1942年12月4日、フィリピン・オルモック湾——多号作戦従事中の駆逐艦「卯月」が、米海軍の魚雷艇と交戦の末に沈没した。睦月型駆逐艦12隻のうち、最後まで生き残っていた1隻だった。「卯月」の戦没をもって、睦月型12隻は全艦が戦没した。日本駆逐艦として初めて61cm魚雷を搭載した「並型駆逐艦の完成形」は、こうして生存艦ゼロという結末を迎える。
睦月型駆逐艦——峯風型・神風型の系譜を引き継ぎ、魚雷を53cmから61cmへと大型化した「神風型の61cm化」というシンプルな設計思想のもとに生まれた。1925年から1927年にかけて12隻が竣工し、太平洋戦争開戦時には既に旧式艦だったが、雷装と航洋性能に優れていたことから、峯風型・神風型が日本近海の護衛任務に回されたのとは対照的に、中部太平洋から南太平洋の最前線へ次々と投入され続けた。
12隻のうち、半数の6隻がソロモン方面で戦没している。1番艦「睦月」は開戦から半年余りでガダルカナル島沖に散り、最終艦「夕月」は1944年11月、輸送作戦中に南シナ海で潜水艦の雷撃を受けた。だが本当の最後の1隻は「卯月」であり、レイテ島オルモック湾での魚雷艇との交戦の末、1944年12月に沈んだ——睦月型12隻、その全艦戦没という記録がここにある。
1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約締結により、日本海軍の艦艇建造計画は大きく整理された。この中で新たに策定された大正12年度艦艇建造新計画のもと、峯風型・神風型の系譜を引き継ぐ一等駆逐艦24隻の建造が計画される。軍令部はかねてより、将来の第一線駆逐艦には61cm魚雷の早急な装備を強く要求しており、この要求を反映して1,400トン型13隻・1,700トン型5隻に計画が改められた。結局1,400トン型は16隻が建造され、最初の4隻は神風型(後期艦)となり、残る12隻が新型の睦月型として建造されることになった。
睦月型最大の特徴は、日本駆逐艦として初めて61cm魚雷発射管を採用した点にある。三連装発射管2基・6射線という兵装は、それまでの53cm魚雷から一気に口径を引き上げ、後の陽炎型・夕雲型へと続く「大型酸素魚雷を主兵装とする艦隊型駆逐艦」の原型を確立した。船体規模や主砲(12cm単装砲4門)は神風型からほぼ据え置きとしつつ、魚雷兵装だけを大幅に強化するという、いわば「神風型の61cm化」という単純明快な設計思想のもとに生まれた艦型だった。
だが竣工後の艦歴は平坦ではなかった。1934年の友鶴事件、1935年の第四艦隊事件——相次ぐ設計上の欠陥露呈を受け、睦月型も艦橋構造の変更や復元性能の改修を余儀なくされる。太平洋戦争開戦時には既に竣工から15年前後を経た旧式艦だったが、峯風型・神風型が主に日本近海の船団護衛に留め置かれたのに対し、睦月型は航洋性能と雷装に優れていたことから、中部太平洋・南太平洋の最前線へ投入され続けた。戦争末期には主砲や魚雷発射管を撤去し輸送任務に特化した「輸送駆逐艦」への改造を受けた艦も現れたが、それでも旧式の艦体は消耗戦の重圧に耐えきれなかった。
峯風型・神風型よりも新しく、雷装に優れていたという理由で、睦月型はより過酷な戦場に投入され続けた。つまり「性能が高い」ことが、そのまま「生き残りやすさ」につながるわけではなかった——優れた艦ほど酷使され、消耗していくという構図が、睦月型12隻の運命を貫いている。
睦月型12隻は佐世保・舞鶴・浦賀・石川島・藤永田の5箇所の造船所で建造された。1番艦「睦月」は1942年8月にガダルカナル島沖で戦没、最後まで生き残った「卯月」も同年12月、オルモック湾で米魚雷艇との交戦の末に沈んだ。12隻中12隻——生存艦はゼロ。半数の6隻がソロモン方面で失われ、残る6隻もニューギニア・フィリピン方面の消耗戦で次々と海に消えていった。
| 艦名 | 建造所 | 竣工日 | 特記・最期 |
|---|---|---|---|
| 睦月(むつき)★型名艦 [諸元→] | 佐世保海軍工廠 | 1926.3.25 | 1935年、第四艦隊事件で艦橋破壊も一水兵の応急操舵で沈没を免れる。1942.8.25、ガダルカナル島沖で戦没。初代艦長・白石邦夫中佐。 |
| 如月(きさらぎ)★最初の戦没艦 [諸元→] | 舞鶴工作部 | 1925.12.21 | 睦月型最初の戦没艦。1941.12.11、ウェーク島攻略戦で海岸砲台が僚艦「疾風」を撃沈、如月自身はF4Fの爆撃で誘爆し戦没。世界で唯一、海岸砲台が上陸部隊を撃退した戦例。 |
| 弥生(やよい) [諸元→] | 浦賀造船所 | 1926.8.28 | 1942.8.25、沈没した「睦月」の生存者を救助し駆逐隊司令艦に。同年9.11、ノーマンビー島沖で戦没。艦長・梶本顗少佐は生存者と共にタロ芋で15日間生存し生還、後に清霜艦長として再び生還した。 |
| 卯月(うづき)★最後まで奮戦 | 石川島造船所 | 1926.9.14 | 睦月型12隻の中で最後まで生き残った艦。1944.12.12、多号作戦従事中にオルモック湾で米魚雷艇と交戦し戦没。この戦没をもって睦月型12隻は全艦戦没が完結した。 |
| 皐月(さつき) [諸元→] | 藤永田造船所 | 1925.11.15 | クラ湾夜戦・コロンバンガラ島沖海戦に参加。1944.1.4、艦長・飯野忠男少佐が片脚切断の重傷を負いながら指揮継続。同年9.21、マニラ湾で戦没。 |
| 水無月(みなづき) [諸元→] | 浦賀船渠 | 1927.3.22 | コロンバンガラ島沖海戦で輸送成功、メレヨン島へ3,200名超を輸送。1944.6.6、敵潜水艦攻撃に向かった末、ダバオ沖でハーダーの雷撃を受け戦没。 |
| 文月(ふみづき)★輸送駆逐艦 [諸元→] | 藤永田造船所 | 1926.7.3 | ケ号作戦で被弾した三水戦旗艦「巻波」を曳航。1944.1.4カビエン沖で皐月と共に米艦載機80機と交戦。同年2.18、トラック島空襲で修理中に被弾し戦没、現在も船体が現存。 |
| 長月(ながつき)★座礁のまま終戦 [諸元→] | 石川島造船所 | 1927.4.30 | 同型で唯一石川島式タービンを搭載。1943.7.6、クラ湾夜戦で座礁・放棄。船体は戦後風化したが、時鐘は日本へ持ち帰られ護衛艦「ながつき」に受け継がれた。 |
| 菊月(きくづき)★残骸が現存する唯一の艦 [諸元→] | 舞鶴工作部 | 1926.11.20 | 1942.5.4、ツラギで沖島への給油中に米空母ヨークタウン機の雷撃を受け被雷、ガブツ島に擱座後放棄。船体は今もソロモン諸島の海岸に現存、水上にある数少ない旧海軍艦艇。2017年に第四砲身が舞鶴へ里帰り。 |
| 三日月(みかづき)★輸送駆逐艦 [諸元→] | 佐世保海軍工廠 | 1927.5.5 | コロンバンガラ島沖海戦を単艦離脱で生き延びるも、1943.7.27、僚艦「有明」とグロスター岬沖で座礁。翌日の空襲で放棄、未収容者85名を記録した。 |
| 望月(もちづき) | 佐世保海軍工廠 | 1927.10.31 | 「卯月」の代艦として第30駆逐隊に編入。「磯風」と共に「弥生」乗組員の救出作戦にあたるなど、僚艦の救援任務に繰り返し従事した。 |
| 夕月(ゆうづき)★最後の睦月型 | 舞鶴工作部 | 1927.7.25 | 第23駆逐隊(菊月・望月・卯月)を経て輸送任務に従事。1944年11月、南シナ海で米潜水艦の雷撃を受け戦没。竣工順では睦月型最後の艦。 |
1941年12月11日、太平洋戦争開戦からわずか3日、ウェーク島攻略戦で「如月」は睦月型最初の喪失艦となった。日本軍が「壊滅した」と誤って判断していたウェーク島守備隊の海岸砲台が、僚艦「疾風」を瞬時に轟沈させ、さらに残存するF4Fワイルドキャットわずか4機が燃料弾薬を補給しながら9回もの出撃を繰り返し、「如月」を追い詰めた。午前5時37分、爆弾の直撃で誘爆した「如月」は艦橋と煙突を吹き飛ばされ、船体が二つに折れて爆沈する。この戦いは第二次世界大戦を通じて、海岸砲台が上陸侵攻部隊を撃退した唯一の事例として記録されることになった。
1942年5月4日、ツラギ島攻略作戦に従事していた「菊月」は座礁し、翌日の空襲で戦没した。睦月型12隻の中で、この「菊月」だけが特異な結末を迎えている——船体は現在もソロモン諸島沖の水上に、その姿をとどめているのである。戦闘で完全に破壊されたのでも、海底深く沈んだのでもなく、浅瀬にとどまり続けたその船体は、80年以上を経た今もダイバーや研究者によって確認できる、睦月型で唯一の「目に見える記憶」となっている。
「如月」や「菊月」のように戦記に繰り返し語られる艦がある一方、「皐月」「水無月」「望月」のように、資料の乏しさから艦歴の詳細があまり知られていない艦も少なくない。これらの艦は輸送・護衛・封鎖作戦といった地道な任務を積み重ねながら、それぞれの戦場でひっそりと戦没していった。派手な戦果や劇的なエピソードが残されていないというだけで、これらの艦の乗員たちが果たした任務の重みが軽くなるわけではない。
1944年12月12日、レイテ島への輸送作戦「多号作戦」に従事していた「卯月」は、オルモック湾で米海軍の魚雷艇と交戦した末に沈没した。この時点で、睦月型12隻の中で残っていたのは「卯月」ただ1隻だった。竣工から18年、旧式艦としての限界を抱えながらも最後まで戦い続けたこの艦の戦没によって、睦月型12隻は文字通り全滅という結末を迎えることになった。
睦月型は開戦時点で既に旧式艦だったが、それでも太平洋戦争のほぼ全期間を通じて最前線で戦い続けた。最後の1隻「卯月」が1944年末まで生き延びていたという事実は、この艦型がどれほど粘り強く戦局を支え続けたかを物語っている。つまりどういうことか——睦月型は、性能で劣りながらも、最後まで「使い続けられた」艦型だった。
睦月型の本質は、「日本駆逐艦初の61cm魚雷」という技術的な里程標を打ち立てながら、その先進性ゆえに旧式化した後もなお最前線に投入され続けた艦型だという点にある。峯風型・神風型の系譜を引く単純明快な設計思想は、竣工当初こそ時代の最先端だったが、太平洋戦争開戦時にはすでに15年以上を経た旧式艦となっていた。それでも雷装と航洋性能に優れていたという理由だけで、より新しい艦型が担うべき最前線の任務を、睦月型は引き受け続けることになる。
「如月」が経験した世界で唯一の海岸砲台撃退戦、「菊月」が今も海に残す船体、「卯月」が最後まで戦い抜いた末の戦没——これら12隻それぞれの艦歴は、単なる技術的な優劣を超えた、乗員たちの献身の記録でもある。半数の6隻がソロモン方面で失われ、残る6隻もニューギニア・フィリピン方面の消耗戦で次々と海に消えていった。この12隻という数字と、生存者ゼロという結末は、太平洋戦争を通じて「旧式艦」がどれほど酷使され続けたかを、静かに、しかし雄弁に物語っている。
睦月型が残したものは何か。それは、技術的な先進性が、そのまま艦の生存を保証しないという厳しい現実である。日本初の61cm魚雷を担った12隻は、その先進性ゆえに酷使され、そして1隻残らず海に消えていった。猫工艦は、旧式化してもなお最前線で戦い続けた睦月型12隻すべてに、深い敬意を表したい。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書49『南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』朝雲新聞社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)睦月・如月・弥生・卯月・皐月・水無月・文月・長月・菊月・三日月・望月・夕月 公文備考
- ・田村俊夫『睦月型駆逐艦 真実の艦艇史4 謎多き艦隊型駆逐艦の実相』歴史群像太平洋戦史シリーズ64、学研、2008年
- ・佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編』光人社NF文庫、1995年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・福井静夫『日本駆逐艦物語』光人社NF文庫、1993年
- ・Wikipedia「睦月型駆逐艦」「睦月 (駆逐艦)」「如月 (睦月型駆逐艦)」「弥生 (睦月型駆逐艦)」「ウェーク島の戦い」