備府編入
対馬海峡方面で哨戒活動
- 鎮海警備府に編入され対馬海峡方面での哨戒活動に従事。
1942年4-12月 — 佐世保防備戦隊、船団護衛
サイパン・トラック・ラバウルへの護衛任務
- 4月10日、佐世保防備戦隊に編入。佐世保近海の哨戒活動に従事。
- 9月25日、サイパン島・トラック島・ラバウルへの船団護衛に出撃。11月12日佐世保帰港、整備・補給後の11月27日再出撃、東シナ海方面で船団護衛・哨戒監視に従事。12月1日佐世保帰港。
1943年 — 東シナ海方面護衛任務
引き続き船団護衛に従事
- 東シナ海方面での船団護衛任務を継続。12月1日、今泉正次郎大尉が最後の艦長として着任。
1944年2月1-10日
モタ02船団護衛、台湾沖で戦没
- 2月1日、第一海上護衛隊に編入。2月5日、門司港を出港し高雄までモタ02船団の護衛任務に就く。
- 2月10日、台湾沖(北緯23度00分・東経157度27分)で米潜水艦「ポーギー」の雷撃を受け沈没。
1944年3月31日 — 除籍
帝国駆逐艦籍より除籍
SUMMARY
RECORD
峯風 全艦歴まとめ
峯風は1920年に舞鶴海軍工廠で竣工した峯風型駆逐艦1番艦、この艦型の型名艦。竣工直後から第二駆逐隊の一員として艦隊行動に組み込まれ、第一次上海事変、日中戦争における沿岸諸作戦、紀元二千六百年特別観艦式への参加など、戦間期の日本海軍の歴史に立ち会い続けた。太平洋戦争開戦後は佐世保近海警備、サイパン・トラック・ラバウルへの船団護衛、東シナ海方面での護衛任務と、地道な任務を積み重ねる。1944年2月、第一海上護衛隊に編入されモタ02船団の護衛任務についたが、同月10日、台湾沖で米潜水艦「ポーギー」の雷撃を受け戦没した。竣工から戦没まで24年、20名を超える艦長が代々この艦を率いた。
24年の艦歴と、20名を超える艦長たち——峯風型の型名艦として、多くの人々の指揮と献身がこの1隻に積み重なっていた。
輸送船団護衛という最後の任務——太平洋戦争後半、米潜水艦の脅威が増す中、旧式艦であっても護衛戦力として最大限活用され続けた末の戦没だった。
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日本オリジナル設計の型名艦、24年を生き抜いた駆逐艦——「峯風」の記録を、その身に纏え
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)海上護衛総司令部戦時日誌・海軍辞令公報(部内限)各号
- ・『丸スペシャル』第51号 日本の駆逐艦II、潮書房、1981年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年
- ・『紀元二千六百年祝典記録・第六冊』
- ・Wikipedia「峯風 (駆逐艦)」「峯風型駆逐艦」
- → 【諸元と全戦歴】澤風——竣工から小名浜港の防波堤となるまで
1944年2月10日、台湾沖。門司港からモタ02船団を護衛して高雄へ向かっていた駆逐艦「峯風」は、米潜水艦「ポーギー」の雷撃を受け沈没した。竣工から24年——日本海軍が初めて「日本オリジナル」の設計思想で作り上げた駆逐艦、峯風型の型名艦は、その艦型を代表する形で、輸送船団護衛という地味な任務の最中に、静かに戦争を終えた。
「峯風」は、舞鶴海軍工廠で1918年(大正7年)4月20日に起工、1919年2月8日に進水、1920年5月29日に竣工した。ワシントン海軍軍縮条約以前、日本海軍がまだ大規模な艦隊拡張を志向していた時代に生まれたこの艦は、竣工から太平洋戦争終盤の戦没まで、実に24年という長い艦齢を刻んだ。派手な海戦の記録は少ないが、その艦歴は、日本海軍の駆逐艦が歩んだ長い道のりそのものを体現している。
第一次上海事変、日中戦争における沿岸諸作戦、紀元二千六百年特別観艦式への参加——「峯風」は戦間期から太平洋戦争にかけて、日本海軍の歴史の様々な場面に立ち会い続けた。そして最後は、佐世保近海警備からトラック島方面への船団護衛へ、さらに東シナ海・台湾方面の輸送船団護衛へと、地道な任務を積み重ねた末の戦没だった。
■ 峯風型1番艦「峯風」基本諸元 ■
進水・竣工
1919.2.8 → 1920.5.29
初代艦長 木田新平少佐
基準排水量
1,215t(竣工時)
→公試1,345t
全長 102.6m
主砲
12cm単装砲 4門
対空能力なし(竣工時仕様)
魚雷兵装
53.3cm連装発射管(魚雷8本)
六年式魚雷
所属部隊
第二駆逐隊(澤風・矢風・沖風)
第二艦隊第二水雷戦隊他
特筆データ
峯風型の型名艦
竣工から戦没まで24年の艦齢
最終艦名・結末
1944.2.10 台湾沖で戦没
米潜水艦ポーギーの雷撃
前史——第二駆逐隊の旗艦格として、戦間期を歩んだ艦
竣工した「峯風」は横須賀鎮守府に所属し、1920年12月、同型艦「澤風」「矢風」「沖風」とともに第二駆逐隊を編成、第二艦隊第二水雷戦隊に編入された。この編成は、峯風型が竣工直後から日本海軍の主力水雷戦隊の一員として、正規の艦隊行動に組み込まれていたことを示している。1932年の第一次上海事変では長江水域の諸作戦に参加し、1937年から1939年にかけては日中戦争における華北・華中沿岸での作戦に従事した。
1940年10月11日、「峯風」は横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加している。皇紀2600年を祝うこの盛大な観艦式に、竣工から20年を経た旧式艦がなお参列していたという事実は、この艦が日本海軍にとって、単なる旧式艦以上の存在であり続けたことを物語っている。1941年9月、鎮海警備府に編入され対馬海峡方面で哨戒活動に従事、太平洋戦争開戦後は佐世保防備戦隊に編入され、佐世保近海の哨戒とサイパン・トラック・ラバウルへの船団護衛任務についていく。
■ 「峯風」の全戦歴ハイライト ■
【1920.5.29】:舞鶴海軍工廠で竣工。峯風型の型名艦となる
【1920.12】:第二駆逐隊編成、第二艦隊第二水雷戦隊へ
【1932】:第一次上海事変、長江水域の諸作戦に参加
【1940.10.11】:紀元二千六百年特別観艦式に参加
【1942.9-11】:サイパン・トラック・ラバウルへの船団護衛に従事
【1943】:東シナ海方面での船団護衛任務を継続
【1944.2.1】:第一海上護衛隊へ編入
【1944.2.10】:モタ02船団護衛中、米潜水艦「ポーギー」の雷撃を受け台湾沖で戦没
【1944.3.31】:帝国駆逐艦籍より除籍
エピソード①——21人の艦長たちが受け継いだ艦
「峯風」の艦歴で特筆すべきは、竣工から24年という長い艦齢の間に、実に20名を超える艦長が入れ替わり指揮を執ったという事実である。1919年の艤装員長・木田新平少佐から、1944年2月10日の戦没時艦長・今泉正次郎大尉まで、それぞれの時代の艦長たちが、この1隻の艦を通じて日本海軍の変遷を見届けてきた。1930年から1932年にかけて艦長を務めた河西虎三少佐は、1931年11月からは同型艦「澤風」の艦長も兼任しており、峯風型という艦型全体の運用を1人の艦長が横断的に見ていた時代もあった。
最後の艦長・今泉正次郎大尉は、1943年12月1日に着任し、わずか2ヶ月余りでこの艦を失うことになる。竣工時から数えて実に24代目に近い艦長として、旧式艦となった「峯風」を率い、東シナ海・台湾方面での輸送船団護衛という、決して華々しくはないが不可欠な任務を担い続けた。長い艦歴を持つ艦だからこそ、そこには多くの人々の指揮と献身が積み重なっている。
■ 地味な任務にこそ宿る価値
「峯風」の艦歴には、大きな海戦での劇的な戦果は記録されていない。だが佐世保近海の警備からトラック島・ラバウルへの船団護衛、そして最後の台湾沖護衛任務まで、この艦は一貫して「輸送を守る」という地道な任務を担い続けた。派手さはなくとも、これもまた駆逐艦という艦種が果たすべき、本質的な役割の1つだった。
エピソード②——台湾沖、モタ02船団の護衛にて
1944年2月1日、「峯風」は第一海上護衛隊に編入された。太平洋戦争後半、日本の輸送船団は米潜水艦の脅威にさらされ続けており、この編入は、旧式駆逐艦であっても護衛戦力として最大限活用しようとする、当時の海軍の切迫した状況を物語っている。2月5日、「峯風」は門司港を出港し、高雄までモタ02船団の護衛任務についた。
だが2月10日、台湾沖北緯23度00分・東経157度27分の海域で、米潜水艦「ポーギー」が発射した魚雷が「峯風」を捉えた。竣工から24年、幾多の任務を積み重ねてきた艦は、輸送船団を守るという最後の任務の最中に、静かに海へ沈んでいった。1944年3月31日、「峯風」は帝国駆逐艦籍から除籍された。峯風型という艦型全体の名を背負った1番艦の最期は、けっして劇的なものではなかったが、それゆえにこそ、太平洋戦争後半における輸送船団護衛の厳しい現実を、静かに物語っている。
■ 最後の航海 ■
2/10
台湾沖で米潜水艦「ポーギー」の雷撃を受け戦没
猫工艦の考察
「峯風」の本質は、日本海軍が初めて自らの設計思想で作り上げた駆逐艦の型名艦として、竣工から24年という長い艦齢を、地道な任務の積み重ねで生き抜いたという一点にある。第一次上海事変、日中戦争、紀元二千六百年特別観艦式——「峯風」は日本海軍の戦間期から太平洋戦争にかけての歴史の様々な場面に立ち会い続けたが、その多くは輸送船団護衛や哨戒監視という、表舞台には出ない任務だった。
それでもこの艦が果たした役割は、決して小さくなかった。20名を超える艦長たちが代々受け継ぎながら守り続けた任務は、太平洋戦争後半、米潜水艦の脅威が増す中でますます重要性を増していく。最終的に「峯風」は、その任務の最中に失われた。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに戦争の地道な実務——輸送を守り続けるという、静かだが不可欠な使命——を教えてくれる。猫工艦は、峯風型の型名艦としてその名を刻んだ「峯風」と、その艦を守り続けた全ての乗組員に、深い敬意を表したい。
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日本オリジナル設計の型名艦、24年を生き抜いた駆逐艦——「峯風」の記録を、その身に纏え
「地味な任務にこそ宿る価値——峯風型、その原点」
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)海上護衛総司令部戦時日誌・海軍辞令公報(部内限)各号
- ・『丸スペシャル』第51号 日本の駆逐艦II、潮書房、1981年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年
- ・『紀元二千六百年祝典記録・第六冊』
- ・Wikipedia「峯風 (駆逐艦)」「峯風型駆逐艦」
- → 澤風——峯風型「第1号艦」、日本初の軍艦防波堤となった同型艦
1941年12月11日、ウェーク島。第四艦隊・第六水雷戦隊に所属していた駆逐艦「疾風」は、米海兵隊の沿岸砲の砲撃を受け、ウィルクス島沖で轟沈した。これが太平洋戦争における日本艦艇の戦没第一号である。開戦からわずか3日、峯風型の改良型として生まれた神風型9隻のうちの1隻が、日本海軍にとって最も苦い記録の担い手となった。
神風型(2代)は、峯風型の後期3隻「野風型」の改良型として、八八艦隊計画の一環で計画された艦隊型駆逐艦だった。当初27隻という大量建造が予定され、艦名に使う名称すら不足すると見込まれたため、竣工時は番号だけの艦名——「第一駆逐艦」「第三駆逐艦」……——で就役した。ワシントン海軍軍縮条約により建造は結局9隻にとどまり、1928年(昭和3年)8月、ようやく固有の艦名が与えられる。峯風型と兵装レイアウトはほぼ同一だが、艦幅を9インチ広げて復原性を高め、後期建造の4隻(追風・疾風・朝凪・夕凪)では魚雷装填時間を1分から40秒に短縮するなど、着実な改良が重ねられていた。
9隻は太平洋戦争の全期間、駆逐艦籍のまま最前線と後方支援の両方を渡り歩いた。ペナン沖海戦と米潜水艦ホークビルとの死闘を生き延びた1番艦「神風」、米潜水艦シャークを爆雷34発で撃沈した3番艦「春風」、第一次ソロモン海戦とコロンバンガラ島沖海戦を戦い抜いた9番艦「夕凪」——それぞれの艦が、20年以上前の設計でありながら、太平洋戦争のあらゆる局面に投入され続けた記録を残している。
IJN DESTROYER · KAMIKAZE CLASS (2ND) · 一等駆逐艦 · 1922–1925 · 峯風型の改良発展型
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神風型駆逐艦(2代)
竣工期間
1922〜1925年
全9隻(計画27隻から縮小)
基準排水量
1,270 t
峯風型より艦幅9インチ拡大
最大速力
37.3 ノット
改修後34ノットまで低下
魚雷兵装
53cm連装発射管3基(6射線)
十年式2連装水上発射管
建造所
三菱長崎・舞鶴要港部工作部他
5箇所で分担建造
特筆データ
「疾風」太平洋戦争戦没第一号
開戦から3日での喪失
最終改名
1928年8月1日
番号名から固有名へ一斉改称
戦没率
9隻中7隻(約78%)
終戦生存はわずか2隻
27隻計画から9隻へ——艦名不足の危機と、番号だけの船出
神風型(2代)は、戦艦「長門」の建造に代表される八八艦隊計画の中で、主力大型駆逐艦として構想された。八六艦隊完成案・八八艦隊完成案をあわせ、当初は27隻もの建造が計画されており、この規模ゆえに「艦名として使える名称が足りなくなる」という、日本海軍にとって前例のない事態が懸念された。そのため竣工した艦には固有の名前ではなく、「第一駆逐艦」「第三駆逐艦」……という番号だけの艦名が与えられることになった。
だが1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約締結により、この壮大な計画は整理され、神風型の建造は結局9隻にとどまる。皮肉にも、艦名不足の心配は消え去った。1928年(昭和3年)8月1日、番号名だった9隻は一斉に固有の艦名——神風・朝風・春風・松風・旗風・追風・疾風・朝凪・夕凪——を与えられ、正式に「神風型」と呼ばれるようになった。峯風型・神風型の基本設計は、続く睦月型駆逐艦にも踏襲されていく。
■ 「野風型」の改良を受け継いだ艦形
神風型の兵装配置や機関は、峯風型最終3隻「野風型」とほぼ同一だった。だが復原性・安定性を高めるため艦幅を9インチ拡大し、基準排水量は1,400トン(峯風型は1,345トン)に増加。後期建造の4隻ではボイラーに開放缶室装置を初採用し、機関室の高温環境を大きく改善するなど、峯風型から着実に一歩進んだ設計改良が積み重ねられていた。
■ 神風型(2代) 全戦歴ハイライト ■
【1922年12月28日】:1番艦「神風」竣工(当初「第一駆逐艦」)
【1928年8月1日】:番号艦名から固有名へ一斉改称
【1941年12月11日】:「疾風」ウェーク島で戦没。太平洋戦争、日本艦艇戦没第一号
【1942年7月】:「朝凪」に陸軍参謀・辻政信中佐が便乗、至近弾で負傷
【1944年2月18日】:トラック島空襲、「追風」戦没
【1944年5月22日】:「朝凪」父島北西沖で戦没
【1944年6月9日】:「松風」父島東北方沖で戦没
【1944年10月24日】:「春風」、米潜水艦シャークを爆雷34発で撃沈
【1944年8月23日】:「朝風」リンガエン湾西方で戦没
【1944年8月25日】:「夕凪」ルソン島北西岸で戦没
【1945年1月15日】:「旗風」台湾・高雄で戦没
【1945年8月15日】:終戦時「神風」残存。翌1946年6月、座礁放棄
神風型(2代) 全9隻——建造・艦歴・最期
神風型9隻は、三菱長崎造船所・舞鶴要港部工作部・浦賀船渠・東京石川島造船所・藤永田造船所・佐世保海軍工廠と、実に多くの造船所で分担建造された。峯風型に続き、太平洋戦争を通じて7隻が戦没、終戦時に残存したのは「神風」のみ——という過酷な戦没率を記録している。
| 艦名 |
建造所 |
竣工日 |
特記・最期 |
| 神風(かみかぜ)★型名艦・終戦生存 |
三菱長崎造船所 |
1922.12.28 |
ペナン沖海戦・米潜水艦ホークビルとの死闘を経てシンガポールで無傷の終戦を迎える。戦後は復員輸送に従事するも、1946.6.7、座礁した海防艦「国後」を救援中に自らも御前崎付近で座礁・放棄。同年除籍。 |
| 朝風(あさかぜ) |
三菱長崎造船所 |
1923.6.16 |
南方攻略作戦と船団護衛に従事。1944.8.23、リンガエン湾西方30浬付近で米潜水艦「ハッド」の雷撃を受け戦没。 |
| 春風(はるかぜ)★シャーク撃沈の殊勲艦 |
舞鶴要港部工作部 |
1923.5.31 |
主に船団護衛に従事。1944.10.24、ルソン海峡で米潜水艦シャークを爆雷34発で撃沈。終戦時は艦尾を失いながらも残存、船体の一部は京都府竹野港の防波堤に転用されるもアイオン台風で破壊、その後解体。艦名は後に護衛艦「はるかぜ」へ継承。 |
| 松風(まつかぜ)★睦月型第30駆逐隊に編入 [諸元→] |
舞鶴要港部工作部 |
1924.4.5 |
主に船団護衛に従事。1944.5.1、睦月型の第30駆逐隊へ編入。同年6.9、父島東北方40浬付近で米潜水艦「ソードフィッシュ」の雷撃を受け戦没。 |
| 旗風(はたかぜ)★睦月型第30駆逐隊に編入 |
舞鶴要港部工作部 |
1924.8.30 |
主に船団護衛に従事。1944.12.26、睦月型の第30駆逐隊へ編入。1945.1.15、台湾・高雄でヒ87船団護衛中、米海軍機の攻撃を受け戦没。 |
| 追風(おいて) |
浦賀船渠 |
1925.10.30 |
主に船団護衛に従事。1944.2.18、トラック島空襲で米海軍機の攻撃を受け戦没。 |
| 疾風(はやて)★太平洋戦争戦没第一号 |
東京石川島造船所 |
1925.12.21 |
1941.12.11、第四艦隊・第六水雷戦隊所属としてウェーク島攻略作戦に参加、米海兵隊沿岸砲の砲撃によりウィルクス島沖で轟沈。太平洋戦争における日本艦艇の戦没第一号となった。 |
| 朝凪(あさなぎ) |
藤永田造船所 |
1924.12.29 |
主に船団護衛に従事。1942年7月下旬、陸軍参謀・辻政信中佐便乗中に至近弾で損傷、辻中佐も負傷。1944.5.22、父島北西方沖で米潜水艦「ポラック」の雷撃を受け戦没。 |
| 夕凪(ゆうなぎ) |
佐世保海軍工廠 |
1925.4.24 |
第一次ソロモン海戦に参加、以後コロンバンガラ島沖海戦を含むニュージョージア島の戦いで輸送隊として常に最前線に投入。1944.8.25、ルソン島北西岸で米潜水艦「ピクーダ」の雷撃を受け戦没。 |
エピソード① 「疾風」——太平洋戦争、日本艦艇戦没第一号という重み
1941年12月11日、開戦からわずか3日で、「疾風」はウェーク島攻略戦において米海兵隊沿岸砲の砲撃を受け、瞬時に轟沈した。同じ戦いで睦月型「如月」も戦没しているが、時刻・戦況の記録上、「疾風」の喪失こそが太平洋戦争における日本艦艇戦没の第一号とされている。竣工から16年、峯風型・神風型という「艦隊駆逐艦の原型」を担った1隻が、太平洋戦争という4年近くに及ぶ長い戦争の、その最初の一頁に名を刻んだのである。この戦いは日本軍の当初の戦力評価の甘さを露呈させ、後に続く多くの艦の運命を予感させる、苦い幕開けとなった。
エピソード② 「松風」「旗風」——神風型のまま、睦月型の艦隊へ
戦争末期、神風型の「松風」「旗風」は、いずれも睦月型駆逐艦の第30駆逐隊へ編入されている。「松風」は1944年5月1日、「旗風」は同年12月26日、それぞれ竣工から20年を超える艦体のまま、睦月型の生き残りと肩を並べて最前線任務にあたった。峯風型の「秋風」が同じ第30駆逐隊に編入されていた事実とあわせ、日本海軍が戦争末期、艦型の垣根を越えて、動ける艦をかき集めるように運用していたことを物語っている。「松風」は編入後まもなく父島沖で戦没し、「旗風」も高雄で戦没するなど、この編入が必ずしも延命にはつながらなかった。
■ 皮肉な終戦後の座礁
神風型で唯一終戦まで生き延びた「神風」は、戦後、復員輸送に従事していた。だが1946年6月、座礁した海防艦「国後」を救援しようとした際、自らも御前崎付近で座礁し、放棄されることになる。戦争中の幾多の危機を切り抜けた艦が、平和な戦後の救難活動でその生涯を終えたという結末は、駆逐艦という艦種が最後まで「誰かを助けようとする」存在であり続けたことを、静かに物語っている。
猫工艦の考察:艦名不足を心配された艦型が辿った、過酷な戦没率
神風型(2代)の本質は、当初27隻という大量建造が計画され「艦名が足りなくなる」とまで危惧されながら、軍縮条約で9隻に縮小され、そしてその9隻もまた、太平洋戦争でほとんどが失われていったという一点にある。峯風型の改良発展型として着実な技術的進歩を積み重ねた艦型だったが、その9隻中7隻が戦没するという結果は、艦の性能や設計の優劣だけでは測れない、戦争という現実の過酷さを物語っている。
しかし神風型の物語は、単なる喪失の記録ではない。「春風」がシャークを撃沈した戦果、「疾風」が太平洋戦争最初の犠牲となったという歴史的な重み、そして「松風」「旗風」が神風型のまま睦月型の艦隊に加わって戦い続けたという事実——これらは、艦型という区分を超えて、日本海軍の駆逐艦全体が一つの大きな運命共同体として機能していたことを示している。
神風型が残したものは何か。それは、開戦から終戦まで、太平洋戦争という長い戦争の全期間を通じて戦い続けた記録そのものである。太平洋戦争最初の犠牲艦「疾風」から、終戦後の救難活動でその生涯を終えた「神風」まで——猫工艦は、艦名すら足りなくなると心配されたこの艦型の9隻すべてに、深い敬意を表したい。
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太平洋戦争、最初の犠牲から最後の座礁まで——神風型9隻の全戦歴を、その身に纏え
「艦名が足りなくなると心配された艦型、その9隻の記録」
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書31『海軍軍戦備〈1〉昭和十六年十一月まで』、戦史叢書46『海上護衛戦』朝雲新聞社
- ・岩重多四郎『日本海軍小艦艇ビジュアルガイド 駆逐艦編』大日本絵画、2012年
- ・片桐大自『聯合艦隊銘銘伝』光人社、1993年
- ・『日本駆逐艦史』世界の艦船1992年7月号増刊第453集、海人社、1992年
- ・雨ノ宮洋之介『駆逐艦戦記 駆逐艦「神風」電探戦記』光人社、2011年
- ・牧野茂、福井静夫編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年
- ・Wikipedia「神風型駆逐艦 (2代)」「神風 (2代神風型駆逐艦)」「春風 (2代神風型駆逐艦)」「疾風 (2代神風型駆逐艦)」
1944年11月3日、南シナ海。空母「隼鷹」を護衛していた駆逐艦「秋風」に、本来「隼鷹」へ向けられていたはずの魚雷が命中し、轟沈した。「秋風」は峯風型駆逐艦の1隻でありながら、この時すでに睦月型の第30駆逐隊に編入されていた——竣工から23年、艦型の垣根を越えて最前線に立ち続けた末の戦没だった。峯風型・野風型15隻は、日本海軍が初めて到達した「日本オリジナル」の艦隊駆逐艦として1920年代に生まれ、その多くが太平洋戦争の終わりまで、旧式艦としてなお戦い続けた。
峯風型は、それまで英国艦をモデルに試行錯誤を重ねてきた日本海軍が確立した、初の国産設計思想の駆逐艦だった。艦首楼甲板をカットしたウェルデッキ、艦橋の船体中央移動——これらは第一次大戦前のドイツ水雷艇に学んだ凌波性向上策であり、39ノットという高速はレキシントン級やイギリス巡洋戦艦への対抗を意識したものだった。中でも4番艦「島風」が記録した40.7ノットは、当時の日本海軍最速記録であり、後の丙型駆逐艦「島風」(1943年、40.9ノット)にその名と記録を引き継がせることになる。
15隻のうち13番艦「野風」以降の3隻は、主砲・魚雷発射管の配置を改良し、非公式に「野風型」と呼ばれた。この改良——後部主砲を背負式に近づけ、魚雷発射管を連続配置する設計——は、続く神風型・睦月型、そして特型以降の背負式配置へと発展していく、日本駆逐艦設計史の重要な転換点だった。太平洋戦争開戦時には既に20年選手の旧式艦だったが、15隻中5隻(澤風・汐風・夕風・波風・矢風)が終戦まで生き残るという、決して低くない生存率を記録している。
IJN DESTROYER · MINEKAZE / NOKAZE CLASS · 一等駆逐艦 · 1920–1922 · 日本オリジナル設計の原型
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峯風型・野風型駆逐艦
竣工期間
1920〜1922年
全15隻(うち3隻が野風型)
最大速力
39.0 ノット
出力 38,500馬力
主砲
12cm単装砲 4門
対空能力なし(竣工時仕様)
魚雷兵装
53cm連装発射管3基(6射線)
六年式魚雷
建造所
舞鶴海軍工廠・三菱長崎造船所
2箇所で分担建造
最速記録
4番艦「島風」40.7ノット
当時の日本海軍最速
艦名の由来
「〜風」という気象・地形風
神風型・睦月型と並ぶ系譜
戦没率
15隻中8隻(約53%)
終戦生存5隻・特務艦転換2隻
「日本オリジナル」駆逐艦の誕生——凌波性を求めた設計変更
八四艦隊計画・八六艦隊計画のもと、1917年(大正6年)から1918年(大正7年)にかけて建造が始まった峯風型は、それまで日本海軍がイギリス駆逐艦の設計を手本にしてきた歴史に、初めて区切りをつけた艦型だった。艦首楼甲板を艦橋の直前でカットしてウェルデッキを設け、艦橋を船体中央部に寄せることで波浪の直撃を避けるという設計は、第一次世界大戦前のドイツ海軍が水雷艇に採用していた方式を取り入れたものだった。あわせて艦首にはスプーンバウを採用し、当時の秘密兵器「一号機雷」の運用にも対応させている。
主機にはパーソンズ式インパルス・リアクション・ギアード・タービンを搭載したが、竣工当初から故障が多く、この経験がのちの国産艦本式タービン開発の直接の契機となった。用兵側の満足には遠く及ばなかったものの、航洋駆逐艦としてようやく実用に足る性能を得た艦型と評価される。凌波性で用兵側を真に満足させるには吹雪型(特型)まで、航続距離の要求を満たすには無条約時代の陽炎型まで、それぞれ十数年を待たねばならなかった。
■ 「野風型」という非公式の呼び名
15隻のうち13番艦「野風」以降の最後の3隻(野風・波風・沼風)は、主砲・魚雷発射管の配置を改良したため、非公式に「野風型」あるいは「峯風改型」と呼ばれることがある。だが日本海軍の公式類別では、この3隻も含め全15隻が一貫して「峯風型」だった——「野風型」という艦種は、公式には存在しない。それでも後檣を後部に移し、3番砲と4番砲を背中合わせに配置するという設計変更は、続く神風型・
睦月型、そして特型以降の背負式主砲配置へと発展する、日本駆逐艦史の重要な転換点となった。
■ 峯風型・野風型 全戦歴ハイライト ■
【1920年3月16日】:2番艦「澤風」竣工。全工程を最初に終えた第1号艦
【1920年11月15日】:4番艦「島風」竣工、40.7ノットの日本海軍最速記録を樹立
【1940年4月1日】:「島風」「灘風」が哨戒艇に艦種変更(第一号・第二号哨戒艇)
【1943年1月13日】:哨戒艇となった旧「島風」がカビエン沖で戦没
【1943年1月23日】:「羽風」がカビエン沖で戦没
【1943年3月】:「秋風」がソロモン諸島で「秋風虐殺事件」の舞台となる
【1943年12月18日】:「沼風」が沖縄南方沖で戦没
【1944年2月17-18日】:トラック島空襲、「太刀風」戦没
【1944年5月1日】:「秋風」が睦月型の第30駆逐隊に編入
【1944年11月3日】:「秋風」、空母「隼鷹」を護衛中に被雷轟沈
【1945年2月20日】:「野風」が東シナ海で戦没
【1945年8月15日】:終戦時、澤風・汐風・夕風・波風・矢風(特務艦)の5隻が残存
峯風型・野風型 全15隻——建造・艦歴・最期
峯風型・野風型15隻は、舞鶴海軍工廠と三菱長崎造船所の2箇所で建造された。太平洋戦争開戦時には既に20年選手の旧式艦だったが、多くが解体されることなく駆逐艦籍のまま最前線任務——輸送船団護衛、空母随伴、トンボ釣り(不時着水機搭乗員の救助)——に投入され続けた。8隻が戦没、2隻が哨戒艇・標的艦へ艦種変更、5隻が終戦まで生存している。
| 艦名 |
建造所 |
竣工日 |
特記・最期 |
| 峯風(みねかぜ)★型名艦 [諸元→] |
舞鶴海軍工廠 |
1920.5.29 |
主にトラック島方面への船団護衛に従事。1944.2.10、台湾沖で米潜水艦「ポーギー」の雷撃を受け戦没。 |
| 澤風(さわかぜ)★第1号艦 [諸元→] |
三菱長崎造船所 |
1920.3.16 |
起工から竣工まで全工程を最初に完了した艦(澤風型・澤風級とも呼ばれる由来)。終戦まで生存、船体は福島県小名浜港で防波堤に転用(1965年撤去)。 |
| 沖風(おきかぜ) |
舞鶴海軍工廠 |
1920.8.17 |
主に船団護衛に従事。1943.1.10、勝浦灯台南方で米潜水艦「トリガー」の雷撃を受け戦没。 |
| 島風(しまかぜ)★初代・40.7ノット記録 |
舞鶴海軍工廠 |
1920.11.15 |
公試で40.7ノットの当時最速記録を樹立。1940.4.1哨戒艇「第一号哨戒艇」に改称、第二次ソロモン海戦等に参加。1943.1.13、カビエン沖で米潜水艦「ガードフィッシュ」の雷撃で戦没。艦名は後の丙型駆逐艦「島風」(40.9ノット)に継承。 |
| 灘風(なだかぜ) |
舞鶴海軍工廠 |
1921.9.30 |
1940.4.1哨戒艇「第二号哨戒艇」に改称。1945.7.25、ジャワ海で英潜水艦「スタッボーン」の雷撃を受け戦没——峯風型・野風型最後の喪失艦。 |
| 矢風(やかぜ) |
三菱長崎造船所 |
1920.7.19 |
1942.5.5標的艦に改造、7.20除籍・特務艦へ艦種変更。航空攻撃訓練・船団護衛に従事。終戦を迎えるも横須賀係留中に浸水・着底、浮揚後解体。 |
| 羽風(はかぜ) |
三菱長崎造船所 |
1920.9.16 |
南方攻略作戦後、主に船団護衛に従事。1943.1.23、カビエン沖で米潜水艦「ガードフィッシュ」の雷撃を受け戦没。 |
| 汐風(しおかぜ) [諸元→] |
舞鶴海軍工廠 |
1921.7.29 |
主に空母機動部隊・船団護衛に従事。1944-45年に回天搭載艦へ改造。1945.2.15、睦月型の第1駆逐隊へ編入。終戦まで生存、船体は澤風と同じ福島県小名浜港で堤防に転用され現存。 |
| 秋風(あきかぜ)★睦月型第30駆逐隊に編入 [諸元→] |
三菱長崎造船所 |
1921.4.1 |
主に船団護衛に従事。1943年3月、ニューギニア方面(カビエン〜ラバウル間)で「秋風虐殺事件」の舞台となる。1944.5.1、睦月型の第30駆逐隊(卯月・夕月等)へ編入。同年11.3、空母「隼鷹」護衛中、本来隼鷹へ向けられた米潜水艦「ピンタド」の魚雷が命中し南シナ海で戦没。 |
| 夕風(ゆうかぜ) |
三菱長崎造船所 |
1921.8.24 |
空母「鳳翔」の随伴艦として行動、三日月と共に三航戦所属。ほぼ無傷で終戦を迎え、1947.8.14、戦時賠償艦としてイギリスへ引き渡された。 |
| 太刀風(たちかぜ) |
舞鶴海軍工廠 |
1921.12.5 |
第十一航空艦隊附属として行動。1944.2.17、トラック島空襲で米空母艦載機の攻撃を受け戦没。 |
| 帆風(ほかぜ) |
舞鶴海軍工廠 |
1921.12.22 |
北方作戦後、主に船団護衛に従事。1944.7.6、セレベス海サンギ島西岸沖で米潜水艦「パドル」の雷撃を受け戦没。 |
| 野風(のかぜ)★野風型 |
舞鶴海軍工廠 |
1922.3.31 |
1943年7月、キスカ島撤退作戦などに参加。1945.2.20、東シナ海で米潜水艦「パーゴ」の雷撃を受け戦没。 |
| 波風(なみかぜ)★野風型 |
舞鶴海軍工廠 |
1922.11.11 |
1943年7月、キスカ島撤退作戦などに参加。損傷離脱後、再投入されず終戦まで生存。1947.10.3、戦時賠償艦として中華民国へ引き渡された。 |
| 沼風(ぬまかぜ)★野風型 |
舞鶴海軍工廠 |
1922.7.24 |
キスカ島撤退作戦などに参加。1943.12.18、沖縄南方沖で米潜水艦「グレイバック」の雷撃を受け戦没。 |
エピソード① 「秋風」——峯風型として睦月型の艦隊に散った艦
1944年5月1日、竣工から23年を経た峯風型「秋風」は、睦月型駆逐艦の第30駆逐隊(卯月・夕月・松風とともに)に編入された。艦型としては20年以上前の設計でありながら、峯風型はこうして最後まで最前線の一員として扱われ続けた。同年11月3日、空母「隼鷹」を護衛していた「秋風」に、米潜水艦「ピンタド」が発射した魚雷が命中する——本来「隼鷹」を狙った一撃が、たまたまそこにいた「秋風」を捉えたのである。「卯月」は護衛を続行し、「夕月」が生存者の捜索にあたったが、発見には至らなかった。峯風型でありながら睦月型の物語の一部となった「秋風」の最期は、艦型という区分を超えて、日本海軍の駆逐艦がどれほど柔軟に、そして過酷に運用され続けたかを物語っている。
エピソード② 「島風」——名前と記録を、後継艦に託して
峯風型4番艦「島風」は、公試運転で40.7ノットという、当時の日本海軍最速記録を樹立した。だが1940年、老朽化により哨戒艇「第一号哨戒艇」へと艦種変更され、1943年1月、カビエン沖で戦没する。その名と「最速」の称号は、1943年に竣工した丙型駆逐艦「島風」——次発装填装置を持たず、61cm5連装発射管3基15射線という破格の雷装で知られる、あの「島風」——へと引き継がれた。新型の「島風」が記録した40.9ノットは、旧「島風」の記録をわずかに更新するものであり、初代の挑戦が、20年以上の時を超えて後継艦の性能目標そのものになっていたことを示している。
■ 小名浜港に並んだ2隻の防波堤
「澤風」と「汐風」は、共に終戦まで生き延び、そして共に福島県小名浜港で防波堤に転用されるという、同じ運命をたどった。同じ艦型の2隻が、同じ場所で第二の人生を送ったという事実は、峯風型という艦型がどれほど地道に、そして長く、日本の戦後にまで足跡を残したかを物語っている。
猫工艦の考察:「日本オリジナル」が刻んだ、旧式艦の意地
峯風型・野風型の本質は、日本海軍が初めて自らの設計思想で作り上げた駆逐艦でありながら、太平洋戦争開戦時にはすでに旧式艦として扱われ、それでも最後まで最前線での任務を担い続けた、という一点にある。ウェルデッキと中央寄りの艦橋という凌波性向上策、そして13番艦以降の兵装配置改良——これらの設計上の工夫は、後の神風型・睦月型、さらには特型の背負式主砲配置にまで受け継がれる、日本駆逐艦発展史の礎となった。
しかし峯風型の物語は、技術史だけでは語り尽くせない。8隻が戦没する一方、5隻が終戦まで生き延び、うち2隻が戦時賠償艦として海外へ引き渡されるという結末は、この艦型がどれほど長く、そしてしぶとく戦争を生き抜いたかを物語っている。「秋風」が峯風型でありながら睦月型の艦隊に加わって散ったという事実、「島風」がその名と記録を後継艦に託したという事実——これらは、艦型という区分を超えて受け継がれていく、日本海軍駆逐艦全体の系譜そのものを象徴している。
峯風型・野風型が残したものは何か。それは、後に続くすべての日本駆逐艦の設計の出発点であり、そして「旧式艦」と呼ばれながらも最後まで戦い抜いた、地道な献身の記録である。猫工艦は、日本海軍駆逐艦史の原点に立った峯風型・野風型15隻すべてに、深い敬意を表したい。
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日本オリジナル設計の原点、そして旧式艦として最後まで戦い抜いた15隻——峯風型・野風型の意志を、その身に纏え
「日本駆逐艦の原型、そして後継艦へ託された記録」
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書31『海軍軍戦備〈1〉昭和十六年十一月まで』、戦史叢書46『海上護衛戦』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)「一等駆逐艦 一般計画要領書 附現状調査」・各艦支那事変功績概見表
- ・『日本駆逐艦史』世界の艦船1992年7月号増刊第453集、海人社、1992年
- ・牧野茂、福井静夫編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年
- ・『丸』編集部編『写真日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』光人社、1990年
- ・森恒英『軍艦メカニズム図鑑 日本の駆逐艦』グランプリ出版、1995年
- ・Wikipedia「峯風型駆逐艦」「峯風 (駆逐艦)」「島風 (峯風型駆逐艦)」
- → 神風型駆逐艦(2代)——峯風型の改良発展型、全9隻の記録
UZUKI 卯月
加古の650名を救い、睦月型を最後まで見届けた駆逐艦
石川島造船所が建造した睦月型駆逐艦4番艦。竣工から18年、太平洋戦争のほぼ全期間を生き延び、重巡「加古」の生存者650名を救助、僚艦「望月」「皐月」「秋風」の喪失を見届けた。1944年12月12日、オルモック湾で米魚雷艇の雷撃を受け戦没。この喪失をもって睦月型駆逐艦12隻は全艦戦没を完結させた艦の諸元と全戦歴。
SPECIFICATIONS
SPEC
基本諸元サマリー
| 艦名 | 卯月(うづき) |
| 艦型・番艦 | 睦月型駆逐艦 4番艦 |
| 計画名称 | 第25駆逐艦→第25号駆逐艦 |
| 建造所 | 石川島造船所(東京) |
| 起工日 | 1924年(大正13年)1月11日 |
| 進水日 | 1925年(大正14年)10月15日 |
| 竣工日 | 1926年(大正15年)9月14日 |
| 改名 | 1928年(昭和3年)8月1日、「第25号駆逐艦」より「卯月」に改称 |
| 除籍日 | 1945年(昭和20年)1月10日 |
| 類別 | 一等駆逐艦(1942.10.1〜「卯月型」) |
| 籍 | 佐世保鎮守府籍 |
| 全長 | 102.72m |
| 基準排水量 | 1,315t(竣工時)/改修後1,445t |
| 出力 | 38,500馬力 |
| 速力 | 公試37.25ノット(竣工時) |
| 主砲 | 12cm単装砲(末期は2門に減、竣工時4門) |
| 魚雷発射管 | 61cm3連装発射管(末期は1基、竣工時2基)——日本駆逐艦初の61cm雷装 |
| 機銃 | 25mm3連装2基・連装2基・単装6基、単装機銃座2基(1944.8.31時点) |
| 電探 | 13号電探1基 |
| 爆雷兵装 | 八一式爆雷投射機2基、爆雷投下軌条2基 |
| 初代艦長 | 郷田喜一郎中佐(1926.9.14〜) |
| 最終艦長 | 渡邊芳郎大尉/少佐(1943.5.25〜1944.12.12戦死、同日海軍中佐) |
| 所属部隊 | 第30駆逐隊(睦月・如月・弥生)→第23駆逐隊→第30駆逐隊 |
| 特記事項 | 1942年8月、被雷沈没した重巡「加古」の生存者650名を救助。同年10月、睦月型の艦艇類別表上の表記が一時「卯月型」に改称された |
| 最期 | 1944年12月11日夜、単独でオルモック湾へ向かい消息不明。米側記録によれば翌12日、魚雷艇PT-490・PT-492の雷撃を受け轟沈。戦死170名、生還59名 |
| 戦後 | 翌13日に僚艦「夕月」も戦没し、睦月型駆逐艦12隻は太平洋戦争で全て失われた |
TIMELINE
HISTORY
卯月 全戦歴タイムライン
1924年1月11日 — 起工
石川島造船所にて起工(第25号駆逐艦)
- 1923年度計画艦。1928年8月1日、「卯月」と正式に改称され睦月型駆逐艦に登録された。
1926年9月14日 — 竣工
竣工。第30駆逐隊を編成
- 初代艦長・郷田喜一郎中佐が着任。「睦月」「如月」「弥生」とともに第30駆逐隊を編成。
- 1930年11月、昭和天皇の御召艦「霧島」の供奉艦を務める。
1937-1941年 — 支那事変・南方作戦
仏印進駐からグアム島攻略戦へ
- 支那事変で中支・南支方面に進出、仏印進駐作戦にも参加。開戦時は第23駆逐隊(卯月・菊月・夕月)所属、南洋部隊指揮下でグアム島攻略作戦に参加。
- 1942年、ラバウル・ラエ・サラモア・ブーゲンビル島の各攻略作戦に参加。
1942年5月4-25日 — 菊月喪失、第30駆逐隊へ
ツラギ空襲、ナウル・オーシャン作戦中止
- ツラギ島攻略作戦で僚艦「菊月」が撃沈。「卯月」はナウル・オーシャン攻略部隊に編制替えとなるが、「沖島」喪失もあり作戦中止。
- 5月25日、第23駆逐隊解隊、「睦月」「弥生」「望月」の第30駆逐隊に配属。
1942年8月10-11日
重巡「加古」生存者650名を救助
- 8月10日、米潜水艦の雷撃で沈没した重巡「加古」の乗員救助に出動。
- 11日早朝、シンベリ島に到着し乗員650名を救出。
1942年8-10月 — 睦月・弥生の喪失
睦月型が「卯月型」に改称される事態に
- 8月25日、ガダルカナル島で空襲を受け損傷。同日「睦月」が第二次ソロモン海戦で沈没。佐世保海軍工廠で修理。
- 9月、ラビの戦いで「弥生」も沈没。10月1日、艦艇類別表上の表記が「睦月型」から「卯月型」に変更。12月1日、第30駆逐隊解隊。
1942年12月13-24日 — トラック輸送
空母「冲鷹」護衛からムンダ輸送へ
- 修理完成後、空母「冲鷹」護衛でトラック泊地へ。その後コロンバンガラ島・ムンダ飛行場への輸送作戦に参加。
1942年12月25-26日
南海丸と衝突、曳航リレー
- 米潜水艦の雷撃で損傷した輸送船「南海丸」を護衛中に同船と衝突。左舷中部に直径5mの大破孔、缶室浸水・舵故障で航行不能。
- 「長波」「有明」「谷風」「浦風」が救援出動。「有明」が曳航開始するも、翌朝B-24の空襲で被弾(戦死28・戦傷40)、曳航役を「浦風」に交代。「長波」の護衛でラバウル帰投。
1943年1-6月 — 修理、第30駆逐隊再編
明石の支援修理から佐世保本格修理へ
- 1月5日、ラバウルで再度被爆・損傷、トラックで工作艦「明石」の支援を受け応急修理。
- 3月31日、「望月」「三日月」と第30駆逐隊再編、第三水雷戦隊編入。6月、佐世保で本格修理。
1943年10月21日 — 木曾護衛、20時間近い連続空襲
被爆した軽巡「木曾」を護衛し抜く
- 軽巡「木曾」「多摩」と合流しラバウルへ向かう途中、「木曾」が空襲で被弾。「卯月」が「木曾」を護衛し、複数回の空襲を零戦や「五月雨」の救援を受けつつ耐え抜き、正午前にラバウル到着。
1943年10月23-31日
望月の戦没、そしてブカ島での交戦
- 10月23日、「望月」とジャキノットへ陸戦隊輸送中、揚陸中に「望月」が空襲で沈没。「卯月」は揚陸を断念し生存者を収容、ラバウルへ戻る。
- 10月29-30日、「文月」とガロベへ輸送。10月31日、ブカ島輸送中にメリル少将率いる米艦隊(巡洋艦4・駆逐艦8)と遭遇、砲撃を受け小破孔3箇所。
1943年11月2-25日 — セント・ジョージ岬沖海戦
大波・巻波・夕霧沈没するも生還
- 11月2日、ブーゲンビル島沖海戦の輸送隊として参加するも反転し交戦せず。11月5日以降のラバウル空襲でも損傷なし。
- 11月21-22日、ブカ島輸送成功。24日再出撃、25日午前0時、バーク大佐率いる米第23駆逐部隊に奇襲され「大波」「巻波」「夕霧」沈没。「卯月」は避退中に砲撃され損傷するも「天霧」とともに早朝ラバウル到着。
1943年12月-1944年3月 — トラック・パラオでの整備
機関故障を経て内地帰投
- パラオで検査中にタービン・舵取機械の重大故障の恐れを発見、内地回航。1944年1月、トラック経由で佐世保到着、3月に修理完了。
1944年3-8月 — 東松船団護衛
サイパン・グアム方面への船団護衛
- 3月、東松二号船団護衛中に「龍田」が米潜水艦「サンドランス」の雷撃で沈没、卯月は爆雷攻撃を実施。4月、東松三号・六号船団護衛。
- 6月18-20日、マリアナ沖海戦に護衛艦として参加。20日、被弾炎上したタンカー「玄洋丸」から燃料補給・乗員収容後、主砲でこれを処分。
1944年9月17-22日 — 西貢丸沈没、皐月戦没
相次ぐ僚艦・随伴艦の喪失
- 9月18日、特設巡洋艦「西貢丸」が米潜水艦「フラッシャー」の雷撃で沈没、卯月・夕月・秋風が捜索・爆雷攻撃。
- 9月21日、随伴予定だった「皐月」がマニラ湾で空襲を受け戦没。9月22日、輸送船「順源丸」が米潜水艦「レイポン」の雷撃で沈没。
1944年11月3日 — 秋風の喪失を目撃
隼鷹狙いの魚雷が秋風に命中
- 空母「隼鷹」護衛中、米潜水艦「ピンタド」の魚雷が「秋風」に命中し轟沈。「卯月」は護衛続行、「夕月」が秋風生存者の捜索にあたるも発見できず。
1944年12月9-11日
第九次多号作戦、オルモック湾へ
- 兵員4,400名を輸送する第九次多号作戦のため「桐」「夕月」等とマニラ出港。三十駆司令が輸送部隊の指揮を執る。
- 12月11日、レイテ島北で空襲を受け輸送船「たすまにや丸」「美濃丸」沈没。「卯月」は駆潜艇2隻とともに救助・輸送船「空知丸」護衛。
- 午後10時30分、単独でオルモック湾へ向かい、以後消息不明となる。
1944年12月12日
米魚雷艇の雷撃で轟沈
- 米側記録によれば、魚雷艇PT-490(艇長ジョン・マッケルフレッシュ大尉)・PT-492(艇長メルビン・ヘイズ予備大尉)がレーダーで「卯月」を捕捉、魚雷2本を発射し命中、轟沈。
- 艦長・渡邊芳郎少佐以下170名戦死(同日付で中佐昇進)、生還者59名。
1944年12月13日 — 夕月も戦没
睦月型駆逐艦12隻、全艦戦没が完結
- 僚艦「夕月」もシブヤン海で沈没。この2隻の戦没により、睦月型駆逐艦12隻は太平洋戦争で全て失われた。
1945年1月10日 — 除籍
「夕月」と共に帝国駆逐艦籍より除籍
SUMMARY
RECORD
卯月 全艦歴まとめ
卯月は1926年に石川島造船所で竣工した睦月型駆逐艦4番艦。竣工から18年、太平洋戦争のほぼ全期間を生き延びた「最後の生存者」だった。1942年8月には重巡「加古」の生存者650名を救助し、同年10月には睦月型の艦艇類別表上の表記が一時「卯月型」に変更されるほど、この艦型を代表する存在となった。1943年には「望月」の戦没を見届け、セント・ジョージ岬沖海戦では「大波」「巻波」「夕霧」の喪失を横目に生き延び、1944年には「皐月」「秋風」の喪失も目撃した。同年12月、第九次多号作戦でオルモック湾へ単独で向かった後、米魚雷艇2隻の雷撃を受けて轟沈。戦死170名、生還59名。翌13日には僚艦「夕月」も戦没し、この2隻の喪失をもって、睦月型駆逐艦12隻は太平洋戦争で全て失われることになった。
加古の650名を救った艦——卯月が果たした重巡「加古」生存者の救助は、この艦が「最後まで生き延びる艦」であることを予感させる、最初の大きな功績だった。
睦月型、最後の1隻の孤独な最期——単独でオルモック湾に向かい、日本側の記録には「爾後消息ナシ」とのみ残された卯月の最期は、皮肉にも撃沈した米軍の記録によってのみ詳細が伝わっている。
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加古の650名を救い、睦月型を最後まで見届けた駆逐艦——「卯月」の記録を、その身に纏え
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第30駆逐隊戦時日誌戦闘詳報・第三水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報・軍艦加古戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書46『海上護衛戦』、戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』関連巻
- ・浅田博、高城直一『海防艦三宅戦記 輸送船団を護衛せよ』光人社NF文庫、2013年
- ・ブライアン・クーパー(実松譲訳)『高速魚雷艇 PT Boat』サンケイ新聞社出版局、1972年
- ・淵田美津雄、奥宮正武『機動部隊』朝日ソノラマ、1992年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・Wikipedia「卯月 (睦月型駆逐艦)」「睦月型駆逐艦」「多号作戦」「セント・ジョージ岬沖海戦」
- → 【諸元と全戦歴】秋風——竣工から南シナ海での最期まで
- → 【諸元と全戦歴】松風——竣工から父島沖での最期まで
1944年12月11日午後10時30分、レイテ島オルモック湾。空襲で輸送船2隻を失った「卯月」は、駆潜艇に救助と護衛を任せ、単独で湾内へと向かった。それきり、艦からの消息は途絶えた。米側の記録によれば、翌12日、レーダーで捕捉した魚雷艇PT-490とPT-492が「卯月」に魚雷2本を撃ち込んだ。艦は轟沈した。艦長・渡邊芳郎少佐以下170名が戦死し、59名が生還したと伝わる。翌13日には僚艦「夕月」も沈没し、こうして睦月型駆逐艦12隻は、太平洋戦争において全て失われることになった。
「卯月」は睦月型駆逐艦の4番艦として、東京・石川島造船所で1924年1月11日に起工、1926年9月14日に竣工した。「睦月」「如月」「弥生」とともに第30駆逐隊を編成し、太平洋戦争のほぼ全期間、地道な輸送・護衛任務を担い続けた「卯月」は、竣工から18年を経て、睦月型全体の物語を締めくくる最後の1隻となった。
その艦歴には、幾多の僚艦の最期を見届けてきた記憶が刻まれている。重巡「加古」の生存者650名を救助し、「望月」を見送り、「皐月」の喪失を知り、「秋風」が沈む様を目の当たりにした。「卯月」自身もまた、最後には誰にも見届けられないまま、単独で海に消えていった。
■ 睦月型4番艦「卯月」基本諸元 ■
進水・竣工
1925.10.15 → 1926.9.14
初代艦長 郷田喜一郎中佐
基準排水量
1,315t(竣工時)
→改修後1,445t
全長 102.72m
最大速力
37.25ノット(竣工時)
出力 38,500馬力
主砲
12cm単装砲 2門(末期)
竣工時4門、戦争後半に減
魚雷兵装
61cm3連装発射管1基(末期)
竣工時は2基、日本駆逐艦初の61cm雷装
所属部隊
第30駆逐隊(睦月・如月・弥生)
第六水雷戦隊→第三水雷戦隊他
特筆データ
重巡「加古」生存者650名を救助
「望月」生存者も収容
最終艦名・結末
1944.12.12 オルモック湾で戦没
睦月型12隻、最後の喪失艦
前史——加古の650名を救い、菊月の後を継ぐ
竣工した「卯月」は佐世保鎮守府に所属し、1930年11月には「睦月」「如月」「弥生」とともに、昭和天皇の御召艦「霧島」の供奉艦を務めた。1937年からの支那事変では中支・南支方面に進出し、仏印進駐作戦にも参加。太平洋戦争開戦時は第23駆逐隊(卯月・菊月・夕月)に所属し、グアム島攻略戦、ラバウル・ラエ・サラモア攻略戦を経て、1942年5月4日のツラギ空襲では僚艦「菊月」が失われる。「卯月」は代わってナウル・オーシャン攻略部隊に編制替えされたが、この作戦は敷設艦「沖島」の喪失もあって中止された。5月25日、第23駆逐隊は解隊され、「卯月」は「睦月」「弥生」「望月」の第30駆逐隊に編入される。
1942年8月10日、米潜水艦の雷撃で沈没した重巡「加古」の乗員救助に出動した「卯月」は、11日早朝にシンベリ島へ到着し、乗員650名を救出した。8月25日、「卯月」はガダルカナル島で空襲を受け損傷、同日「睦月」が第二次ソロモン海戦で沈没する。9月にはラビの戦いで「弥生」も失われ、10月には睦月型の艦艇類別が「卯月型」に改称される事態にまでなった——皮肉にも「卯月」の名が、この艦型の代名詞になりかけた瞬間だった。12月1日、第30駆逐隊は解隊された。
■ 「卯月」の全戦歴ハイライト ■
【1926.9.14】:石川島造船所で竣工。第30駆逐隊を経て第23駆逐隊へ
【1942.8.11】:重巡「加古」の生存者650名を救助
【1942.12.25】:輸送船「南海丸」と衝突、大破穿孔・航行不能
【1943.10.24】:僚艦「望月」の戦没、生存者を収容
【1943.10.31】:ブカ島沖でメリル艦隊と遭遇、砲撃で小破
【1943.11.25】:セント・ジョージ岬沖海戦、大波・巻波・夕霧沈没するも生還
【1944.6.20】:マリアナ沖海戦、玄洋丸から燃料受給後に処分
【1944.9.21】:僚艦「皐月」がマニラ湾空襲で戦没
【1944.11.3】:僚艦「秋風」が被雷轟沈するのを目撃
【1944.12.12】:オルモック湾で米魚雷艇に撃沈され戦没
【1944.12.13】:夕月も戦没。睦月型12隻、全艦戦没が完結
エピソード①——衝突と曳航リレー、荒れた師走
1942年12月25日夕、輸送船「南海丸」を護衛してコロンバンガラ島へ向かっていた「卯月」は、米潜水艦の雷撃を受け大破した「南海丸」を避退させようとした際、その船体と衝突してしまう。「卯月」は左舷中部に直径5mの大破孔を負い、缶室が浸水、舵も故障して航行不能となった。ラバウルから「長波」「有明」「谷風」「浦風」の4隻が救援に向かい、「卯月」は「有明」に曳航される。
だが翌26日朝、曳航中の「有明」がB-24爆撃機の空襲を受け至近弾で損傷、戦死28名・戦傷40名という大きな被害を出してしまう。曳航の役目は「浦風」へと引き継がれ、「長波」がその護衛につき、ようやく「卯月」はラバウルへ帰り着いた。1943年1月5日にはラバウルで再び爆撃を受けさらに損傷し、工作艦「明石」の支援で応急修理を受けている。1隻の駆逐艦が動けなくなると、そこから連鎖的に複数の艦が危険にさらされる——この年末年始の一連の出来事は、駆逐艦同士の助け合いがはらむリスクを、如実に物語っていた。
■ 南海丸衝突、曳航リレーの顛末 ■
12/25夕
「南海丸」と衝突、大破穿孔・航行不能
12/26朝
「有明」が空襲で被弾、曳航を「浦風」に交代
■ 助けに来た艦が、さらに傷つく
「卯月」を救おうとした「有明」自身が空襲で大きな被害を受けたという事実は、駆逐艦の救援活動そのものが、常に新たな危険を呼び込みかねないという現実を物語っている。それでも艦隊は曳航役を交代させながら、最後まで「卯月」を見捨てなかった。
エピソード②——望月を見送り、僚艦の最期を見つめ続けて
1943年10月23日、「卯月」は「望月」とともにニューブリテン島ジャキノットへ陸戦隊約100名を輸送するためラバウルを出撃した。揚陸中に敵機の攻撃を受け、「望月」が沈没する。「卯月」は揚陸を断念し、「望月」の生存者を収容してラバウルへ戻った。この8日後の10月31日には、ブカ島輸送に向かった「卯月」自身が、メリル少将率いる米艦隊(巡洋艦4隻、駆逐艦8隻)による砲撃圏内に入り、小破孔3箇所を生じている。
さらに11月25日、ブカ島輸送からの帰路についていた「大波」「巻波」「夕霧」がアーレイ・バーク大佐率いる米駆逐部隊の奇襲を受け、3隻とも沈没するというセント・ジョージ岬沖海戦が起きる。「卯月」は避退中に砲撃を受け損傷したが、僚艦「天霧」とともに、なんとか早朝のラバウルへたどり着いた。この頃の「卯月」は、次々と沈んでいく僚艦たちを見送りながら、自らも生き延びるという綱渡りを繰り返していた。
■ 1943年秋、相次ぐ僚艦の喪失 ■
11/25
セント・ジョージ岬沖海戦、大波・巻波・夕霧沈没も卯月は生還
■ 生き延びることの重み
「大波」「巻波」「夕霧」が一度に失われた海戦で、「卯月」だけが生き延びたという事実は、単なる幸運では片付けられない。だがこの「生き延びた」という経験の蓄積こそが、後に「卯月」が睦月型最後の1隻として、この艦型の物語を締めくくる立場に立たされる伏線でもあった。
エピソード③——オルモック湾、誰にも見届けられなかった最期
1944年に入ると「卯月」は「夕月」と行動を共にすることが多くなる。6月のマリアナ沖海戦では、炎上したタンカー「玄洋丸」から燃料補給と乗員収容を受けた後、主砲でこれを処分した。9月18日には特設巡洋艦「西貢丸」が米潜水艦「フラッシャー」に撃沈される中、生存者の捜索と爆雷攻撃にあたっている。9月21日には、僚艦「皐月」がマニラ湾で空襲を受け戦没した。11月3日には、空母「隼鷹」を護衛していた「秋風」が、本来「隼鷹」に向けられた魚雷を受けて轟沈するのを、「卯月」は目の当たりにした。この時「卯月」は護衛を続行し、「夕月」が秋風生存者の捜索にあたっている。
1944年12月9日、「卯月」「夕月」は駆逐艦「桐」らとともに、兵員4,400名を輸送する第九次多号作戦のためマニラを出港した。12月11日、レイテ島北で空襲を受け、輸送船「たすまにや丸」「美濃丸」が沈没する。「卯月」は駆潜艇2隻とともに救助と輸送船「空知丸」の護衛にあたった後、同日午後10時30分、単独でオルモック湾へ向かい、そのまま消息不明となった。
米側の記録によれば、翌12日、米魚雷艇PT-490(艇長ジョン・マッケルフレッシュ大尉)とPT-492(艇長メルビン・ヘイズ予備大尉)がレーダーで「卯月」を捕捉し、魚雷を発射した。魚雷2本が命中し、「卯月」は轟沈した。艦長・渡邊芳郎少佐以下170名が戦死し、同日付で渡邊少佐は海軍中佐に昇進した。生還者は59名と記録されている。翌13日、僚艦「夕月」もシブヤン海で沈没し、この2隻の戦没によって、睦月型駆逐艦12隻は太平洋戦争において全て失われることになった。
12/11
レイテ島北で空襲、輸送船2隻沈没。「卯月」は救助・護衛にあたる
12/12
米魚雷艇2隻の雷撃で轟沈。戦死170名
12/13
「夕月」も戦没。睦月型12隻、全艦戦没が完結
猫工艦の考察
「卯月」の本質は、竣工から18年、太平洋戦争のほぼ全期間を生き延び続けた「最後の生存者」でありながら、その物語の終幕を誰にも見届けられないまま迎えた、という一点にある。重巡「加古」の650名を救い、「望月」の生存者を収容し、幾多の海戦を生き延びてきた「卯月」は、睦月型19隻——いや12隻の中で最も長くその名を保ち続けた艦の1隻だった。
しかし「卯月」の最期は、そのような重みとは裏腹に、静かで孤独なものだった。単独でオルモック湾へ向かい、そのまま消息を絶ち、日本側の記録には「爾後消息ナシ」の一文が残るのみである。私たちがその最期の詳細を知るのは、皮肉にも撃沈した側であるアメリカ軍の記録によってだった。これほど多くの僚艦の最期を見届けてきた艦が、自らの最期は誰にも見届けられなかったという事実は、戦争が奪うものの中に、時に「記録される権利」さえも含まれることを物語っている。
それでも「卯月」が残したものは確かにある。「卯月」と「夕月」、この2隻の戦没によって、日本駆逐艦として初めて61cm魚雷を搭載し「並型駆逐艦の完成形」と呼ばれた睦月型12隻は、生存者ゼロという記録を完結させた。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに1つの艦型が辿った長い戦争の全貌——1番艦「睦月」の戦没から、最後の「卯月」「夕月」の喪失まで——を、静かに語り継いでくれる。猫工艦は、睦月型を最後まで見届けた「卯月」と、渡邊芳郎少佐以下170名の乗組員、そして睦月型12隻すべてに、深い敬意を捧げたい。
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加古の650名を救い、睦月型を最後まで見届けた駆逐艦——「卯月」の記録を、その身に纏え
「爾後消息ナシ——記録される権利さえ奪われた、最後の1隻」
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睦月型 · 12番艦(最終竣工艦) · 第30駆逐隊
YUZUKI 夕月
睦月型12隻の物語を締めくくった最終竣工艦
藤永田造船所が建造した睦月型駆逐艦12番艦にして最終竣工艦。ツラギ空襲での艦長戦死、夕張・秋風の喪失を見届け、1944年12月12日、第九次多号作戦の帰途に空襲を受けシブヤン海で戦没。この艦の喪失をもって睦月型12隻は全艦戦没を完結させた。
SPECIFICATIONS
SPEC
基本諸元サマリー
| 艦名 | 夕月(ゆうづき) |
| 艦型・番艦 | 睦月型駆逐艦 12番艦(最終竣工艦) |
| 計画名称 | 第34号駆逐艦 |
| 建造所 | 藤永田造船所 |
| 起工日 | 1925年(大正14年)11月27日 |
| 進水日 | 1927年(昭和2年)3月4日 |
| 竣工日 | 1927年(昭和2年)7月25日 |
| 改名 | 1928年(昭和3年)8月1日、「第34号駆逐艦」より「夕月」に改称 |
| 除籍日 | 1945年(昭和20年)1月10日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 籍 | 佐世保鎮守府籍 |
| 全長 | 102.72m |
| 基準排水量 | 1,315t(竣工時)/改修後1,445t |
| 出力 | 38,500馬力 |
| 速力 | 公試37.25ノット(竣工時) |
| 主砲 | 45口径三年式12cm単装砲 4門(戦争後半に一部撤去) |
| 魚雷発射管 | 61cm3連装発射管 2基(八年式魚雷12本)——日本駆逐艦初の61cm雷装 |
| 機銃 | 留式7.7mm機銃2挺(竣工時、後に25mm機銃を大幅増備) |
| 爆雷兵装 | 爆雷投射器(爆雷12個) |
| 初代艦長 | 穂本繁治中佐(1927.7.25〜) |
| 最終艦長 | 松本正平少佐(1943.10.20〜1944.12.15戦没時) |
| 所属部隊 | 第23駆逐隊(三日月・菊月・望月)→第29駆逐隊→第二海上護衛隊→第30駆逐隊 |
| 特記事項 | 1942年5月4日のツラギ空襲で艦長・橘広太少佐が戦死、姉妹艦「菊月」の生存者(艦長・森幸吉少佐含む)を収容し森少佐が新艦長に。1944年4月に「夕張」、同年11月に「秋風」の喪失を見届けた |
| 最期 | 1944年12月12日、第九次多号作戦(オルモック輸送)帰途にマニラ湾口で空襲を受け機関部被弾、航行不能。僚艦「桐」の処分砲撃の後、午後8時27分シブヤン海で沈没 |
| 戦後 | この戦没をもって睦月型駆逐艦12隻は太平洋戦争で全て失われた。乗組員181名は海軍陸戦隊に編入されマニラ市街戦等で多数戦死 |
TIMELINE
HISTORY
夕月 全戦歴タイムライン
1925年11月27日 — 起工
藤永田造船所にて起工(第34号駆逐艦)
- 1923年度計画艦。1928年8月1日、「夕月」と正式に改称され睦月型駆逐艦に登録された(睦月型で最後の竣工艦)。
1927年7月25日 — 竣工
竣工。第23駆逐隊を編成
- 初代艦長・穂本繁治中佐が着任。「三日月」と第23駆逐隊を編成、後に「菊月」「望月」も加わる。
1940-1941年 — 第二航空戦隊、南部仏印進駐
空母「蒼龍」「飛龍」の護衛任務
- 1940年11月、第二航空戦隊(司令官・山口多聞少将)麾下となる。1941年7月、南部仏印進駐作戦に参加。
- 9月15日、橘広太少佐が艦長に着任。
1941年12月8日 — グアム島攻略戦
開戦時、南洋部隊に編入
- 第23駆逐隊(夕月・卯月・菊月)は南洋部隊に編入されグアム島攻略作戦に従事。真珠湾攻撃には参加せず。
1942年5月4日
ツラギ空襲、艦長戦死・菊月生存者を収容
- ツラギ島攻略作戦中、空母「ヨークタウン」艦上機の攻撃を受ける。「夕月」は小破するも艦長・橘広太少佐が戦死。
- 姉妹艦「菊月」が直撃弾を受け座礁、6日に放棄。第23駆逐隊司令と菊月艦長・森幸吉少佐ら生存者が「夕月」に移乗。
- 5月15日、森少佐が正式に夕月艦長となる。
1942年5月10-19日 — 沖島救援
臨時第十九戦隊旗艦に
- 敷設艦「沖島」が米潜水艦S-42の雷撃で大破、「夕月」「卯月」は爆雷攻撃でS-42を損傷させるも「沖島」は沈没。
- 「夕月」は臨時の第十九戦隊旗艦となるが、攻略作戦自体は中止された。
1942年後半-1943年 — 南東方面・内南洋護衛
ブナ輸送、ガダルカナル方面護衛
- 第29駆逐隊、後に第二海上護衛隊に編入。ブナ輸送やガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃に参加。
- 1943年3月、護衛中の輸送船が被雷、爆雷攻撃を実施。10月、松本正平少佐が艦長に着任。
1943年11月19-25日 — 北江丸曳航
被雷船の曳航に苦闘
- 米潜水艦「ハーダー」の攻撃で船団の「鵜戸丸」沈没、「北江丸」大破。「夕月」が曳航を試みるも船体切断で中断。
1943年11月30日 — 第30駆逐隊編入
第三水雷戦隊麾下へ
- 12月、石川島造船所で主砲・魚雷一部撤去、レーダー整備、機銃増強の改装工事。
1944年2月17-24日 — 南東方面最後の駆逐艦輸送
「水無月」と共にガブブ輸送
- トラック島空襲直後のラバウルへ進出。第三水雷戦隊旗艦となり、「水無月」とニューブリテン島ガブブへの輸送を実施。これが南東方面最後の駆逐艦輸送となった。
1944年4月27-28日
夕張の喪失、生存者を収容
- ソンソロール島輸送任務を終え帰路につく「夕張」と「夕月」を米潜水艦「ブルーギル」が発見。
- ブルーギルは最初「夕月」を狙い、続いて「夕張」に目標変更。魚雷1本が命中し「夕張」は28日朝沈没。
- 「夕月」は爆雷でブルーギルを追い払い、第三水雷戦隊司令部と「夕張」生存者を収容した。
1944年7月4日 — 清霜の指揮下で
「皐月」と共に東京湾へ、清霜艦長・宮崎勇少佐の指揮下に
- 伊号輸送作戦従事中の夕雲型「清霜」(艦長・宮崎勇少佐)の指揮下に入り、輸送船護衛で東京湾へ。米艦載機の空襲で「皐月」が若干被害。
- 7月17日、睦月型3隻(夕月・卯月・皐月)で機動部隊燃料補給部隊を護衛しシンガポールへ。リンガ泊地で夕雲型「秋霜」も交えた合同訓練を実施。
1944年11月3日
秋風の喪失、生存者見つからず
- 空母「隼鷹」の輸送部隊に加わり航行中、米潜水艦「ピンタド」が発射した魚雷が「隼鷹」を逸れ「秋風」に命中、轟沈。
- 「夕月」が救援に向かうも生存者は見つからなかった。
1944年12月9-12日
第九次多号作戦、睦月型最後の輸送作戦
- 「夕月」「卯月」がレイテ島オルモックへの増援輸送「第九次多号作戦」に投入。12月9日、兵員4,400名を乗せマニラ出港。
- 12月11日、レイテ島北で空襲を受け輸送船2隻沈没。「卯月」が救助・護衛にあたり、「夕月」は「桐」等とオルモック湾へ。
- 同日21時30分、揚陸開始直後に米軍補給船団・護衛駆逐艦5隻と遭遇。12日午前0時過ぎ「コールドウェル」「コグラン」と交戦するも双方被害なし。
- 午前2時、「夕月」「桐」は湾外脱出も、「夕月」は揚陸支援のため単艦で湾内に戻る。
1944年12月12日夕刻
マニラ帰投中に空襲、シブヤン海で戦没
- 「卯月」はこの日未明、既に魚雷艇の攻撃で沈没していた。
- マニラへ帰投中の3隻がP-38・F4U戦闘機の襲撃を受ける。「夕月」は機関部に爆弾2発命中、火災発生・航行不能。
- 乗員は「桐」と第140号輸送艦に移乗、第30駆逐隊司令も「桐」に移動。「桐」による処分砲撃も艦はすぐに沈まず。
- 午後8時27分、パナイ島東方のシブヤン海で沈没。この戦没をもって睦月型駆逐艦12隻は全艦戦没が完結した。
1945年1月10日 — 除籍
「卯月」と共に帝国駆逐艦籍より除籍
- 第30駆逐隊も解隊。乗組員181名は海軍陸戦隊に編入され、マニラ市街戦・フィリピン地上戦で多数が戦死した。
SUMMARY
RECORD
夕月 全艦歴まとめ
夕月は1927年に藤永田造船所で竣工した睦月型駆逐艦12番艦、そして最終竣工艦。1942年5月のツラギ空襲で艦長を失いながらも、姉妹艦「菊月」の生存者を受け入れ、その艦長・森幸吉少佐を新艦長として迎えた。以後も沖島救援、南東方面・内南洋方面での護衛任務を重ね、1944年4月には僚艦「夕張」の喪失を、同年11月には「秋風」の喪失を見届けている。同年12月、第九次多号作戦でオルモックへの輸送任務に従事したが、帰途にマニラ湾口で空襲を受け機関部が被弾、僚艦「桐」の処分砲撃を経て12月12日夜、シブヤン海で沈没した。同日未明に沈んでいた「卯月」と合わせ、この戦没をもって睦月型駆逐艦12隻は太平洋戦争で全て失われることになった。乗組員181名は陸戦隊に編入され、マニラの地上戦で多数が戦死している。
喪失と継承の連鎖——菊月艦長を新艦長に迎え、夕張・秋風の喪失を見届けた夕月の艦歴は、駆逐艦同士が互いの運命を引き継ぎ合う、睦月型全体の縮図だった。
睦月型12隻、全艦戦没の完結——日本駆逐艦初の61cm魚雷を搭載し「並型駆逐艦の完成形」と呼ばれた睦月型は、最終竣工艦「夕月」の戦没をもって、生存艦ゼロという記録を完結させた。
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睦月型12隻の物語を締めくくった最終竣工艦——「夕月」の記録を、その身に纏え
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第30駆逐隊戦時日誌戦闘詳報・第十一水雷戦隊戦時日誌・第一海上護衛隊戦時日誌
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書56『比島捷号陸軍作戦(2)』、戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』関連巻
- ・岸見勇美『地獄のレイテ輸送作戦 敵制空権下の多号作戦の全貌』光人社NF文庫、2010年
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編』光人社NF文庫、1995年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・Wikipedia「夕月 (駆逐艦)」「睦月型駆逐艦」「多号作戦」「珊瑚海海戦」
- → 【諸元と全戦歴】卯月——加古救助からオルモック湾での最期まで
- → 【諸元と全戦歴】秋風——竣工から南シナ海での最期まで
1944年12月12日夕刻、マニラ湾口。オルモック湾への輸送任務を終えて帰投中の駆逐艦「夕月」に、米軍のP-38ライトニングとF4Uコルセアが襲いかかった。機関部に爆弾2発が命中し、火災発生。航行不能となった「夕月」の乗員は、僚艦「桐」と輸送艦へ移った。「桐」は砲撃による処分を試みたが、艦はすぐには沈まなかった。午後8時27分、パナイ島東方のシブヤン海で、「夕月」はようやく静かに海へ消えていった。この日、僚艦「卯月」もすでに未明に沈んでおり、「夕月」の戦没をもって、睦月型駆逐艦12隻は太平洋戦争においてすべて失われた。
「夕月」は睦月型駆逐艦の12番艦、そしてこの艦型で最後に竣工した艦だった。藤永田造船所で1925年11月27日に起工、1927年7月25日に竣工した。「三日月」「菊月」「望月」とともに第23駆逐隊を編成し、真珠湾攻撃の陰でグアム島攻略戦へ向かった「夕月」は、竣工から17年、太平洋戦争のほぼ全期間を戦い抜き、そして睦月型全体の物語を締めくくる艦となった。
その艦歴には、幾度も「船を失った側」に立たされた記憶が刻まれている。ツラギでは自艦の艦長を失い、菊月からの生存者を受け入れ、パラオでは僚艦「夕張」を、ブルネイ沖では僚艦「秋風」を失った。仲間を見送り続けてきた「夕月」自身も、最後には僚艦「桐」に見送られる番となった。
■ 睦月型12番艦(最終竣工艦)「夕月」基本諸元 ■
建造所
藤永田造船所
起工 1925年11月27日
進水・竣工
1927.3.4 → 1927.7.25
初代艦長 穂本繁治中佐
基準排水量
1,315t(竣工時)
→改修後1,445t
全長 102.72m
最大速力
37.25ノット(竣工時)
出力 38,500馬力
主砲
45口径三年式12cm単装砲 4門
戦争後半は主砲・発射管一部撤去
魚雷兵装
61cm3連装発射管2基(6射線)
日本駆逐艦初の61cm雷装
所属部隊
第23駆逐隊→第30駆逐隊
第二航空戦隊→南洋部隊他
特筆データ
睦月型最後の竣工艦にして最後の戦没艦
夕張・秋風の喪失を見届けた艦
最終艦名・結末
1944.12.12 シブヤン海で戦没
睦月型12隻、全艦戦没が完結
前史——ツラギで艦長を失い、菊月を受け入れる
竣工した「夕月」は佐世保鎮守府に所属し、太平洋戦争開戦時には第二航空戦隊(空母「蒼龍」「飛龍」)麾下の第23駆逐隊に所属していた。だが空母2隻は真珠湾攻撃に参加する一方、航続距離の短い睦月型の第23駆逐隊は南洋部隊に編入され、グアム島攻略作戦に従事する。1942年5月4日、ツラギ島攻略作戦中のツラギ泊地で、「夕月」は空母「ヨークタウン」艦上機の攻撃を受けた。この空襲で艦長・橘広太少佐が戦死し、多数の死傷者を出す。同時に姉妹艦「菊月」も直撃弾を受けて座礁、翌日放棄された。
第23駆逐隊司令と、菊月艦長・森幸吉少佐ら生存者は「夕月」に移乗した。艦長を失っていた「夕月」には、その森少佐が新たな艦長として着任する。1隻の艦が艦長を失い、もう1隻の艦を失った艦長がその後任となる——この巡り合わせは、睦月型全体の艦歴を貫く「喪失と継承の連鎖」を象徴していた。その後「夕月」は臨時の第十九戦隊旗艦にもなり、船団護衛任務を重ねていく。
■ 「夕月」の全戦歴ハイライト ■
【1927.7.25】:藤永田造船所で竣工。第23駆逐隊を編成
【1942.5.4】:ツラギ空襲、艦長・橘広太少佐戦死。菊月生存者を収容
【1944.4.27-28】:僚艦「夕張」が被雷。爆雷でブルーギルを撃退、夕張生存者を収容
【1944.7.4】:夕雲型「清霜」の指揮下で東京湾へ、僚艦「皐月」が空襲被害
【1944.11.3】:僚艦「秋風」が身代わりのように被雷轟沈。救援も生存者見つからず
【1944.12.11-12】:第九次多号作戦、オルモック湾突入。米駆逐艦5隻と交戦
【1944.12.12夕刻】:マニラ帰投中に空襲、機関部被弾・航行不能
【同日20:27】:シブヤン海で戦没。睦月型12隻、全艦戦没が完結
【1945.1.10】:帝国駆逐艦籍より除籍
エピソード①——夕張を救い、秋風を見送る
1944年4月27日、パラオ・ソンソロール島への輸送を終えて帰路についた軽巡「夕張」と「夕月」は、哨戒中の米潜水艦「ブルーギル」に発見された。ブルーギルはまず「夕月」を狙ったのち、目標を「夕張」に変更する。発射された魚雷6本のうち1本が「夕張」に命中。「夕月」は爆雷でブルーギルを追い払ったが、「夕張」は翌28日朝、沈没した。第三水雷戦隊司令部と「夕張」の生存者は「夕月」に移乗した。
半年後の11月3日、今度は空母「隼鷹」の輸送部隊に加わっていた「夕月」の目の前で、僚艦「秋風」が犠牲になる。米潜水艦「ピンタド」が本来「隼鷹」を狙って発射した魚雷が、「秋風」に命中して轟沈させたのである。「夕月」は救援に向かったが、生存者を見つけることはできなかった。「夕張」を救い、「秋風」を見送れなかった——「夕月」の艦歴には、救えた命と救えなかった命の両方が刻まれている。
■ 夕張と秋風、2つの喪失 ■
4/27-28
「夕張」被雷。「夕月」はブルーギル撃退、生存者収容
11/3
「隼鷹」狙いの魚雷が「秋風」に命中、轟沈。生存者見つからず
■ 誰かの身代わりという運命
「秋風」を沈めた魚雷は、本来「隼鷹」に向けられたものだった。戦場では、狙われた本命ではなく、たまたまそこにいた艦が犠牲になることも珍しくない。「夕月」はこの理不尽な巡り合わせを、繰り返し目撃してきた。
エピソード②——清霜の指揮下で、そして皐月と共に
1944年7月4日、「夕月」は「皐月」とともに、伊号輸送作戦に従事していた夕雲型駆逐艦「清霜」(艦長・宮崎勇少佐)の指揮下に入り、輸送船を護衛して東京湾へ戻ることになった。この日、米軍機動部隊艦上機の空襲を受け、「皐月」が若干の被害を受けている。「夕月」と「皐月」は睦月型の同期のような間柄であり、この時の指揮官だった宮崎勇少佐は、後に「清霜」艦長として夕雲型駆逐艦の最終艦を率い、1944年12月の礼号作戦で僚艦「霞」「朝霜」に救助されることになる人物だった。
7月17日には、睦月型3隻(夕月・卯月・皐月)が海防艦「満珠」らとともに機動部隊燃料補給部隊を護衛してマニラ経由でシンガポールへ向かい、リンガ泊地で3隻そろって訓練を行った。この訓練では夕雲型駆逐艦「秋霜」も参加し、睦月型3隻から見学者が派遣されている。竣工から17年を経てなお、「夕月」は新しい艦型との交流を保ちながら、任務を続けていた。
■ 古い艦型と新しい艦型の交差点
夕雲型の艦長の指揮下に入り、夕雲型の乗員が見学に訪れる——竣工から17年を経た睦月型は、それでも最新鋭の艦型と肩を並べて戦い続けていた。世代を超えた駆逐艦同士の交流が、この記録には静かに刻まれている。
エピソード③——オルモック湾、そして睦月型最後の夜
1944年12月、「夕月」と「卯月」は、レイテ島オルモックへの増援輸送「第九次多号作戦」に投入された。12月9日午後、兵員4,400名を運ぶ輸送部隊がマニラを出港する。12月11日、部隊はレイテ島北で空襲を受け、輸送船2隻が沈没した。「卯月」が救助と護衛にあたる中、「夕月」は「桐」や輸送艦とともにオルモック湾へ向かう。
同日午後9時30分、揚陸を開始した「夕月」らは、米軍の補給船団と護衛の大型駆逐艦5隻に遭遇した。日付が変わった12日午前0時過ぎ、駆逐艦「コールドウェル」「コグラン」と交戦するが、双方に被害はなかった。午前2時、「夕月」と「桐」は湾外に脱出したが、「夕月」は揚陸作業中の輸送艦を援護するため、単艦でオルモック湾に引き返している。
同日夕刻、マニラへ帰投中の3隻は米軍機P-38・F4Uの襲撃を受けた。「夕月」は機関部に爆弾2発を受け、火災が発生し航行不能となる。乗員は「桐」と輸送艦へ移った。第30駆逐隊司令も「桐」に移動する。「桐」は「夕月」を砲撃で処分しようとしたが、艦はすぐには沈まなかった。午後8時27分、パナイ島東方のシブヤン海で、「夕月」はようやく沈没した。実はこの日未明、僚艦「卯月」もすでに魚雷艇の攻撃で沈没しており、「夕月」の戦没をもって、睦月型駆逐艦12隻は太平洋戦争で全て失われることになった。
「夕月」の乗組員181名は海軍陸戦隊に編入され、その後のマニラ市街戦、フィリピン地上戦で多数が戦死した。1945年1月10日、「夕月」は「卯月」とともに帝国駆逐艦籍から除籍され、第30駆逐隊も解隊された。
■ 睦月型最後の3日間 ■
12/11
レイテ島北で空襲、輸送船2隻沈没。「夕月」はオルモック湾へ
12/12未明
米駆逐艦5隻と交戦も無事。「卯月」は魚雷艇攻撃で沈没
12/12夕刻
マニラ帰投中に空襲。機関部被弾、航行不能
20:27
シブヤン海で沈没。睦月型12隻、全艦戦没が完結
猫工艦の考察
「夕月」の本質は、睦月型19隻——いや12隻の物語全体を締めくくる艦として、繰り返し「喪失」の現場に立ち会い続けた、という一点にある。自らの艦長を失い、菊月の生存者を受け入れ、夕張を救い、秋風を見送れず、そして最後には自らも僚艦「桐」に見送られる番になった。竣工から最後の除籍まで、睦月型で最も長く生きた艦の1隻でありながら、その艦歴は喪失と隣り合わせだった。
しかし「夕月」の物語は単なる悲劇の連続ではない。1隻の艦を失った艦長が、艦長を失った別の艦を率いるという巡り合わせ、そして竣工から17年を経てなお最新鋭の夕雲型と肩を並べて戦い続けたという事実は、駆逐艦という艦種が持つ、しなやかな継続性を物語っている。乗組員も艦も入れ替わりながら、「戦い続ける」という営みそのものは途切れなかった。
そして「夕月」の戦没をもって、日本駆逐艦として初めて61cm魚雷を搭載し「並型駆逐艦の完成形」と呼ばれた睦月型12隻は、生存者ゼロという記録を完結させた。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに1つの艦型が辿った長い戦争の全体像——竣工から最後の1隻まで——を、静かに語り継いでくれる。猫工艦は、睦月型を締めくくった「夕月」と、その乗組員181名、そして睦月型12隻すべてに、深い敬意を捧げたい。
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睦月型12隻の物語を締めくくった最終竣工艦——「夕月」の記録を、その身に纏え
「喪失と継承の連鎖——睦月型、最後の1隻の物語」
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MOCHIZUKI 望月
弥生の83名を救い、1012名を救助した「救う艦」
浦賀船渠が建造した睦月型駆逐艦11番艦。ウェーク島攻略戦を生き延び、「弥生」乗組員83名の救出、第三次ソロモン海戦での1,012名救助を成し遂げた。1943年10月24日、ジャキノット湾での揚陸中に空襲を受け戦没した艦の諸元と全戦歴。艦名は海上自衛隊護衛艦「もちづき」に継承されている。
SPECIFICATIONS
SPEC
基本諸元サマリー
FATE
1943.10.24 ジャキノット湾で戦没
| 艦名 | 望月(もちづき) |
| 艦型・番艦 | 睦月型駆逐艦 11番艦 |
| 計画名称 | 第33号駆逐艦 |
| 建造所 | 浦賀船渠 |
| 命名 | 1925年(大正14年)6月25日 |
| 竣工日 | 1927年(昭和2年)10月31日 |
| 改名 | 1928年(昭和3年)8月1日、「第33号駆逐艦」より「望月」に改称 |
| 除籍日 | 1944年(昭和19年)1月5日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 籍 | 佐世保鎮守府籍 |
| 全長 | 102.72m |
| 基準排水量 | 1,315t(竣工時)/改修後1,445t |
| 出力 | 38,500馬力 |
| 速力 | 公試37.25ノット(竣工時) |
| 主砲 | 45口径三年式12cm単装砲 4門 |
| 魚雷発射管 | 一二年式61cm3連装発射管 2基(6射線)——日本駆逐艦初の61cm雷装 |
| 爆雷兵装 | 八年式爆雷投射機 |
| 初代艦長 | 岩原盛恵中佐(1927.7.25〜) |
| 最終艦長 | 岩渕悟郎大尉(1943.10.15〜戦没時) |
| 所属部隊 | 第30駆逐隊(睦月・如月・弥生→卯月)/第六水雷戦隊→第八艦隊・第三水雷戦隊他 |
| 特記事項 | 1942年9月、「磯風」とともにノーマンビー島の「弥生」乗組員83名を救出。同年11月の第三次ソロモン海戦では沈没した輸送船から1,012名を救助した |
| 最期 | 1943年10月24日午前0時20分、ニューブリテン島ジャキノット湾で陸戦隊揚陸中に空襲を受け被弾、沈没。戦死10名。僚艦「卯月」が生存者を収容 |
| 戦後 | 艦名は海上自衛隊の護衛艦「もちづき」に継承された |
TIMELINE
HISTORY
望月 全戦歴タイムライン
1925年6月25日 — 命名
浦賀船渠で建造予定の一等駆逐艦に命名(第33号駆逐艦)
- 1927年10月31日に竣工、佐世保鎮守府に所属。1928年8月1日、「望月」と正式に改称された。
1937年 — 支那事変
中支・南支方面に進出
- 太平洋戦争開戦時には「睦月」「如月」「弥生」とともに第30駆逐隊を編成、南洋部隊第六水雷戦隊に所属。
1941年12月11日 — ウェーク島攻略戦
「疾風」「如月」喪失も被害なし
- 陸上からの砲撃と空襲で「疾風」「如月」を喪失、作戦は一時失敗するも「望月」に被害はなかった。
- 12月21日以降の第二次攻略作戦にも参加、ウェーク島を占領。
1942年前半 — 南太平洋各作戦
ラバウル・ラエ・サラモア・珊瑚海海戦
- 第六水雷戦隊とラバウル・ラエ・サラモア・ブーゲンビル島の各攻略作戦に参加。5月上旬の珊瑚海海戦にはポートモレスビー攻略部隊として参加。
- 5月25日、「卯月」が第30駆逐隊に編入。6月以降はガダルカナル島設営作戦・船団護衛に従事。7月13日、修理のため「弥生」とともに佐世保帰港。
1942年8月24-25日 — 第二次ソロモン海戦
沈没空母「龍驤」の搭乗員救助
- 沈没した空母「龍驤」艦載機で不時着した搭乗員の救助を行う。
1942年9月21-26日
弥生乗組員83名の救出
- 9月11日、僚艦「弥生」がミルン湾で空襲を受け沈没。「磯風」とともに乗員救助活動に従事。
- 9月21-22日、ラバウル出撃、カッターボート10名を収容するも本格捜索は天候不良で延期。
- 9月25-26日、再出撃し梶本顗艦長以下83名の救出に成功。帰途、気象観測船「恭洋丸」乗員も捜索するも消息得られず。
1942年10月 — 輸送・支援作戦
ヘンダーソン基地艦砲射撃支援、ガ島輸送
- 10月14日、重巡「鳥海」「衣笠」のヘンダーソン基地艦砲射撃を「天霧」とともに護衛。
- 10月16-17日のガダルカナル島輸送作戦にも参加、「天霧」とともに飛行場への艦砲射撃を実施。
1942年11月14-15日
第三次ソロモン海戦、1,012名を救助
- 輸送船団11隻を護衛してガダルカナル島へ向かう途中、空母「エンタープライズ」艦載機・ヘンダーソン基地航空隊・B-17重爆の反復攻撃を受ける。
- 「望月」は沈没船から1,012名の将兵を救助。被弾した「佐渡丸」を「天霧」とともに護衛しショートランド泊地へ帰投。
- 海戦後、損傷した軽巡「五十鈴」を護衛しトラック泊地へ、11月20日到着。12月1日、「睦月」「弥生」を喪失した第30駆逐隊は解隊。
1942年12月18-19日 — フィンシュハーフェン輸送
陸戦隊揚陸、帰途に至近弾
- 「朝潮」とともにフィンシュハーフェンへ陸戦隊揚陸。帰途、至近弾により水線付近に破孔を生じ、戦死者40名以上を出す。
1943年1月9-13日 — ムンダ・レカタ輸送
座礁も翌日離礁
- 1月9日、水雷艇「鴻」と輸送船「西阿丸」を護衛しムンダ輸送。13日、敷設艦「津軽」とレカタ輸送実施中、湾外の暗礁で座礁するも翌14日離礁。
- 2月、佐世保に帰港し修理。
1943年3-6月 — ラバウル方面輸送再開
レカタ・ツルブ・コロンバンガラ輸送
- 3月30日、「三日月」「卯月」と第30駆逐隊が再編成、第三水雷戦隊所属に。4月〜5月、「天霧」とレカタ輸送を複数回実施。
- 5月28日・31日、ブイン〜レカタ輸送。6月4-7日、ツルブ輸送。6月27-28日、コロンバンガラ島輸送(陸兵900名・物資100トン)。
1943年7月5-6日 — クラ湾夜戦
大発曳索の事故、単艦帰投で被弾
- 第一次輸送隊(望月・三日月・浜風)として参加。大発動艇の曳索をスクリューに巻き込む事故で「浜風」「三日月」から遅れる。
- 7月6日午前3時、揚陸を終え単艦で帰途につくも、4時10分に米艦隊から砲撃を受け小破。魚雷1本を発射し離脱。
- 「新月」沈没、「長月」座礁放棄。ラバウルで応急修理、7月15日完成。
1943年7月17-20日 — ブイン空襲
「皐月」に横付け中、大空襲
- 「望月」は「皐月」に横付けし重油補給中、大型爆撃機19機・戦爆連合約150機の大空襲を受ける。「初雪」沈没、「皐月」「水無月」小破。翌日にも空襲を受け「望月」小破。
- 18日再出撃、19-20日の輸送作戦は成功も「清波」「夕暮」沈没。
1943年7月29日〜9月 — 修理・護衛
熊野護衛でトラックへ、佐世保で本格修理
- 損傷した重巡「熊野」を「皐月」とともに護衛しトラックへ。8月15日、佐世保到着し本格修理。9月21日出撃、29日ラバウル帰着。
- 10月7-8日スルミ輸送、21-22日ブカ島輸送を実施。
1943年10月23-24日
ジャキノット湾、揚陸中に戦没
- ニューブリテン島ジャキノットへの米軍上陸情報を受け、「望月」「卯月」に陸戦隊約100名の輸送が下令される。
- 10月23日16時15分、両艦ラバウル出撃。24日午前0時20分、揚陸中に空襲を受け「望月」被弾、沈没。戦死10名。
- 「卯月」は揚陸を断念し「望月」生存者を収容、ラバウルへ帰投。
1944年1月5日 — 除籍
帝国駆逐艦籍より除籍
- 艦名は後年、海上自衛隊の護衛艦「もちづき」に継承された。
SUMMARY
RECORD
望月 全艦歴まとめ
望月は1927年に浦賀船渠で竣工した睦月型駆逐艦11番艦。ウェーク島攻略戦を無傷で乗り切り、1942年9月には僚艦「磯風」とともにノーマンビー島の「弥生」乗組員83名を救出、同年11月の第三次ソロモン海戦では沈没した輸送船から1,012名もの将兵を救助した。その後もソロモン諸島各地への輸送任務を重ね、クラ湾夜戦での被弾やブイン空襲を乗り越えたが、1943年10月24日、ニューブリテン島ジャキノット湾での陸戦隊揚陸中に空襲を受け被弾、沈没した。戦死10名。僚艦「卯月」が生存者を収容してラバウルへ帰投した。1944年1月5日に除籍。艦名は後年、海上自衛隊の護衛艦「もちづき」に継承されている。
1,012名を救った一夜——第三次ソロモン海戦で望月が救助した将兵の数は、睦月型19隻の中でも際立っている。「救う艦」としての望月の本領が最も発揮された瞬間だった。
救う側から救われる側へ——弥生の83名を救った望月自身も、最期は僚艦「卯月」に生存者を託すことになった。駆逐艦にとって「救う」と「救われる」は常に隣り合わせだった。
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弥生の83名を救い、1012名を救助した「救う艦」——「望月」の記録を、その身に纏え
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第六水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報・第四水雷戦隊戦時日誌・第八艦隊戦時日誌・第三水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書49『南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』、戦史叢書83『南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』、戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』関連巻
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編』光人社NF文庫、1995年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・Wikipedia「望月 (駆逐艦)」「睦月型駆逐艦」「第三次ソロモン海戦」「クラ湾夜戦」
- → 【諸元と全戦歴】卯月——加古救助からオルモック湾での最期まで
1943年10月24日午前0時20分、ニューブリテン島ジャキノット湾。陸戦隊約100名を揚陸中だった駆逐艦「望月」に、米軍機が襲いかかった。被弾した「望月」は、そのまま沈没した。戦死者10名。ともに揚陸作業にあたっていた僚艦「卯月」は、揚陸そのものを断念し、「望月」の生存者を収容してラバウルへ引き返した。
「望月」は睦月型駆逐艦の11番艦として、浦賀船渠で建造され、1927年10月31日に竣工した。「睦月」「如月」「弥生」とともに第30駆逐隊を編成し、ウェーク島攻略戦、ガダルカナル島攻防戦、そして幾多のソロモン諸島輸送作戦——16年に満たない艦歴の中で、「望月」は太平洋戦争のほぼ全期間にわたって最前線に立ち続けた。
そして「望月」の艦歴で最も語り継がれるべき出来事は、戦闘そのものではなく、仲間を救うために2度も出撃した、その献身にある。第三次ソロモン海戦では沈没した輸送船から1,012名を救助し、9月には駆逐艦「磯風」とともに、ノーマンビー島に取り残された「弥生」の乗組員83名を救出した。「望月」の物語は、戦うことと同じくらい、救うことに費やされた艦歴だった。
■ 睦月型11番艦「望月」基本諸元 ■
竣工
1927年10月31日
初代艦長 岩原盛恵中佐
基準排水量
1,315t(竣工時)
→改修後1,445t
全長 102.72m
最大速力
37.25ノット(竣工時)
出力 38,500馬力
主砲
45口径三年式12cm単装砲 4門
戦争後半に機銃大幅増備
魚雷兵装
61cm3連装発射管2基(6射線)
日本駆逐艦初の61cm雷装
所属部隊
第30駆逐隊(睦月・如月・弥生)
第六水雷戦隊→第三水雷戦隊他
特筆データ
第三次ソロモン海戦で1,012名を救助
「弥生」乗組員83名の救出にも参加
最終艦名・結末
1943.10.24 ジャキノット湾で戦没
卯月が生存者を収容
前史——ウェーク島を生き延び、ガダルカナルへ
竣工した「望月」は佐世保鎮守府に所属し、1937年からの支那事変では中支・南支方面に進出した。太平洋戦争開戦時には「睦月」「如月」「弥生」とともに第30駆逐隊を編成し、南洋部隊第六水雷戦隊に所属。開戦直後のウェーク島攻略戦では、僚艦「疾風」「如月」が失われる中、「望月」自身に被害はなかった。第二次攻略作戦にも参加し、ウェーク島は12月下旬に占領される。その後は第六水雷戦隊とともにラバウル・ラエ・サラモア・ブーゲンビル島の各攻略作戦、珊瑚海海戦ではポートモレスビー攻略部隊として参加した。
1942年5月25日、「卯月」が第30駆逐隊に編入される。8月24-25日の第二次ソロモン海戦では、沈没した空母「龍驤」の艦載機で不時着した搭乗員の救助を行った。この頃の「望月」は、まだ戦闘の主役というより、傷ついた仲間を支える役回りに近かった。だがこの経験は、後の艦歴を貫く重要なテーマの始まりでもあった。
■ 「望月」の全戦歴ハイライト ■
【1927.10.31】:浦賀船渠で竣工。第30駆逐隊を編成
【1941.12.11】:ウェーク島攻略戦、僚艦「疾風」「如月」喪失も被害なし
【1942.9.21-26】:「磯風」とともに「弥生」乗組員83名を救出
【1942.11.14-15】:第三次ソロモン海戦、沈没船から1,012名を救助
【1943.1.13】:レカタ湾外の暗礁で座礁も翌日離礁
【1943.7.5-6】:クラ湾夜戦、大発曳索がスクリューに絡み遅延・被弾
【1943.12.19】:フィンシュハーフェン輸送、至近弾で戦死者40数名
【1943.10.24】:ジャキノット湾で揚陸中に空襲を受け戦没
【1944.1.5】:帝国駆逐艦籍より除籍
エピソード①——ノーマンビー島、弥生の生存者を求めて
1942年9月11日、ニューギニア島ミルン湾で僚艦「弥生」が空襲を受け沈没した。「望月」は駆逐艦「磯風」とともに、この乗員救助活動に従事することになる。9月21日夜、「磯風」「望月」はラバウルを出撃し、22日、「弥生」の連絡員とみられるカッターボート10名を収容した。だがこの日の本格的な捜索は天候不良のため延期され、生存者との接触は果たせなかった。
そして9月25日午後9時、「磯風」「望月」は再びラバウルを出撃する。この作戦でついに、艦長・梶本顗少佐以下83名の救出を成し遂げた。帰途、同じ海域で気象観測船「恭洋丸」の乗員捜索も行ったが、こちらは手がかりを得られなかった。27日午後5時、「磯風」「望月」はラバウルへ帰着する。仲間を探し、見つけ、そして見つけられない相手もいる——この一連の作戦は、駆逐艦にとっての「救助」という任務の、光と影の両方を映し出していた。
■ 弥生生存者、救出までの日々 ■
9/21-22
「磯風」「望月」出撃。カッター10名を収容も本格捜索は延期
9/25-26
再出撃。梶本艦長以下83名の救出に成功
■ 見つかる命と、見つからない命
「望月」はこの作戦で「弥生」の83名を救い出す一方、同じ海域で気象観測船の乗員を見つけることはできなかった。同じ艦の、同じ数日の航海の中に、救助の成功と失敗が同居していた。これは駆逐艦の任務が抱える、避けがたい現実だった。
エピソード②——第三次ソロモン海戦、1012名を救う
1942年11月中旬、「望月」は第三次ソロモン海戦において輸送船団護衛艦として参加した。増援部隊駆逐艦とともに輸送船団11隻を護衛してガダルカナル島へ向かっていたところ、空母「エンタープライズ」艦載機、ヘンダーソン基地航空隊、そしてB-17重爆撃機の反復攻撃を受ける。輸送船の多くが被弾・炎上する中、「望月」は沈没船から実に1,012名もの将兵を救助した。
救助を終えた「望月」は、被弾した輸送船「佐渡丸」を僚艦「天霧」とともに護衛し、ショートランド泊地へと戻った。第三次ソロモン海戦は日本軍の敗北に終わり、ガダルカナル島の戦局は一挙に悪化することになる。それでも「望月」がこの一夜で救った1,012名という数字は、この艦がどれほど多くの命をつなぎとめたかを、何よりも雄弁に物語っている。海戦後、「望月」は損傷した軽巡「五十鈴」を護衛してトラック泊地へ向かった。
■ 第三次ソロモン海戦、輸送船団の悲劇 ■
その後
「天霧」と「佐渡丸」を護衛しショートランドへ帰投
■ 1隻の駆逐艦が背負った1012の命
睦月型の定員はおよそ150名前後。その艦が1,012名を救助したという事実は、艦内がどれほど過酷な状態になったかを想像させる。それでも「望月」はこの重責を全うし、僚艦とともに傷ついた輸送船を守り抜いた。
エピソード③——ジャキノット湾、最後の揚陸
第三次ソロモン海戦後も「望月」の任務は途切れなかった。1943年1月、ムンダ・レカタへの輸送、13日にはレカタ湾外の暗礁で座礁するも翌日離礁。3月からはラバウル方面で再び輸送任務に従事し、7月5-6日のクラ湾夜戦では大発動艇の曳索をスクリューに巻き込む事故で僚艦から遅れ、単艦で帰投する途中、米艦隊から砲撃を受け小破した。それでも魚雷1本を発射して戦場を離脱している。
1943年10月23日、ニューブリテン島ジャキノットへの米軍上陸情報を受け、南東方面艦隊は「望月」と「卯月」に陸戦隊約100名の輸送を命じた。2隻は午後4時15分にラバウルを出撃する。翌24日午前0時20分、ジャキノットで揚陸作業中の「望月」は空襲を受け、被弾して沈没した。戦死者10名。「卯月」は揚陸を断念し、「望月」の乗員を収容してラバウルへ戻った。かつて「弥生」の生存者を救った「望月」自身が、今度は僚艦「卯月」に救われる番だった。1944年1月5日、「望月」は帝国駆逐艦籍から除籍された。艦名は、後年、海上自衛隊の護衛艦「もちづき」に継承されている。
■ ジャキノット湾、最期の夜 ■
10/23 16:15
「望月」「卯月」がラバウル出撃、ジャキノットへ
10/24 0:20
揚陸中に空襲。「望月」被弾・沈没。戦死10名
直後
「卯月」が揚陸断念、「望月」生存者を収容しラバウルへ
猫工艦の考察
「望月」の本質は、戦闘艦である以前に「救う艦」であり続けたという一点にある。「弥生」の83名、そして第三次ソロモン海戦での1,012名——「望月」がその艦歴を通じて救い出した命の数は、睦月型19隻の中でも際立っている。仲間を見捨てないという駆逐艦の精神を、これほど繰り返し体現した艦は他に少ない。
しかし「望月」の物語は美談だけでは終わらない。気象観測船の乗員を発見できなかったという事実、そして最後は自らが揚陸中に沈められ、僚艦「卯月」に救われる側になったという事実は、駆逐艦にとって「救う」と「救われる」が常に隣り合わせだったことを物語っている。1,012名を救った艦もまた、最後には10名の戦死者を出して海に消えていった。
それでも「望月」が残したものは確かにある。数えきれない命をつないだという記録と、その名を継いだ海上自衛隊の護衛艦「もちづき」という存在だ。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに「救うこと」の重みと尊さを、静かに教えてくれる。猫工艦は、「望月」と、その手で救われたすべての人々に、深い敬意を捧げたい。
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弥生の83名を救い、1012名を救助した「救う艦」——「望月」の記録を、その身に纏え
「戦うことと同じくらい、救うことに費やされた艦歴」
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第六水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報・第四水雷戦隊戦時日誌・第八艦隊戦時日誌・第三水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書49『南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』、戦史叢書83『南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』、戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』関連巻
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編』光人社NF文庫、1995年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・Wikipedia「望月 (駆逐艦)」「睦月型駆逐艦」「第三次ソロモン海戦」「クラ湾夜戦」
- → 卯月——望月の生存者を収容し、睦月型を最後まで見届けた同型艦
MIKAZUKI 三日月
コロンバンガラ島沖を生き延び、グロスター岬に散った駆逐艦
佐世保海軍工廠が建造した睦月型駆逐艦10番艦。ミッドウェー海戦、コロンバンガラ島沖海戦を経て、1943年7月27日、僚艦「有明」とともにグロスター岬沖のリーフに座礁。翌日の空襲で放棄された艦の諸元と全戦歴。記録には「未収容者85名」という重い数字が刻まれている。
SPECIFICATIONS
SPEC
基本諸元サマリー
| 艦名 | 三日月(みかづき) |
| 艦型・番艦 | 睦月型駆逐艦 10番艦 |
| 計画名称 | 第32号駆逐艦 |
| 建造所 | 佐世保海軍工廠 |
| 起工日 | 1925年(大正14年)8月21日 |
| 進水日 | 1926年(大正15年)7月12日 |
| 竣工日 | 1927年(昭和2年)5月5日 |
| 改名 | 1928年(昭和3年)8月1日、「第32号駆逐艦」より「三日月」に改称 |
| 除籍日 | 1943年(昭和18年)10月15日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 籍 | 佐世保鎮守府籍 |
| 全長 | 102.72m |
| 基準排水量 | 1,315t(竣工時)/改修後1,445t |
| 出力 | 38,500馬力 |
| 速力 | 公試37.25ノット(竣工時) |
| 主砲 | 45口径三年式12cm単装砲 4門 |
| 魚雷発射管 | 一二年式61cm3連装発射管 2基(6射線)——次発装填装置なし |
| 爆雷兵装 | 八年式爆雷投射機、八一式爆雷12個 |
| 初代艦長 | 一ノ瀬英太中佐(1927.3.1〜) |
| 最終艦長 | 山崎仁太郎少佐(1942.8.5〜座礁・放棄時) |
| 所属部隊 | 第23駆逐隊(菊月・望月・夕月)→第30駆逐隊(三日月・望月・卯月) |
| 特記事項 | 1943年7月12日、コロンバンガラ島沖海戦で警戒隊として参加。次発装填装置を持たないため最初の魚雷発射後に単艦で離脱、軽巡「神通」の沈没を目撃した |
| 最期 | 1943年7月27日23時、僚艦「有明」とともにグロスター岬49度5浬のリーフに座礁。翌28日、離礁失敗を重ねる中、米陸軍B-25爆撃機約20機の空襲を受け被弾、放棄 |
| 被害 | 戦死7名(准士官以上2)、重傷12名、軽傷25名、未収容者85名。「秋風」に170名(有明分含む)が移乗 |
TIMELINE
HISTORY
三日月 全戦歴タイムライン
1925年8月21日 — 起工
佐世保海軍工廠にて起工(第32号駆逐艦)
- 1923年度計画艦。1928年8月1日、「三日月」と正式に改称され睦月型駆逐艦に登録された。
1927年5月5日 — 竣工
竣工。第23駆逐隊を編成
- 初代艦長・一ノ瀬英太中佐が着任。「菊月」「望月」「夕月」とともに第23駆逐隊を編成。
- 1937年からの支那事変で中支・南支方面に進出。1941年4月、第三航空戦隊付に転出。
1941年12月〜1942年6月 — 内海待機からミッドウェーへ
空母護衛任務、ミッドウェー海戦参加
- 第1艦隊・第三航空戦隊所属として空母「鳳翔」「瑞鳳」の護衛任務。緒戦は内海で待機。
- 6月、ミッドウェー海戦に近藤信竹中将(重巡「愛宕」)指揮下の攻略部隊本隊として参加するも、実戦は経験せず。
- 7月以降、内地・台湾間の船団護衛に従事。
1943年3月31日 — 第30駆逐隊再編成
睦月・弥生喪失後の駆逐隊を再興
- 「三日月」「望月」「卯月」の睦月型3隻で第30駆逐隊が再編成される。3月から6月、佐世保海軍工廠で修理。
- その後ラバウル方面に進出、ソロモン諸島の強行輸送任務に従事。第三水雷戦隊(旗艦「川内」)指揮下に入る。
1943年7月2-6日 — クラ湾夜戦
陽動隊として参加
- 7月2-3日、陽動隊(軽巡「夕張」、駆逐艦「夕凪」「三日月」)としてレンドバ島沖合に進出、米軍魚雷艇2隻を撃沈。
- 7月5-6日、コロンバンガラ島輸送作戦中に米艦隊と交戦、クラ湾夜戦勃発。「新月」「長月」沈没、秋山司令官以下三水戦司令部全滅。
1943年7月12日
コロンバンガラ島沖海戦、単艦離脱
- 第二水雷戦隊司令官・伊崎俊二少将(旗艦「神通」)率いる増援部隊のコロンバンガラ島輸送作戦に警戒隊として参加。
- 単縦陣「三日月、神通、雪風、浜風、清波、夕暮」で航行中、午後11時に米艦隊(巡洋艦3・駆逐艦10)と遭遇。
- 次発装填装置を持たない「三日月」は最初の魚雷発射後、警戒隊から分離し単艦で北上・離脱。
- 「神通」沈没、伊崎司令官以下第二水雷戦隊司令部全滅。米側も巡洋艦3隻大破・駆逐艦1隻沈没の損害。
1943年7月9-25日 — 輸送任務の継続
コロンバンガラ島輸送、次期作戦準備
- 7月9日、輸送隊(皐月・三日月・松風・夕凪)でコロンバンガラ島へ陸兵1200名の輸送に成功。
- 7月10日、戦死した秋山少将の後任として伊集院松治大佐着任。7月25日、東部ニューギニア方面作戦輸送のためラバウルで待機。
1943年7月27日 23:00
グロスター岬沖、「有明」とともに座礁
- 第30駆逐隊司令・折田常雄中佐座乗の「三日月」は「有明」とともにラバウル出撃、ツルブへの輸送任務へ。
- ココボで陸軍兵・軍需物資を移載、速力26ノットで航行中、グロスター岬49度5浬のリーフに両艦とも座礁。
- 「三日月」は兵員室下部倉庫に浸水、左舷推進軸屈曲で使用不能。「有明」は最大速力6ノットに低下。
1943年7月28日 未明-午前
離礁の試みと救援の失敗
- 0時43分、「有明」離礁成功。「三日月」搭載の陸戦隊生存者・物資を移し替え、0時45分から「有明」はツルブへ向かい揚陸実施。
- 「三日月」右舷推進器も脱落し完全に行動不能に。燃料・糧食を投棄し軽量化を試みるも成功せず。
- 午前2時頃、救援に向かった「川内」「皐月」「望月」は途中で反転帰投。代わりに「秋風」が現場へ向かう。
1943年7月28日 午後
空襲、「有明」沈没・「三日月」放棄
- 10時30分頃、「有明」が救援に戻り曳航を試みるも、速力6ノットでは成功せず。13時30分、折田司令は作業打ち切りを命令。
- 直後、米陸軍B-25爆撃機約20機の空襲。「有明」は爆弾3発命中、14時40分沈没。
- 「三日月」も右舷機械室水線近くに命中弾1発(破孔横4.5m・縦1.5m)、船体各部に被害。
- 「秋風」到着をもって折田司令が艦の放棄を決定。「三日月」「有明」生存者は「秋風」に移乗。
- 「三日月」被害:戦死7名、重傷12名、軽傷25名、未収容者85名。
1943年8月2-3日 — 現地調査
駆逐艦2隻がツルブへ、座礁艦を調査
- 「江風」「松風」がツルブに到着。三日月駆逐艦長を含む調査員4名が便乗し、座礁沈没した「三日月」を調査。
- 「有明」生存者のうち56名が「江風」「松風」でラバウルへ帰投。
1943年10月15日 — 除籍
帝国駆逐艦籍より除籍
- 睦月型駆逐艦・第30駆逐隊からも除かれる。10月24日、姉妹艦「望月」も撃沈された。
SUMMARY
RECORD
三日月 全艦歴まとめ
三日月は1927年に佐世保海軍工廠で竣工した睦月型駆逐艦10番艦。ミッドウェー海戦では実戦を経験せず内海で待機したが、1943年のソロモン諸島戦線では次発装填装置を持たないという制約の中、コロンバンガラ島沖海戦で最初の魚雷発射後に単艦で離脱、軽巡「神通」の沈没を目撃した。同年7月27日、僚艦「有明」とともにニューブリテン島グロスター岬沖のリーフに座礁。離礁の試みが重ねられる中、翌28日、米陸軍B-25爆撃機の空襲を受け、「有明」は沈没、「三日月」も被弾して航行不能となり、駆逐艦「秋風」の到着をもって放棄が決定された。被害は戦死7名、重傷12名、軽傷25名、そして未収容者85名。10月15日に除籍された。
装備の制約が生んだ生還——次発装填装置を持たないという設計上の制約が、コロンバンガラ島沖海戦での早期離脱、そして生還につながった。艦の運命は、時に乗組員の意志を超えた要因で決まる。
未収容者85名という記録——戦死・重傷・軽傷の数字に続けて記された「未収容者85名」は、あの日グロスター岬沖で起きた混乱と喪失の大きさを、何よりも雄弁に物語っている。
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コロンバンガラ島沖を生き延び、グロスター岬に散った駆逐艦——「三日月」の記録を、その身に纏え
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第三水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報・第二水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報・ミッドウエー海戦戦時日誌戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』関連巻
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・Wikipedia「三日月 (睦月型駆逐艦)」「睦月型駆逐艦」「コロンバンガラ島沖海戦」「クラ湾夜戦」
1943年7月27日午後11時、ニューブリテン島グロスター岬沖。輸送任務中の駆逐艦「三日月」と「有明」は、速力26ノットで航行中、相次いでリーフに座礁した。「三日月」は兵員室下部倉庫に浸水、左舷推進軸が屈曲して使用不能となり、翌日未明には右舷推進器までもが脱落した。燃料や糧食を投棄して軽量化を図るも、離礁はかなわなかった。そこへ米陸軍B-25爆撃機約20機が襲いかかる。
「三日月」は睦月型駆逐艦の10番艦として、佐世保海軍工廠で1925年8月21日に起工、1926年7月12日に進水、1927年5月5日に竣工した。ミッドウェー海戦では攻略部隊本隊として出撃し、コロンバンガラ島沖海戦では次発装填装置を持たない艦として最初の魚雷発射後に単艦で戦場を離脱するという、独特の戦い方を強いられた艦でもあった。
そして「三日月」の最期には、駆逐艦にとって最も重い数字が刻まれている。座礁からの脱出を試みる中で空襲を受け、放棄を決断した時、艦には未収容者85名が残されたまま記録されている。戦死7名、重傷12名、軽傷25名という数字と並んで記された「未収容者85名」——この一語が、あの日グロスター岬沖で何が起きていたのかを、静かに物語っている。
■ 睦月型10番艦「三日月」基本諸元 ■
建造所
佐世保海軍工廠
起工 1925年8月21日
進水・竣工
1926.7.12 → 1927.5.5
初代艦長 一ノ瀬英太中佐
基準排水量
1,315t(竣工時)
→改修後1,445t
全長 102.72m
最大速力
37.25ノット(竣工時)
出力 38,500馬力
主砲
45口径三年式12cm単装砲 4門
戦争後半に機銃大幅増備
魚雷兵装
61cm3連装発射管2基(6射線)
次発装填装置なし
所属部隊
第23駆逐隊→第30駆逐隊
第一艦隊→第三水雷戦隊他
特筆データ
コロンバンガラ島沖海戦に参加
「神通」沈没を目撃
最終艦名・結末
1943.7.28 グロスター岬沖で戦没
座礁後の空襲で放棄
前史——内海待機からミッドウェーへ
竣工した「三日月」は佐世保鎮守府に所属し、「菊月」「望月」「夕月」とともに第23駆逐隊を編成した。1937年からの支那事変では中支・南支方面に進出。1941年4月、「三日月」は第三航空戦隊付に転出し、太平洋戦争開戦時には空母「鳳翔」「瑞鳳」の護衛任務につき、緒戦は内海で待機していた。1942年6月のミッドウェー海戦では、近藤信竹中将(重巡「愛宕」)指揮下の攻略部隊本隊として参加したが、この海戦で実戦を経験することはなかった。7月以降は内地・台湾間の船団護衛に従事する。
1943年3月31日、「三日月」「望月」「卯月」の睦月型3隻で第30駆逐隊が再編成された。前年8月から9月にかけて「睦月」「弥生」の2隻を喪失し、いったん解隊されていた駆逐隊の再興だった。この頃「三日月」は3月から6月まで佐世保海軍工廠で修理を受け、その後ラバウル方面に進出、ソロモン諸島における強行輸送任務に従事することになる。第三水雷戦隊(旗艦「川内」)の指揮下、雪風・浜風・谷風といった精鋭とともに、数々の海戦と輸送作戦に投入されていった。
■ 「三日月」の全戦歴ハイライト ■
【1927.5.5】:佐世保海軍工廠で竣工。第23駆逐隊を編成
【1942.6】:ミッドウェー海戦、攻略部隊本隊として参加(実戦なし)
【1943.3.31】:第30駆逐隊(三日月・望月・卯月)再編成
【1943.7.5-6】:クラ湾夜戦、陽動隊として参加
【1943.7.12】:コロンバンガラ島沖海戦、「神通」沈没・伊崎司令官戦死を目撃
【1943.7.27 23:00】:「有明」とともにグロスター岬沖のリーフで座礁
【1943.7.28】:離礁失敗を重ねる中、B-25爆撃機の空襲を受け被弾
【同日】:「秋風」到着、艦の放棄を決断。未収容者85名
【1943.10.15】:帝国駆逐艦籍より除籍
エピソード①——コロンバンガラ島沖、単艦での離脱
1943年7月12日、第二水雷戦隊司令官・伊崎俊二少将(旗艦「神通」)率いる増援部隊は、コロンバンガラ島への輸送任務に従事していた。警戒隊は「三日月、神通(旗艦)、雪風、浜風、清波、夕暮」という単縦陣を組んでいたが、午後11時、米軍巡洋艦3隻・駆逐艦10隻と遭遇、コロンバンガラ島沖海戦が勃発する。次発装填装置を持たない「三日月」は、最初の魚雷を発射した後、「雪風」以下の警戒隊から分離して単艦で北上した。
この海戦で米側は巡洋艦3隻が大破、駆逐艦1隻が沈没する損害を受けたが、日本側も軽巡「神通」が沈没し、伊崎司令官以下第二水雷戦隊司令部が全員戦死するという大きな痛手を負った。「三日月」は自らの装備の制約ゆえに戦場からいち早く離れることになったが、その目に映った光景は、決して安穏なものではなかっただろう。
■ コロンバンガラ島沖海戦の一夜 ■
23:00
米艦隊(巡洋艦3・駆逐艦10)と遭遇、海戦勃発
戦闘初期
「三日月」は最初の魚雷発射後、単艦で北上・離脱
■ 装備の制約が命運を分けた夜
次発装填装置を持たないという設計上の制約が、皮肉にも「三日月」を戦闘の渦中から早く引き離す結果になった。つまりこの夜、「三日月」の生還は、勇敢さや幸運によるものというより、艦の仕様そのものによって決まっていた側面がある。
エピソード②——グロスター岬、2隻同時の座礁
1943年7月27日午前10時、第30駆逐隊司令・折田常雄中佐が座乗する「三日月」は、臨時編入された「有明」とともにラバウルを出撃、ニューブリテン島ツルブへの輸送任務に向かった。ココボで陸軍兵と軍需物資を移載した後、目的地を目指して航行中——午後11時、速力26ノットで進んでいた両艦は、グロスター岬49度5浬の地点にあるリーフに、相次いで座礁してしまう。
両艦の損傷は重大だった。「三日月」は兵員室下部倉庫に浸水し、左舷推進軸が屈曲して使用不能となる。「有明」は左舷後部の損傷で最大速力6ノットにまで低下した。翌28日午前0時43分、「有明」が離礁に成功する。「三日月」に乗っていた陸戦隊生存者と物資を「有明」に移し替え、「有明」は現場を離れてツルブへ向かい、午前6時から7時40分にかけて揚陸作業を行った。ラバウルの第三水雷戦隊司令部も救援艦の派遣を検討し、いったん「川内」「皐月」「望月」が出撃したが、途中で反転帰投。代わりに駆逐艦「秋風」が現場へ向かうことになった。
■ 座礁から離礁失敗まで ■
7/27 23:00
「三日月」「有明」がリーフに相次いで座礁
7/28 0:43
「有明」離礁成功。「三日月」搭載人員を移載しツルブへ
午前3時頃
「三日月」右舷推進器も脱落、完全に行動不能に
午前2時
救援に向かった「川内」等、途中で反転帰投
■ 助け合おうとした2隻の限界
「有明」が離礁後すぐに現場を離れず、まず「三日月」の人員を移載してから任務に向かったという行動は、僚艦を見捨てない姿勢の表れだった。だが、その後の再度の救援も、燃料投棄による軽量化の試みも、結局は実らなかった。つまりこの座礁は、乗組員たちの努力だけでは覆せない、物理的な限界に阻まれていた。
エピソード③——空襲、そして未収容者85名という数字
座礁現場に残された「三日月」は、燃料や糧食といった対空戦闘に関係のない重量物を投棄し、なんとか離礁を試みていた。午前10時30分頃、「有明」が救援のため現場に戻り、曳航による離礁を試みる。だが座礁による損傷のため「有明」が出せる速力はわずか6ノットで、干潮時になっても、この試みは実を結ばなかった。午後1時30分、折田司令は作業を打ち切り、「有明」にラバウル帰投を命じる。
その直後、両艦は米陸軍B-25爆撃機約20機の空襲を受けた。「有明」は爆弾3発が命中し、午後2時40分に沈没。「三日月」も右舷機械室水線近くに命中弾1発を受け、横4.5m・縦1.5mの破孔が生じたほか、船体各部に被害が広がった。進退不能となった「三日月」に対し、折田司令は駆逐艦「秋風」の到着をもって、艦の放棄を決断する。
「三日月」「有明」の生存者は「秋風」に移乗した。記録に残る被害は、戦死7名、重傷者12名、軽傷者25名——そして未収容者85名。「秋風」には170名が移乗したと記されている。1943年10月15日、「三日月」は睦月型駆逐艦・第30駆逐隊・帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。同年10月24日には姉妹艦「望月」も撃沈され、第30駆逐隊所属の駆逐艦は次々と失われていくことになる。
■ 最期の空襲と放棄 ■
10:30
「有明」が曳航による離礁を試みるも失敗
直後
B-25約20機の空襲。「有明」沈没、「三日月」も被弾
「秋風」到着後
艦の放棄決定。戦死7名・重傷12名・軽傷25名・未収容者85名
猫工艦の考察
「三日月」の本質は、装備の制約と地形の偶然という、艦の力では覆せない2つの要因によって、運命を大きく左右された艦だった、という一点にある。次発装填装置を持たないという設計上の制約が、コロンバンガラ島沖海戦での早期離脱を生み、そしてリーフという海図に刻まれた地形の存在が、僚艦「有明」とともに座礁するという結末を招いた。乗組員の勇気や努力だけでは、どうにもならない現実がそこにあった。
しかし「三日月」の物語は、単なる不運の記録として片付けられるものでもない。「有明」が離礁後すぐに「三日月」の人員を移載してから任務に向かったという判断、そして燃料投棄までして離礁を試み続けた乗組員たちの努力は、最後まで諦めなかった姿勢を物語っている。それでも空襲という最悪のタイミングが重なり、「未収容者85名」という重い数字が記録に残ることになった。
それでも「三日月」が残したものは確かにある。戦死者・重傷者・軽傷者という数字の後に、あえて「未収容者」という項目を残した戦時日誌の記録は、この艦の最期がどれほど混乱と喪失に満ちていたかを、何よりも雄弁に物語っている。派手な戦果を持たない艦だからこそ、私たちに戦争の記録がいかに正直に、そして重く、事実を刻み続けているかを教えてくれる。猫工艦は、「三日月」と、その85名を含むすべての乗組員に、深い敬意を捧げたい。
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「戦死・重傷・軽傷、そして未収容者85名——記録が語る、あの日の重さ」
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■ 参考文献・資料
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第三水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報・第二水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報・ミッドウエー海戦戦時日誌戦闘詳報
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』関連巻
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・Wikipedia「三日月 (睦月型駆逐艦)」「睦月型駆逐艦」「コロンバンガラ島沖海戦」「クラ湾夜戦」