1937年竣工、白露型駆逐艦8番艦(改白露型)。タラカン攻略でオランダ敷設艦を単艦撃沈し、スラバヤ沖海戦では英重巡エクセター・蘭軽巡ジャワの生存者100名超を救助した。1942年6月、日本本土近海を単艦航行中に米潜水艦ノーチラスの雷撃を受け戦没。改白露型最初の喪失艦となった。
(計8射線、魚雷16本)
| 艦名 | 山風(やまかぜ) |
| 艦型・番艦 | 白露型(一等駆逐艦)8番艦(改白露型・海風型2番艦) |
| 艦名の由来 | 海風型駆逐艦「山風」に続き2隻目(初代は後に第八号掃海艇と改名) |
| 建造所 | 浦賀船渠株式会社 |
| 起工日 | 1935年(昭和10年)5月25日 |
| 進水日 | 1936年(昭和11年)2月21日 |
| 竣工日 | 1937年(昭和12年)6月30日 |
| 除籍日 | 1942年(昭和17年)8月20日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 全長 | 102.24m(竣工時公表値、白露型公表値ベース) |
| 全幅 | 9.67m(竣工時公表値) |
| 吃水 | 2.77m(平均吃水、竣工時公表値) |
| 機関 | 艦本式タービン2基2軸、艦本式重油専焼缶3基、出力42,000馬力(白露型標準値) |
| 速力 | 34.0kt(竣工時公表値) |
| 航続距離 | 4,000海里/18kt(計画値、白露型標準) |
| 乗員 | 226名(白露型標準値) |
| 主砲 | 12.7cm砲:5門(連装2基・単装1基) |
| 魚雷発射管 | 61cm4連装水上発射管:2基(計8射線・魚雷16本) |
| 機銃 | 13mm連装機銃:2基 |
| 爆雷 | 爆雷投射機2基、爆雷×16 |
| 所属駆逐隊履歴 | 第24駆逐隊(江風・海風、1937年6月〜司令駆逐艦に指定)→第一水雷戦隊(1942年4月10日〜)→第二水雷戦隊(行方不明後の書類上の編入、1942年7月14日) |
| 主要艦長履歴 | 野間口兼知少佐(初代、1937年6月30日〜)/吉川潔少佐(1938年10月5日〜、後に白露型2隻艦長兼務)/豊島俊一少佐(1939年11月15日〜)/浜中脩一少佐(1941年9月10日〜戦没時、乗組員全員と共に戦死) |
| 特記事項① | 1942年1月12日、タラカン攻略でオランダ敷設艦「プリンス・ファン・オラニエ」を撃沈、生存者5名を救助 |
| 特記事項② | 1942年3月1日、スラバヤ沖海戦で英重巡エクセターの生存者67名、蘭軽巡ジャワの生存者37名を救助 |
| 特記事項③ | 陽炎型「嵐」との艦名混同問題(漢字縦書きで「山風」が「嵐」と読めるため郵便物誤配送が多発) |
| 最終結末 | 1942年6月25日、東京湾沖で米潜水艦ノーチラスの雷撃を受け沈没(魚雷4本中2本命中)。浜中脩一艦長以下乗組員全員戦死(戦死認定は6月23日付)。行方不明の発覚は7月2日と1週間以上遅れた |
第二次軍備補充計画(②計画)で計画された白露型の後期4隻(海風・山風・江風・涼風)は、第四艦隊事件の影響で船体構造の設計が若干改められ「改白露型」(海風型)と呼ばれる。最大の特徴は艦橋形状の変更で、海風建造時に実物大模型を製作して決定されたこの形状は、後の朝潮型・陽炎型にも引き継がれた。山風は浦賀船渠で建造され、同船渠では当時「時雨」「五月雨」も同時に建造されていた。
- 1935年5月25日起工。1936年2月21日進水(当時、浦賀船渠は白露型3隻(時雨・五月雨・山風)を同時建造中)。
- 司令久宗米次郎大佐。初代司令駆逐艦は「江風」(江風は山風より先に竣工)。佐世保警備戦隊に編入。
- 野間口兼知少佐が初代艦長に。竣工と同時に佐世保へ回航。7月18日、司令駆逐艦が江風から山風に変更。7月28日、各艦隊は佐世保警備戦隊から除かれる。
- 軽巡2隻(由良・鬼怒)、小型艦艇(子日・春雨・海風・山風・隼・千鳥)で呉淞砲台・劉河鎮方面を砲撃。10月20日、支那方面艦隊編制と共に第二航空戦隊(空母加賀)に編入。12月1日、第一水雷戦隊に編入、南京攻略戦に伴う揚子江遡上作戦に従事。
- 野間口少佐が浦波艦長へ転任、吉川潔少佐が二代目艦長に。12月15日、24駆司令が中川浩大佐に交代。1939年10月、吉川中佐は白露型2隻(山風・江風)艦長兼務。11月15日、豊島俊一少佐が三代目艦長に。1940年10月、司令が松原博大佐に交代。11月15日、第二艦隊・第四水雷戦隊(西村祥治少将、旗艦那珂)に編入。
- 有明海東方で訓練中に衝突。同時期、陽炎型「嵐」との艦名混同による郵便物誤配送問題が発生、両艦とも対応策を通達。
- 24駆司令が平井泰次大佐に交代。9月10日、豊島艦長が磯風艦長へ転任、浜中脩一少佐が四代目(最後の)艦長に着任。
- 第三艦隊司令長官・高橋伊望中将指揮下に入り日本本土を出発。開戦後は南方部隊に属しレガスピー上陸作戦・ラモン湾上陸作戦に従事。
- タラカン島守備隊降伏後、秘匿陸上砲台の砲撃で掃海艇2隻が短時間で撃沈される事態の中、「山風」は脱出を図るオランダ敷設艦「プリンス・ファン・オラニエ」を発見。
- 第38号哨戒艇と共にこれを撃沈、生存者5名を救助。蘭印方面における初の水上艦同士の交戦で、タラカン攻略部隊全員の士気を高揚させた。
- マナド沖合で浮上潜水艦を発見、砲撃による撃沈を報告。24日、駆逐艦「雷」も敵潜水艦撃沈を報告。米潜水艦シャークは山風か雷のどちらかに撃沈されたとされ、アメリカ軍は山風による撃沈と認定。
- 第五戦隊(那智・羽黒)指揮下、第7駆逐隊1小隊(潮・漣)と共に行動。2月27日、第二水雷戦隊に一時臨時編入されるが会敵せず、第五戦隊指揮下に復帰。
- 3月1日、那智・羽黒・山風・江風が脱出を図る英重巡「エクセター」、駆逐艦2隻(ポープ・エンカウンター)と遭遇。重巡2隻(妙高・足柄)、駆逐艦2隻(雷・曙)、空母龍驤艦載機と共同で3隻を撃沈。
- 山風はエクセターに魚雷2本発射、敵魚雷1本が艦底を通過と報告。残燃料が乏しい中、エクセター生存者67名を救助。江風が救助していたジャワ生存者37名も収容。共に交戦した第6駆逐隊(雷・電)も多くの英国軍艦乗員を救出。
- 第五戦隊指揮下を離れる。4月10日、第一水雷戦隊(大森仙太郎少将、旗艦阿武隈)に編入。4月30日、警戒部隊編入。
- 第九戦隊司令官・岸福治少将(旗艦北上)の警戒隊所属。第一艦隊司令長官高須四郎中将直率の警戒部隊と行動。山風は第二補給隊の特設給油艦2隻(さくらめんて丸・東亜丸)を護衛。
- 6月17日、各艦は横須賀へ到着。
- 第二戦隊・第九戦隊の西日本回航護衛のため横須賀を出発。山風は油槽船2隻(神国丸・日本丸)を護衛し大湊へ。
- 6月23日午前11時30分、大湊入泊。午後1時、単艦で大湊を出発し柱島へ向かう。午後7時45分の連絡を最後に消息を絶つ。
- 駆逐艦「羽風」(第34駆逐隊)が浮上潜水艦を発見し爆雷攻撃。午前4時20分、1000m離れた地点に「山風」と思しき駆逐艦を発見し協同攻撃を依頼。
- 同日、東京湾沖で米潜水艦ノーチラスが山風に魚雷4本発射、2本命中で沈没。浜中脩一艦長以下乗組員全員戦死(戦死認定は6月23日付)。
- 沈没地点:北緯34度34分・東経140度26分。ノーチラスは沈没する山風の写真を撮影、一番砲塔の日の丸が確認できる。
- 7月2日、横須賀鎮守府は山風の行方不明を初めて認知。「奇怪なる結果」として戦時日誌に記録。関東地方の航空隊が対潜哨戒を兼ねて捜索するが手遅れ。襟裳岬沖合で兵員用の机らしき木片発見、海防艦「八丈」等が調査出動。
- 7月14日、第24駆逐隊(海風・江風・涼風)は第二水雷戦隊に編入、行方不明の山風も書類上同水雷戦隊に所属。
- 山風は改白露型4隻の中で最初の喪失艦となった。
しかし、その艦を最後に沈めたのは、激しい海戦の中ではなく、日本本土近海での単艦航行という、最も無防備な瞬間だった。さらにこの艦の最期を特異なものにしているのは、被害発生から発覚までの空白の時間だ。横須賀鎮守府自身が「奇怪なる結果」と記録したように、行動予定の報告と見張りの欠落が重なり、捜索が始まったのは沈没から1週間以上が経過した後だった。
山風が残したものは、戦果としての記録だけではない。日常的な航行の中にも潜む見えない危険と、それに気づくまでの空白がもたらす結果という、戦争という現実の別の側面を、この艦の最期は静かに物語っている。
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蘭印作戦で100名超を救った改白露型2番艦——山風の物語を、その身に纏う。
「激戦を生き抜いた艦が、静かに消えた——山風、改白露型最初の喪失艦」
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書46『海上護衛戦』朝雲新聞社
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・木俣滋郎『潜水艦攻撃』図書出版社
- ・歴史群像編集部『真実の艦艇史2』学習研究社、2005年
- ・歴史群像編集部『水雷戦隊II』学習研究社、1998年
- ・雑誌「丸」編集部『写真太平洋戦争 第3巻』光人社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報・横須賀鎮守府戦時日誌
- ・Wikipedia「山風 (白露型駆逐艦)」「白露型駆逐艦」
1942年7月2日、横須賀鎮守府はようやくある事実に気づいた。駆逐艦「山風」が、1週間以上前から行方不明になっていた。6月23日午後、大湊港外を出発し柱島へ向かったはずの山風は、19時45分の連絡を最後に消息を絶っていた。だが大湊警備府も横須賀鎮守府も、その行動を把握していなかった。捜索が始まった時には、もう手遅れだった。
白露型駆逐艦8番艦・山風は、改白露型(海風型)4隻のうちの2番艦である。タラカン攻略作戦ではオランダ軍の機雷敷設艦を単艦で撃沈し、スラバヤ沖海戦では英重巡「エクセター」の生存者67名と蘭軽巡「ジャワ」の生存者37名を救助した。蘭印作戦という激戦を生き抜いた艦が、その後、日本近海での単艦航行中にひっそりと消えていった。
そして——その消息不明の発覚の遅れこそが、この艦の最期を特徴づける最大の悲劇だった。米潜水艦の雷撃を受けたのは6月25日。横須賀鎮守府がその事実に気づいたのは7月2日。捜索が行われた時、山風はすでに海の底にあった。
1937年6月30日 竣工
34.0kt
(改白露型・海風型2番艦)
単装砲1基(計5門)
(計8射線)
(乗員全員と共に戦死)
ジャワ生存者37名を救助
米潜水艦ノーチラスの雷撃で戦没(発覚は7月2日)
第二次軍備補充計画(②計画)で計画された白露型の後期4隻(海風・山風・江風・涼風)は、第四艦隊事件の影響で船体構造の設計が若干改められ「改白露型」(海風型)と呼ばれる。最大の外観的特徴は艦橋形状の変更で、海風建造時に実物大模型を製作して決定されたこの形状は、後の朝潮型・陽炎型にも引き継がれた。山風は浦賀船渠で建造され、白露型の中でも「時雨」「五月雨」と同時に建造されていた艦である。日本海軍の艦船としては海風型駆逐艦「山風」に続いて2隻目にあたる(初代山風は後に第八号掃海艇と改名)。
山風は1935年5月25日、浦賀船渠で起工した。1936年2月21日に進水、1937年6月30日に竣工。竣工と同時に佐世保へ回航され、第24駆逐隊(江風・海風)に編入された。7月18日、24駆司令駆逐艦は江風から山風に変更される。第24駆逐隊の初実戦は第二次上海事変で、9月2日には軽巡2隻と共に対地砲撃を実施した。
1941年11月26日、第24駆逐隊は第三艦隊司令長官・高橋伊望中将の指揮下に入り、フィリピンの戦いに従事すべく日本本土を出発した。太平洋戦争開戦後は南方部隊に属し、レガスピー上陸作戦・ラモン湾上陸作戦に従事。1942年1月からは蘭印部隊に属し、タラカン・バリックパパン・マカッサル・スラバヤ・パナイ島の各攻略作戦に参加した。
1942年1月12日朝、タラカン島守備隊降伏の報告を受けた第四水雷戦隊は、指揮下の掃海隊に港口の機雷除去を命じた。秘匿されていた陸上砲台が砲撃を開始し、掃海艇2隻が短時間で撃沈される事態となる。同日夜、「山風」はタラカン島とブニュー島の間で脱出を図るオランダ敷設艦「プリンス・ファン・オラニエ」を発見、第38号哨戒艇と共にこれを撃沈し、生存者5名を救助した。この勝利はタラカン攻略部隊全員の士気を高揚させ、蘭印方面における初の水上艦同士の交戦でもあった。
2月11日、山風はマナド沖合で浮上潜水艦を発見し、砲撃による撃沈を報告。米潜水艦「シャーク」は山風か僚艦「雷」のどちらかに撃沈されたとされ、アメリカ軍は山風による撃沈と認定している。2月22日からは第五戦隊の指揮下でスラバヤ沖海戦に参加することになる。
4月10日、第24駆逐隊は第一水雷戦隊に編入。フィリピン攻略作戦に従事した後、6月上旬のミッドウェー海戦では主力部隊・警戒部隊の特設給油艦を護衛した。海戦後、6月17日に横須賀へ到着。6月21日、第二戦隊・第九戦隊の西日本回航護衛のため横須賀を出発する各艦の中で、山風は油槽船2隻を護衛して大湊へ向かった。
6月23日午前11時30分、山風は大湊に入泊。午後1時、単艦で大湊を出発し柱島(瀬戸内海西部)に向かった。だが午後7時45分の連絡を最後に、消息を絶つ。
6月25日、輸送船を護衛中の駆逐艦「羽風」(第34駆逐隊)が浮上中の潜水艦を発見し爆雷攻撃を実施。午前4時20分、羽風は1000m離れた地点に「山風」と思しき駆逐艦を発見し協同攻撃を依頼している。同日、東京湾沖でアメリカの潜水艦ノーチラスが「山風」に魚雷4本を発射、2本が命中して沈没した。浜中脩一艦長以下乗組員全員が戦死した(日本海軍の戦死認定は6月23日付)。アメリカ軍による沈没地点記録は北緯34度34分・東経140度26分。ノーチラスは沈没する山風の写真を撮影しており、一番砲塔に日の丸が描かれていることが確認できる。
本邦沿岸附近艦艇ト雖モ行動豫定ヲ所要ノ向ニ豫報シ且ツ見張ヲ嚴重ニセザレバ不覚ヲ取ルコトアリ
横須賀鎮守府は、山風の行方が大湊警備府にも横須賀鎮守府にも知られず、7月2日にようやく行方不明を感知したという「奇怪なる結果」を、戦時日誌に自ら記録している。
——自昭和十七年七月一日 至昭和十七年七月三十一日 横須賀鎮守府戦時日誌より。
日本海軍は7月上旬になって山風の行方不明に気づき、関東地方の航空隊が対潜哨戒を兼ねて捜索を実施したが、すでに手遅れだった。襟裳岬沖合でも兵員用の机らしき木片が見つかり、大湊防備隊から海防艦「八丈」等が調査のために出動している。7月14日、第24駆逐隊(海風・江風・涼風)は第二水雷戦隊に編入され、行方不明になっていた山風も書類上は同水雷戦隊に所属することになった。8月20日、山風は帝国駆逐艦籍・第24駆逐隊・白露型駆逐艦のそれぞれから除籍された——改白露型4隻の中で、最初の喪失艦となった。
さらにこの艦の最期を特異なものにしているのは、被害発生から発覚までの空白の時間だ。横須賀鎮守府自身が「奇怪なる結果」と記録したように、行動予定の報告と見張りの欠落が重なり、捜索が始まったのは沈没から1週間以上が経過した後だった。これは艦そのものの弱さではなく、戦時下の連絡体制が抱えていた構造的な脆さを示している。
山風が残したものは、戦果としての記録だけではない。日常的な航行の中にも潜む見えない危険と、それに気づくまでの空白がもたらす結果という、戦争という現実の別の側面を、この艦の最期は静かに物語っている。
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蘭印作戦で100名超を救った改白露型2番艦——山風の物語を、その身に纏う。
「激戦を生き抜いた艦が、静かに消えた——山風、改白露型最初の喪失艦」
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書46『海上護衛戦』朝雲新聞社
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・木俣滋郎『潜水艦攻撃』図書出版社
- ・歴史群像編集部『真実の艦艇史2』学習研究社、2005年
- ・歴史群像編集部『水雷戦隊II』学習研究社、1998年
- ・雑誌「丸」編集部『写真太平洋戦争 第3巻』光人社
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報・横須賀鎮守府戦時日誌
- ・Wikipedia「山風 (白露型駆逐艦)」「白露型駆逐艦」
1937年竣工、白露型駆逐艦5番艦。1943年1月、米潜水艦ワフーの雷撃で艦橋から前部を失う壊滅的損傷を受けながらも生還し、本格修理を経て第27駆逐隊司令艦として渾作戦に投入された。1944年6月、ビアク島輸送中にB-25爆撃機の空襲を受け戦没、第27駆逐隊司令・白浜政七大佐も戦死した。
単装砲1基(計5門)
(計8射線)
| 艦名 | 春雨(はるさめ) |
| 艦型・番艦 | 白露型(一等駆逐艦)5番艦 |
| 艦名の由来 | 春雨型駆逐艦「春雨」に続き2隻目(初代は1911年、三重県鳥羽市的矢湾で擱座沈没) |
| 建造所 | 舞鶴海軍工廠 |
| 起工日 | 1935年(昭和10年)2月3日 |
| 竣工日 | 1937年(昭和12年)8月26日(白露型の中では時雨の次に竣工が遅い、機関の諸問題が原因) |
| 除籍日 | 1944年(昭和19年)8月10日(第27駆逐隊から削除) |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 全長 | 111.0m(白露型標準値) |
| 全幅 | 9.9m(白露型標準値) |
| 機関 | 艦本式タービン2基2軸、艦本式重油専焼缶3基、出力42,000馬力 |
| 速力 | 34.0kt(公試では35kt前後を発揮) |
| 航続距離 | 4,000海里/18kt(計画値、実績は5,000海里前後) |
| 乗員 | 226名(白露型標準値) |
| 主砲 | 50口径三年式12.7cm連装砲2基・単装砲1基:計5門(1943年修理時に2番砲塔撤去、25mm三連装機銃を増設) |
| 魚雷発射管 | 61cm4連装水上発射管:2基(計8射線、九〇式魚雷→開戦前に九三式酸素魚雷へ改造) |
| 艦橋(改修後) | 1943年の本格修理で白露型の角型艦橋から、夕雲型に近い形状へ交換 |
| 所属駆逐隊履歴 | 第2駆逐隊(村雨・夕立・五月雨、1937年〜1943年7月1日解隊)→予備艦籍(1943年7月〜11月)→第27駆逐隊(白露・時雨・五月雨、1943年11月30日〜) |
| 主要艦長履歴 | (艦長個別記録は資料限定的) |
| 最後の指揮官 | 第27駆逐隊司令・白浜政七大佐(戦没時座乗、戦死後少将に昇進) |
| 特記事項① | 1943年1月24日、米潜水艦ワフーの雷撃で艦橋から前部を喪失。応急修理・曳航を経て横須賀で本格修理を実施し復帰 |
| 特記事項② | 1944年6月8日、第二次渾作戦で司令駆逐艦として警戒隊(春雨・白露・五月雨)を指揮 |
| 最終結末 | 1944年6月8日12時20〜42分頃、ビアク島輸送船団の右側を航行中、米陸軍B-25爆撃機・P-38戦闘機の空襲を受け被弾沈没。第27駆逐隊司令・白浜政七大佐も戦死。生存者は士官4名・下士官兵79名(五月雨が救助) |
ロンドン海軍軍縮条約下に計画された初春型駆逐艦の後続艦として建造された一等駆逐艦。主要兵装と機関は初春型を踏襲したが、魚雷兵装は日本海軍初の四連装発射管を採用し、8射線を実現した。春雨は当初「有明型」5番艦として命名されたが、1934年の再編で白露型に類別された。竣工は白露型の中でも遅く、機関に関する諸問題が背景にあったとされる。
- 1937年8月26日竣工。白露型の中では時雨の次に竣工が遅れた艦で、機関の諸問題が原因とされる。村雨・夕立・五月雨と共に第2駆逐隊に編成。
- 第二艦隊・第四水雷戦隊(旗艦那珂)に編入。太平洋戦争開戦時、第2駆逐隊(村雨・夕立・春雨・五月雨)は引き続き四水戦所属。
- 西村祥治少将(旗艦那珂)指揮下、ビガン攻略作戦、リンガエン湾上陸作戦、タラカン上陸作戦、バリックパパン攻略作戦(バリクパパン沖海戦)、スラバヤ沖海戦に参加。
- 3月、比島保定作戦。5〜6月、ミッドウェー作戦で近藤信竹中将(旗艦愛宕)指揮下の攻略部隊本隊に所属。7月、インド洋通商破壊作戦(B作戦)のためマレー半島へ進出。
- ガダルカナル島の戦い開始によりトラック泊地へ移動。戦艦「陸奥」の護衛部隊として第二次ソロモン海戦に参加(村雨・春雨・五月雨の3隻)。
- 10月2日、5隻でガ島輸送成功。10月5日、空襲で村雨・峯雲が損傷、春雨は朝雲・夕立と共に揚陸を完了。
- 四水戦(朝雲・村雨・五月雨・夕立・春雨)が戦艦比叡・霧島の護衛でアイアンボトム・サウンドへ進入。スコールで陣形が乱れ、夕立・春雨が前方に突出。米軍の誤判断で第一夜戦が生起。
- 春雨と分離後、単艦で米艦隊に突入した夕立は航行不能となり、五月雨に処分された後、米重巡の砲撃で沈没——第2駆逐隊初の戦没艦となった。
- トラック・ウェワク間を基地員収容のため往復中、米ガトー級潜水艦「ワフー」に捕捉される。魚雷3本・続く1本を回避するが、3射目の魚雷2本のうち1本が一番砲直下付近に命中。
- ワフーは撃沈を確信したが、春雨は応急修理で沈没を免れウェワクへ帰投。その後「天津風」「浦風」に護衛されトラックへ曳航される途中、艦体が分断し艦橋から前部を完全に喪失。
- 工作艦「明石」での応急処置後、横須賀で本格的な修理を実施。
- 第2駆逐隊司令艦「村雨」が米艦隊のレーダー射撃を受け沈没。
- 春雨は5月末に損傷のひどい状態で横須賀に帰港。村雨喪失・春雨長期修理により第2駆逐隊は7月1日解隊。五月雨は北方部隊編入、春雨はいったん予備艦籍となる。
- 8月から11月まで修理。艦橋を白露型の角型から夕雲型に近い形状へ交換。2番砲塔を撤去し対空兵装強化のため25mm三連装機銃を設置。
- 11月30日、改初春型「有明」「夕暮」を喪失して時雨・白露の2隻となっていた第27駆逐隊(第二水雷戦隊)に編入。
- 各地に分散していた第27駆逐隊(時雨・白露・五月雨・春雨)が定数4隻体制で復帰。空母(隼鷹・飛鷹・龍鳳)護衛後、米艦隊に水上戦闘を挑む計画だったが、5月27日の米軍ビアク島上陸により急遽渾作戦に投入。
- 戦艦扶桑、第五戦隊(羽黒・妙高)、第16戦隊(青葉・鬼怒・第19駆逐隊)、第27駆逐隊(春雨・五月雨・白露・時雨)等がダバオを出発しビアク島へ向かう。6月3日、豊田副武連合艦隊司令長官から米軍機動部隊出現の誤報により一時中止命令。6月4日、再興命令。
- 扶桑・青葉等を除外し駆逐艦6隻・人員600名でのビアク島輸送計画。第27駆逐隊はソロンで青葉・鬼怒と分離。陸軍部隊を載せた駆逐艦6隻(敷波・浦波・時雨・白露・五月雨・春雨)がソロンを出発。
- 輸送隊(敷波・浦波・時雨)と警戒隊(春雨・白露・五月雨)に分割、春雨は司令駆逐艦として警戒隊を指揮。
- 第19駆逐隊・第27駆逐隊がアメリカ陸軍B-25爆撃機・P-38戦闘機の襲撃を受ける。輸送隊3隻の前方に五月雨、左側に白露、右側に春雨が配置。
- 時雨・白露・五月雨の損傷は軽微だったが、春雨は被弾して沈没(時雨記録では12時32分、五月雨記録では12時42分)。第27駆逐隊司令・白浜政七大佐も戦死(戦死後少将昇進)。
- 米軍機撤退後、五月雨と白露が救助に向かい時雨が警戒。五月雨は内火艇で士官4名・下士官兵79名を救助。
- 第二次渾作戦部隊は輸送継続するが、夜間に米軍巡洋艦部隊に迎撃され撤退、ビアク島輸送は失敗。一連の戦闘で約50名が戦死。
- 春雨の戦没から1週間後、白露が清洋丸との衝突事故で沈没。第27駆逐隊は2隻(時雨・五月雨)となる。
- 白露と共に第27駆逐隊から削除。白露型駆逐艦10隻のうち、この時点で残存していたのは時雨・五月雨のわずか2隻だった。
しかし1944年6月、渾作戦という大規模な輸送任務の司令駆逐艦として指揮を執っていた春雨は、B-25の超低空爆撃によって最後を迎えた。司令・白浜政七大佐の戦死は、この艦が単なる一艦ではなく、作戦全体の指揮機能そのものを担っていたことを示している。
初代「春雨」と同じく艦尾を喪失して終わったこの艦の物語は、一度壊れても再生する艦の強さと、それでも避けられない戦争の結末という、両極にある事実を今に伝えている。
▼ 関連記事
■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦(2)
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報・各艦公文備考
- ・Wikipedia「春雨 (白露型駆逐艦)」「白露型駆逐艦」「春雨 (春雨型駆逐艦)」
1944年6月8日午後0時20分、ビアク島へ向かう輸送船団の中、駆逐艦「春雨」の右側を航行していたところに、米陸軍のB-25爆撃機とP-38戦闘機が襲いかかった。輸送隊3隻(五月雨・白露・春雨)のうち、被弾したのは春雨だけだった。司令駆逐艦として第27駆逐隊司令・白浜政七大佐を座乗させていた春雨は、海軍大佐ごと轟沈する。僚艦「五月雨」からは、大きな爆煙の柱が立ち上るのが望見されたという。
白露型駆逐艦5番艦・春雨は、白露型の中でも竣工が最も遅い艦のひとつだった。機関に関する諸問題に悩まされ、時雨の次に竣工が遅れたという、設計の難しさを体現するような艦である。1943年1月には米潜水艦「ワフー」の雷撃を受け、艦橋から前部を失う壊滅的な損傷を負いながらも、奇跡的に生き延びた。
そして——その春雨を最後に沈めたのは、艦尾からの喪失という、初代「春雨」(春雨型駆逐艦)が三重県鳥羽市で擱座沈没した際と同じ運命だった。代を継いで2隻が、共に艦尾を失う形で海に消えていく——歴史の奇妙な符合がこの艦名には刻まれている。
1937年8月26日 竣工
34.0kt
(第2駆逐隊→第27駆逐隊)
単装砲1基(計5門)
(計8射線)
白浜政七大佐(戦死・没後少将)
前部喪失も生還
渾作戦中、B-25の空襲を受け戦没
ロンドン海軍軍縮条約下に計画された初春型駆逐艦の後続艦として建造された一等駆逐艦。主要兵装と機関は初春型を踏襲したが、魚雷兵装は日本海軍初の四連装発射管を採用し、8射線を実現した。春雨は当初「有明型」5番艦として命名されたが、1934年の再編で白露型に類別された。日本海軍の艦船としては春雨型駆逐艦「春雨」に続いて2隻目にあたる——初代「春雨」は1911年、三重県鳥羽市の的矢湾で荒天により擱座沈没しており、この海域には今も殉難の碑が建っている。
春雨は1935年2月3日、舞鶴海軍工廠で起工した。1937年8月26日に竣工——白露型の中では時雨の次に竣工が遅れた艦で、これは機関に関する諸問題が原因だったという。「村雨」「夕立」「五月雨」と共に第2駆逐隊に編成され、1940年には第二艦隊・第四水雷戦隊に編入された。
8月7日のガダルカナル島の戦い開始で、インド洋通商破壊作戦「B作戦」は中止され、第2駆逐隊はソロモン方面へ転戦した。10月2日、5隻の駆逐艦でガ島輸送に成功するも、10月5日には空襲で僚艦「村雨」「峯雲」が損傷。春雨は3隻(朝雲・夕立・春雨)の一艦として揚陸を完了させている。11月、第三次ソロモン海戦では「夕立」が春雨と分離後、単艦で米艦隊へ突入し航行不能となった末に戦没——第2駆逐隊として初めての戦没艦だった。
1943年1月24日、トラック・ウェワク間を基地員収容のため往復していた春雨は、米ガトー級潜水艦「ワフー」に捕捉された。最初の魚雷3本を回避し、続けて撃たれた1本も避けたが、3射目の魚雷2本のうち1本が一番砲直下付近に命中する。ワフーは敵駆逐艦撃沈を確信したが、春雨は応急修理によって沈没を免れ、命からがらウェワクに戻った。その後「天津風」「浦風」に護衛されてトラックへ曳航される途中、艦体が分断し艦橋から前部を完全に失う。トラック泊地で再度修理を行い、本格的な修理のため横須賀へ曳航されることになった。
この間の3月5日、第2駆逐隊司令艦「村雨」がビラ・スタンモーア夜戦で米艦隊のレーダー射撃を受け沈没していた。春雨は5月末、損傷のひどいまま横須賀に帰港。第2駆逐隊は7月1日、村雨喪失と春雨の長期修理を理由に解隊され、春雨はいったん予備艦籍となる。8月から11月にかけて、横須賀で本格的な修理が行われた。
復帰後の第27駆逐隊は、空母(隼鷹・飛鷹・龍鳳)を護衛しつつ米艦隊に水上戦闘を挑む計画を持っていた。だが5月27日、米軍がビアク島に上陸を開始したことで、第27駆逐隊は急遽「渾作戦」に投入される。この作戦は、ビアク島への友軍支援と、米軍への陽動作戦という二つの側面を持っていた。
6月2日(3日とも)、戦艦「扶桑」、第五戦隊(羽黒・妙高)、第16戦隊(青葉・鬼怒・第19駆逐隊)、第27駆逐隊(春雨・五月雨・白露・時雨)からなる大艦隊が、ミンダナオ島ダバオを出発しビアク島へ向かった。だが翌3日、豊田副武連合艦隊司令長官から渾作戦一時中止命令が下る。米軍機動部隊出現の偵察報告が理由だったが、これは誤認だった。6月4日、改めて「渾作戦を再び実施せよ」との命令が出される。
作戦再開にあたり、第一次渾作戦参加艦艇から扶桑・青葉・津軽等が除外され、駆逐艦6隻・人員600名でのビアク島輸送計画が通達された。第27駆逐隊はソロンに立ち寄った後、青葉・鬼怒と分離。6月8日午前3時、陸軍部隊を載せた駆逐艦6隻(敷波・浦波・時雨・白露・五月雨・春雨)はソロンを出発し、再びビアク島へ向かう。輸送隊は輸送隊(敷波・浦波・時雨)と警戒隊(春雨・白露・五月雨)に分けられ、春雨は司令駆逐艦として警戒隊を指揮した。
6月8日12時20分、第19駆逐隊・第27駆逐隊はアメリカ陸軍のB-25爆撃機とP-38戦闘機の襲撃を受ける。輸送隊3隻の前方に五月雨、左側に白露、右側に春雨が配置されていた。時雨・白露・五月雨の損傷は軽微だったが、春雨は被弾して沈没した(時雨の記録では12時32分、五月雨の記録では12時42分)。第27駆逐隊司令・白浜政七大佐もこの時戦死した(戦死後、少将に昇進)。米軍機が去った後、五月雨と白露が救助に向かい、時雨が警戒を行う。五月雨は内火艇を降ろし、士官4名・下士官兵79名を救助した。
初代、二代と続けての艦尾喪失
初代「春雨」(春雨型駆逐艦)が三重県鳥羽市で擱座沈没したのと同じく、白露型「春雨」も反跳爆撃を艦尾に受けて戦没した。
——艦名に刻まれた、世代を超えた奇妙な符合。
第二次渾作戦部隊は春雨の沈没後もビアク島への輸送作戦を継続したが、夜になり米軍巡洋艦部隊に迎撃され撤退、ビアク島への輸送は失敗に終わった。ハルマヘラ諸島パジアンに帰投後、白露に救助されていた春雨の乗組員は五月雨に移乗してアンボン基地へ向かい、白露は時雨に合流するためダバオへ向かった。この一連の戦闘で約50名が戦死している。
春雨の戦没から1週間後の6月15日、僚艦「白露」も衝突事故で沈没した。第27駆逐隊は2隻(時雨・五月雨)となり、6月中旬のマリアナ沖海戦に参加することになる。10隻が建造された白露型駆逐艦のうち、この時点で残っていたのは時雨・五月雨のわずか2隻だった。
しかし、その生命力にも限界があった。渾作戦という大規模な輸送任務の司令駆逐艦として指揮を執っていた春雨は、B-25の超低空爆撃という、対処の難しい攻撃によって最後を迎える。司令・白浜政七大佐の戦死は、この艦が単なる一艦ではなく、作戦全体の指揮機能そのものを担っていたことを示している。
春雨が残したものは、一度壊れても再生する艦の強さと、それでも避けられない戦争の結末という、両極にある事実である。初代「春雨」と同じく艦尾を喪失して終わったこの艦の物語は、艦名に刻まれた巡り合わせの重さを今に伝えている。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦(2)
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報・各艦公文備考
- ・Wikipedia「春雨 (白露型駆逐艦)」「白露型駆逐艦」「春雨 (春雨型駆逐艦)」
1937年竣工、白露型駆逐艦3番艦。第2駆逐隊(村雨・夕立・春雨・五月雨)司令艦として太平洋戦争を戦った。第三次ソロモン海戦では魚雷7本のうち3本を命中させ敵巡洋艦轟沈と認定される戦果を上げたが、1943年3月、ビラ・スタンモーア夜戦で米軍のレーダー射撃を受け戦没した。
単装砲1基(計5門)
(計8射線)
| 艦名 | 村雨(むらさめ) |
| 艦型・番艦 | 白露型(一等駆逐艦)3番艦 |
| 艦名の由来 | 春雨型駆逐艦「村雨」に続き2隻目 |
| 建造所 | 藤永田造船所 |
| 起工日 | 1934年(昭和9年)2月1日 |
| 進水日 | 1935年(昭和10年)6月20日 |
| 竣工日 | 1937年(昭和12年)1月7日 |
| 除籍日 | 1943年(昭和18年)4月1日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 全長 | 111.0m(白露型標準値、初期公表値では102.96m) |
| 全幅 | 9.9m(白露型標準値、初期公表値では9.94m) |
| 機関 | 艦本式タービン2基2軸、艦本式重油専焼缶3基、出力42,000馬力 |
| 速力 | 34.0kt(公試では35kt前後を発揮) |
| 航続距離 | 4,000海里/18kt(計画値、実績は5,000海里前後) |
| 乗員 | 245名(戦没時の乗員数記録) |
| 主砲 | 50口径三年式12.7cm連装砲2基・単装砲1基:計5門(C型平射砲・全周囲シールド付) |
| 魚雷発射管 | 61cm4連装水上発射管:2基(計8射線、九〇式魚雷→開戦前に九三式酸素魚雷へ改造) |
| 機銃(最終) | 毘式四十粍機銃から九六式二十五粍高角機銃へ換装(1943年1月実施) |
| 所属駆逐隊履歴 | 第2駆逐隊(村雨・夕立・春雨・五月雨、1937年12月〜)司令艦として終始所属 |
| 主要艦長履歴 | 脇田喜一郎少佐(1936年7月22日〜)/種子島洋二中佐(戦没時艦長、生存) |
| 特記事項① | 第2駆逐隊司令・橘正雄大佐の座乗艦(第1小隊1番艦)として終始行動 |
| 特記事項② | 1942年11月12日、第三次ソロモン海戦第一夜戦で魚雷7本発射、3本命中により敵巡洋艦轟沈と認定。高角砲弾1発命中、機関部損傷、乗組員5名負傷 |
| 特記事項③ | 1942年12月21日〜、第四水雷戦隊旗艦に指定された時期がある |
| 最終結末 | 1943年3月5日23時頃、コロンバンガラ島クラ湾沖でビラ・スタンモーア夜戦が発生。米第68任務部隊(軽巡3・駆逐艦3)のレーダー射撃を受け、僚艦「峯雲」と共に被弾。村雨は艦尾から沈没。乗員245名中、生存者129名、戦死者116名 |
ロンドン海軍軍縮条約下に計画された初春型駆逐艦の後続艦として建造された一等駆逐艦。主要兵装と機関は初春型を踏襲したが、魚雷兵装は日本海軍初の四連装発射管を採用し、8射線を実現した。村雨は当初「有明型」3番艦として命名されたが、1934年11月の再編で白露型に類別された。竣工時は前期艦の角張った艦橋を持つ3番艦として、藤永田造船所で建造された。
- 1934年2月1日、藤永田造船所で起工。1935年6月20日進水。竣工当時は初春型駆逐艦の最新鋭艦として紹介されたこともあった。1937年1月7日、浦賀の3番艦村雨と佐世保の4番艦夕立が同日付で竣工。
- 司令・橘正雄大佐が座乗する第2駆逐隊(村雨・夕立・春雨・五月雨)の司令艦(第1小隊1番艦)として常に行動。
- 第2駆逐隊4隻が観艦式の第二列に配置。11月、第二艦隊・第四水雷戦隊に編入。
- 比島ビガン攻略作戦で敵機の銃撃を受け戦死者5名・負傷者9名。その後リンガエン湾上陸作戦、タラカン上陸作戦、バリックパパン攻略作戦(バリクパパン沖海戦)に参加。
- 戦闘後、四水戦は輸送船団を護衛して戦場を離脱。2月28日、村雨はオランダ病院船「オプテンノール」を臨検(第五戦隊記録では僚艦「夕立」の任務とも記載)。同船は後に日本軍に接収され「天応丸」と改名。
- 4月1日、四水戦旗艦「那珂」が米潜水艦シーウルフの雷撃で大破、旗艦は夏雲に変更。6月、ミッドウェー海戦に攻略部隊として出撃。7月17日、インド洋通商破壊作戦(B作戦)のためマレー半島メルギーへ進出。
- ガダルカナル島の戦い開始によりB作戦中止、トラック泊地へ向かう。8月24日以降の第二次ソロモン海戦では戦艦「陸奥」を護衛。
- 特設水上機母艦「國川丸」を護衛しブーゲンビル島ブイン飛行場建設の資材・設営隊を揚陸。9月10-19日、東方哨戒隊として行動。9月11日、撃墜した飛行艇搭乗員8名を捕虜とし、重巡「愛宕」(近藤信竹司令長官座乗)へ引き渡す。9月17-19日、特別奇襲隊としてヌデニ島へ向かうが敵影なし。
- 10月2日、駆逐艦5隻でガ島輸送成功。10月5日、急降下爆撃機の空襲で僚艦「峯雲」が至近弾被害、続いて村雨も至近弾で浸水、負傷者10数名、速力21ノットに低下し揚陸断念。
- 10月6日、トラック泊地で応急修理。「峯雲」は長期修理、「夏雲」は10月12日のサボ島沖海戦で沈没。
- 10月12日、四水戦旗艦が秋月に変更。村雨はショートランド泊地へ直行。10月17日、第2小隊(村雨・夕立・春雨・五月雨)として陸軍兵2159名・大砲18門の揚陸成功。軽巡「由良」が魚雷1本被弾(不発)も損害軽微。
- 第四水雷戦隊(朝雲・村雨・五月雨・夕立・春雨)が戦艦比叡・霧島の艦砲射撃を護衛してアイアンボトム・サウンドへ進入。スコールで陣形が乱れ、村雨・五月雨(旗艦朝雲に近接航行)と夕立・春雨(前方突出)の二群に分離。
- 米軍巡洋艦部隊の誤判断と夕立・春雨の単艦突入で第一夜戦が生起。五月雨を率いて朝雲に続行していた村雨は魚雷7本発射、3本命中により敵巡洋艦轟沈と認定。高角砲弾1発命中、機関部損傷、乗組員5名負傷。13日の比叡護衛、14日の第二夜戦には参加できず。
- 同海戦で夕立が単艦突入の末に航行不能、五月雨による処分後、米重巡の砲撃で沈没——第2駆逐隊初の戦没艦となった。
- 11月18日トラック帰投。11月21日、四水戦旗艦が長良に変更。28日、村雨・初雪はブイン基地の空母飛鷹航空隊撤収任務。12月、ウェワク攻略部隊の上空警戒のため第二航空戦隊(空母隼鷹)護衛部隊として派遣。12月21日、長良の内地帰投で四水戦旗艦が村雨に変更。
- 空母「冲鷹」護衛任務でカビエン経由トラック〜横須賀往復。整備・補修および対空火器換装(毘式四十粍機銃→九六式二十五粍高角機銃)を実施。1月24日、僚艦「春雨」が米潜水艦ワフーの雷撃で大破(10ヵ月近く戦線離脱)。1月28日、浦賀船渠に入渠。
- 横須賀回航後、高間完少将(旗艦村雨)指揮で空母冲鷹等を護衛しトラックへ。2月、日本海軍はガダルカナルから撤退(ケ号作戦)、ニュージョージア島ムンダに飛行場建設するが輸送船が空襲で被害、弾薬・糧食不足に陥る。
- 村雨・峯雲に緊急輸送命令、南東方面部隊編入。2月28日トラック出撃、3月2日ラバウル到着。3月3日コロンバンガラへ出撃するが輸送船団全滅で引き返し、ラバウル入港時に座礁。翌日夜明け前に離礁・入港。
- 3月4日夕刻、ドラム缶200本・弾薬糧食を満載し再出撃。同日、ビスマルク海海戦の生還者を収容した駆逐艦部隊もラバウルに帰着。
- 21時30分〜22時30分、コロンバンガラ島クラ湾で補給実施後、北上してショートランド泊地へ向かう。この行動はPBYカタリナ飛行艇に察知され、潜水艦2隻がクラ湾出口に配備されていた。
- アーロン・S・メリル少将指揮の米第68任務部隊(軽巡3隻・駆逐艦3隻)が22時57分にレーダー探知、23時1分射撃開始。レーダーのない村雨・峯雲は当初夜間空襲と誤認。種子島艦長は「対空戦闘」を下令後、敵艦隊と悟り「右砲戦」命令。
- まず峯雲が被弾炎上、続いて村雨も主砲・機関部を破壊され航行不能。艦尾から沈没。コロンバンガラ守備隊は北東方面で1隻が大爆発するのを目撃。アメリカ軍記録では峯雲は駆逐艦ウォーラーの魚雷で轟沈、村雨は巡洋艦3隻の砲撃で沈没。
- 村雨の乗員245名中、生存者129名、戦死者116名。峯雲は乗員255名中生存者45名、戦死者210名。大発動艇による救助の遅れで溺死者が増加。
- 輸送のため到着した駆逐艦部隊に分乗し、第2駆逐隊司令・種子島艦長以下生存者がラバウル経由で横須賀へ送還。第2駆逐隊司令は沈没原因を「敵巡洋艦3隻の砲撃とB-17十数機の空襲」と報告、レーダーへの厳重警戒を警告。
- ビスマルク海海戦で沈没した「時津風」たちと共に村雨の除籍が決定。第2駆逐隊・白露型・帝国駆逐艦籍のそれぞれから削除。
- 村雨喪失により第2駆逐隊残存艦は五月雨と大破修理中の春雨のみとなり、7月1日付で解隊。2隻は白露型2隻編制の第27駆逐隊(白露・時雨)に編入された。
しかし、わずか4ヵ月後のビラ・スタンモーア夜戦では、米軍のレーダー射撃によって、その夜戦の優位性が一夜で覆された。村雨と僚艦峯雲はレーダーを持たず、当初は砲撃を夜間空襲と誤認するほどだった。村雨は艦尾から沈没し、乗員245名のうち116名が戦死した。
村雨が残したものは、第三次ソロモン海戦の戦果だけではない。米軍のレーダー射撃という新たな脅威を、身をもって日本海軍に知らせた一艦としての記録こそが、この艦の最大の遺産である。
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第三次ソロモン海戦で轟沈を成し遂げた第2駆逐隊司令艦——村雨の物語を、その身に纏う。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・高松宮宣仁親王『高松宮日記』第6巻、中央公論社、1997年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・原為一『帝国海軍の最後』恒文社(復刻版)
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「村雨 (白露型駆逐艦)」「白露型駆逐艦」「ビラ・スタンモーア夜戦」
1943年3月5日午後11時1分、コロンバンガラ島クラ湾。輸送任務を終えて帰途にあった駆逐艦「村雨」と僚艦「峯雲」は、夜空からの砲撃を受けた。レーダーを持たない両艦は、最初それを夜間空襲だと思い込んだ。種子島洋二艦長が「対空戦闘」を命じた直後、敵艦隊だと悟り「右砲戦」を下令するも、もう遅かった。米軍3隻の巡洋艦は、レーダーで完全に村雨たちを捉えていた。
白露型駆逐艦3番艦・村雨は、第2駆逐隊(村雨・夕立・春雨・五月雨)の司令艦として、橘正雄大佐を座乗させ太平洋戦争を戦い続けた艦である。第三次ソロモン海戦では魚雷7本を発射し3本命中、敵巡洋艦轟沈と認定される戦果を上げた——夜戦における日本海軍の技術と度胸を象徴する一夜だった。
そして——その村雨を最後に沈めたのは、夜戦の闇に乗じた肉眼の戦いではなく、レーダーという新しい技術だった。日本海軍が「十八番」としてきた夜戦という戦闘形式そのものが、この一夜で時代から取り残されていくことになる。
1937年1月7日 竣工
34.0kt
(第2駆逐隊司令艦)
単装砲1基(計5門)
(計8射線)
(戦没時生存)
敵巡洋艦轟沈と認定
ビラ・スタンモーア夜戦でレーダー射撃を受け戦没
ロンドン海軍軍縮条約下に計画された初春型駆逐艦の後続艦として建造された一等駆逐艦。主要兵装と機関は初春型を踏襲したが、魚雷兵装は日本海軍初の四連装発射管を採用し、8射線を実現した。村雨は当初「有明型」3番艦として命名されたが、1934年11月の再編で白露型に類別された。竣工当時は初春型駆逐艦の最新鋭艦として紹介されたこともある。日本海軍の艦船としては春雨型駆逐艦「村雨」に続いて2隻目にあたる。
村雨は1934年2月1日、藤永田造船所で起工した。1935年6月20日に進水、1937年1月7日に竣工。竣工は浦賀の3番艦村雨と佐世保の4番艦夕立が同日付という巡り合わせだった。同年12月1日、第2駆逐隊(村雨・夕立・春雨・五月雨)が編成され、村雨は常に司令・橘正雄大佐が座乗する司令艦(第1小隊1番艦)として行動することになる。1940年10月、第2駆逐隊は紀元二千六百年特別観艦式に参加した。
8月7日のガダルカナル島の戦い開始により、インド洋通商破壊作戦「B作戦」は中止され、村雨はソロモン方面へ転戦した。10月5日、ガ島輸送中に急降下爆撃機の空襲を受け、村雨は至近弾による浸水で速力21ノットに低下し揚陸を断念。トラック泊地で応急修理後、戦線に復帰している。
11月12日、第四水雷戦隊(朝雲・村雨・五月雨・夕立・春雨)は、戦艦比叡・霧島によるヘンダーソン飛行場艦砲射撃を護衛してアイアンボトム・サウンドに進入した。スコールの中で陣形が乱れ、村雨・五月雨は旗艦朝雲に近接して航行する一群、夕立・春雨は前方に突出する一群に分離してしまう。米軍巡洋艦部隊の誤判断と、夕立・春雨の単艦突入により、第三次ソロモン海戦第一夜戦という大混戦が始まった。五月雨を率いて旗艦朝雲に続行していた村雨は魚雷7本を発射、3本命中により敵巡洋艦轟沈と認定された。だが村雨にも高角砲弾1発が命中し機関部が損傷、乗組員5名が負傷。この被害のため、13日の比叡護衛や14日の第二夜戦には参加できなかった。
同じ海戦で、春雨と分離した後も単艦で米艦隊に突入した「夕立」は損傷して航行不能となり、最終的に五月雨によって処分された後、米重巡洋艦の砲撃で沈没した——第2駆逐隊として初めての戦没艦だった。村雨は11月18日にトラックへ帰投し、その後12月にはニューギニア方面のウェワク攻略部隊支援にも従事している。
1943年2月、村雨は第四水雷戦隊旗艦として行動し、空母「冲鷹」の護衛任務に従事。横須賀での整備中には、対空火器を毘式四十粍機銃から九六式二十五粍高角機銃に換装している。同じ時期、僚艦「春雨」が米潜水艦ワフーの雷撃で大破し、10ヵ月近くの戦線離脱を余儀なくされていた。
2月、日本海軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)し、ニュージョージア島を防衛拠点とする方針に転換した。ムンダ飛行場建設のための輸送船3隻のうち1隻が沈没、1隻が炎上し、弾薬・糧食の不足という事態に陥る。トラック泊地にいた第2駆逐隊司令艦「村雨」と第9駆逐隊「峯雲」に緊急輸送命令が下り、2月28日トラックを出撃、ラバウル経由でコロンバンガラ島への輸送任務に就いた。
3月3日、村雨はコロンバンガラへ向け出撃するが、輸送船団全滅のため引き返し、ラバウル入港時に座礁する一幕もあった。離礁・入港できたのは翌日の夜明け前だった。3月4日夕刻、村雨・峯雲はドラム缶200本と弾薬糧食を上甲板に満載し、再びラバウルを出撃する。
3月5日午後9時30分から10時30分、村雨・峯雲はコロンバンガラ島クラ湾での補給を実施。帰途は北上してショートランド泊地へ向かう航路をとった。しかしこの行動はアメリカ軍に察知されており、PBYカタリナ飛行艇が偵察し、潜水艦2隻がクラ湾出口に配備されていた。アーロン・S・メリル少将指揮の第68任務部隊(軽巡3隻・駆逐艦3隻)は、レーダーで22時57分に目標を探知、23時1分に射撃を開始した。レーダーを持たない村雨・峯雲は当初、これを夜間空襲と誤認。種子島艦長が「対空戦闘」を命じた後、ようやく敵艦隊と悟って「右砲戦」を命じるが、まず峯雲が被弾炎上、続いて村雨も主砲・機関部を破壊され航行不能となった。村雨は艦尾から沈没した。コロンバンガラ島守備隊は、北東方面での海戦で1隻が大爆発するのを目撃している。
対空戦闘——そして「右砲戦、右80度、反航する敵艦に射撃開始」
種子島洋二駆逐艦長は、砲撃を受けた当初「対空戦闘」を下令し、続いて敵艦隊だと悟って砲戦を命じた。だが、その間にレーダーで照準を合わせた米艦隊の砲弾はすでに村雨を捉えていた。
——1943年3月5日23時頃、ビラ・スタンモーア夜戦にて。
村雨の乗員245名中、生存者は129名、戦死者は116名だった。僚艦「峯雲」は乗員255名中生存者45名、戦死者210名という、より深刻な被害を受けている。沈没時には多数の乗組員が生存していたが、大発動艇による救助が遅れたため溺死者が増えたという。同日、コロンバンガラ島守備隊もメリル隊の艦砲射撃で甚大な被害を受けており、救助に向かうまでに時間を要したことが一因だった。3月8日、輸送のため到着した駆逐艦部隊に分乗し、第2駆逐隊司令や種子島艦長以下の生存者はラバウルへ、その後横須賀へ送還された。
第2駆逐隊司令は、村雨・峯雲の沈没原因を「敵巡洋艦3隻の砲撃と、B-17十数機の空襲」と報告し、レーダーへの厳重警戒を警告した。だがこの夜戦こそが、日本側がレーダーの実戦的威力を初めて痛感させられた戦闘でもあった。4月1日、ビスマルク海海戦で沈没した「時津風」たちと共に、村雨は第2駆逐隊・白露型・帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。村雨の喪失により、第2駆逐隊の残存艦は五月雨と大破修理中の春雨のみとなり、7月1日付で同隊は解隊。2隻は白露型2隻編制だった第27駆逐隊(白露・時雨)に編入された。
最初、村雨と峯雲は砲撃を「夜間空襲」と誤認した。これは決して油断ではなく、レーダー射撃という戦術そのものが、それまでの日本海軍の常識の外側にあったことを示している。種子島艦長の対応は速やかだったが、それでも間に合わなかった。
村雨が残したものは、第三次ソロモン海戦での戦果だけではない。米軍のレーダー射撃という新たな脅威を、身をもって日本海軍に知らせた一艦としての記録こそが、この艦の最大の遺産なのかもしれない。
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第三次ソロモン海戦で轟沈を成し遂げた第2駆逐隊司令艦——村雨の物語を、その身に纏う。
「夜戦の十八番が時代に追い越された夜——村雨、レーダーに沈んだ艦」
SHOP を見る →■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・高松宮宣仁親王『高松宮日記』第6巻、中央公論社、1997年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・原為一『帝国海軍の最後』恒文社(復刻版)
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「村雨 (白露型駆逐艦)」「白露型駆逐艦」「ビラ・スタンモーア夜戦」
1937年竣工、白露型駆逐艦7番艦(改白露型)。「山風」「江風」「涼風」と第24駆逐隊を編制。蘭印作戦からガダルカナル輸送まで、太平洋戦争を通じて一度も敵艦を撃沈することなく輸送・護衛任務に専従した。1944年2月、改白露型最後の生存艦としてトラック泊地北水道で米潜水艦の雷撃を受け戦没した。
単装砲1基(計5門)
(計8射線)
| 艦名 | 海風(うみかぜ) |
| 艦型・番艦 | 白露型(一等駆逐艦)7番艦(改白露型・海風型1番艦、公式分類は白露型) |
| 艦名の由来 | 海風型駆逐艦(初代)「海風」に続き2隻目 |
| 建造所 | 舞鶴工廠 |
| 起工日 | 1935年(昭和10年)5月4日(第四艦隊事件で一時中止、1936年5月再開) |
| 進水日 | 1936年(昭和11年)11月27日 |
| 竣工日 | 1937年(昭和12年)5月31日 |
| 除籍日 | 1944年(昭和19年)3月31日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 全長 | 111.0m(改白露型は艦橋大型化のため前期型よりやや長いとされる) |
| 全幅 | 9.9m(白露型標準値) |
| 機関 | 艦本式タービン2基2軸、艦本式重油専焼缶3基、出力42,000馬力 |
| 速力 | 34.0kt(公試では35kt前後を発揮) |
| 航続距離 | 4,000海里/18kt(計画値、実績は5,000海里前後) |
| 乗員 | 226名(白露型標準値) |
| 主砲 | 50口径三年式12.7cm連装砲2基・単装砲1基:計5門 |
| 魚雷発射管 | 61cm4連装水上発射管:2基(計8射線、日本初の四連装発射管採用) |
| 対空機銃(竣工時) | 13mm連装機銃2基(改白露型は前期型の40mm単装機銃2挺から変更) |
| 所属駆逐隊履歴 | 第24駆逐隊(海風・江風、1937年5月〜山風・涼風編入で4隻、1937年8月)→第四水雷戦隊(1940年11月〜)→第二水雷戦隊(1942年7月〜) |
| 主要艦長履歴 | 成富武光少佐(初代、1937年4月15日〜)/渡邉保正少佐(1938年12月15日〜)/飛田健二郎少佐(1939年10月15日〜、後に雪風艦長)/清水逸郎中佐(1941年7月25日〜)/杉谷永秀中佐(1942年4月27日〜)/三舩俊郎中佐(1943年2月13日〜)/中尾小太郎少佐(戦没時艦長、沈没前に脱出し生還、後に秋霜艦長) |
| 特記事項① | 1942年2〜3月、スラバヤ沖海戦には輸送船団護衛のため参加せず |
| 特記事項② | 1942年11月18日、ブナ輸送中にB-17の爆撃を受け大破・航行不能。「朝潮」に曳航されラバウルへ |
| 特記事項③ | 1943年5月8日、第15駆逐隊(親潮・黒潮・陽炎)の触雷沈没現場へ僚艦「萩風」と共に救援に向かう |
| 特記事項④ | 太平洋戦争を通じて、改白露型4隻の中で唯一敵艦を1隻も撃沈しなかった。主に輸送・護衛任務に従事 |
| 最終結末 | 1944年2月1日、トラック泊地北水道付近で米潜水艦「ガードフィッシュ」の雷撃を受け沈没。乗員約50名が艦と運命を共にした。改白露型(海風型)4隻すべて喪失 |
第二次軍備補充計画(②計画)で計画された白露型の後期4隻(海風・山風・江風・涼風)は、第四艦隊事件の影響で船体構造の設計が若干改められ「改白露型」(海風型)と呼ばれる。最大の特徴は艦橋形状の変更で、海風建造時に実物大模型を製作して決定されたこの形状は、後の朝潮型・陽炎型にも引き継がれた。対空機銃は前期型の40mm単装機銃から13mm連装機銃へ変更されている。
- 第四艦隊事件のため一時工事中止、1936年5月より再開。11月27日進水。12月1日、成富武光少佐を艤装員長に任命。
- 1937年4月9日、若狭湾で全力公試実施、試運転中に冠島と衝突しかける。4月15日、成富艤装員長が初代艦長に。5月31日竣工。
- 海風型2隻(海風・江風)で第24駆逐隊編成(司令久宗米次郎大佐、司令駆逐艦は江風)。姉妹艦(山風・涼風)も順次編入され、改白露型4隻が揃う。
- 陸軍上陸作戦・対地支援砲撃中、中華民国軍の空襲を受け至近弾で軽傷者1名。以後、陸軍兵輸送・陸戦隊派遣・対地砲撃支援・掃海作業に従事。
- 11月、第24駆逐隊は第二艦隊・第四水雷戦隊(西村祥治少将、旗艦那珂)に編入。1941年7月25日、飛田健二郎艦長が雪風艦長へ転任、清水逸郎中佐が後任。
- 比島部隊・蘭印部隊として、レガスピー上陸作戦、ラモン湾上陸作戦に従事。1942年1月から蘭印作戦に加わり、タラカン・バリックパパン・マカッサル・ジャワ・パナイ島の各攻略作戦に参加。
- マカッサル攻略作戦に従事(攻略は成功)。2月下旬のスラバヤ沖海戦では、第四水雷戦隊の他艦が活躍する中、海風と朝潮型「夏雲」は輸送船団護衛のため戦闘に参加せず。
- 4月10日、第24駆逐隊は第一水雷戦隊(大森仙太郎少将、旗艦阿武隈)に編入。4月27日、艦長が清水中佐から白露艦長・杉谷永秀中佐に交代。4月30日、警戒部隊編入。6月上旬、ミッドウェー海戦で主力部隊の護衛に従事。
- 東京湾沖で米潜水艦ノーチラスの雷撃により山風が撃沈、改白露型最初の喪失艦となる。第24駆逐隊は3隻(海風・江風・涼風)編制に。
- 7月14日、第二水雷戦隊(田中頼三少将、旗艦神通)に編入。8月7日、連合軍のウォッチタワー作戦発動でガダルカナル島の戦い開始。8月11日、村上暢之助大佐指揮の第24駆逐隊(海風・江風・涼風)が横須賀出港。
- 8月17日、一木支隊第二梯団輸送船3隻護衛を命じられる。8月19日、僚艦江風が任務交代し米駆逐艦ブルーを撃沈(海風は不参加)。
- 8月25日午前6時、海風以下輸送船団が空襲を受け、駆逐艦「睦月」と輸送船「金龍丸」沈没、「神通」炎上戦闘不能。26日夕刻、燃料不足の海風は陽炎と共にショートランド泊地へ先行。
- 9月14日、奇襲隊として川内・海風・江風等がガ島へ向かうが、ヘンダーソン飛行場未占領で川内は帰投、駆逐艦部隊のみ揚陸実施。9月18日、有賀幸作司令指揮下の駆逐艦4隻(嵐・海風・江風・涼風)が輸送を成功。
- 9月24日、中原中佐座乗の海風含む4隻が夜間空襲を受け揚陸断念、海風は浦風と共に小破。9月26日、第24駆逐隊は外南洋部隊から除かれ前進部隊に復帰。
- 第二水雷戦隊として第三戦隊(金剛・榛名)を護衛しトラック出撃。10月13-14日深夜、ヘンダーソン基地艦砲射撃を実施する第三戦隊の直衛を担当。
- 11月6日深夜、甲増援隊として出撃、空襲で僚艦2隻が若干損傷。11月13日以降、輸送船11隻護衛でガ島へ向かうが米軍機の波状攻撃で6隻沈没・1隻大破。11月15日、座礁揚陸を強行した輸送船4隻も全滅。
- 前進部隊復帰後、12月26日ラバウル出発、トラック経由で重巡「摩耶」護衛で横須賀へ。1943年1月6日横須賀着、9日佐世保で修理開始。2月13日、艦長が杉谷中佐から三舩俊郎中佐に交代。2月下旬修理完了。
- 江風が衝突事故で修理中のため、稼働艦は海風のみとなり司令駆逐艦が涼風から海風に変更。3月、輸送船団護衛・訓練に従事。4月11-12日、第15駆逐隊と対潜掃蕩作戦。
- 5月10日、前進部隊復帰。5月17日、戦艦武蔵(山本五十六長官遺骨帰還)等を護衛しトラック出発、22日横須賀着。5月24日、空母冲鷹・雲鷹等を護衛し横須賀発、29日トラック着。6月5-10日、ポナペ〜ナウルの陸戦隊輸送。7月8日、24駆司令が中原大佐から久保田智大佐に交代。
- 二水戦旗艦「神通」沈没、伊崎俊二少将以下司令部全員戦死。第四水雷戦隊を解隊し新たな第二水雷戦隊を編成。海風は7月19日トラック出発、空母護衛で横須賀へ、佐世保で7月25日より修理・レーダー装備。8月15日修理完了、24駆司令駆逐艦も「海風」に変更。
- 戦艦大和・長門・扶桑、空母大鷹、巡洋艦愛宕・高雄・能代等と共に呉出撃、23日トラック進出。8月25日、第24駆逐隊(海風・涼風)は那珂・高雄を護衛しラバウルへの輸送作戦に従事。
- 8月6日、ベラ湾夜戦で「江風」戦没。後日、第8駆逐隊唯一の生存艦「満潮」が第24駆逐隊に追加編入される。1944年1月25日、ポナペ島北東で「涼風」が米潜水艦の雷撃により戦没。改白露型は海風のみとなる。
- 涼風の戦没から8日後、海風はトラック泊地北水道付近で米潜水艦「ガードフィッシュ」の雷撃に遭う。
- 乗員約50名が艦と運命を共にした。艦長・中尾小太郎少佐は沈む前に脱出し生還、後に秋霜艦長に着任。同泊地停泊中の駆逐艦2隻(島風・白露)が現場に向かい対潜掃蕩を実施。
- 2月10日、久保田大佐(24駆司令)は横須賀鎮守府附となり司令職を離れる(後日、軽巡名取艦長として名取沈没時に戦死)。3月31日、海風は白露型・帝国駆逐艦籍から除籍。改白露型4隻(海風・江風・山風・涼風)すべて沈没により、第24駆逐隊は第16駆逐隊と共に同日解隊。
それでも、山風・江風・涼風がそれぞれ戦没していく中、海風は改白露型4隻の中で最後まで生き残った艦だった。しかし1944年2月、その「最後の生存艦」という立場も、トラック泊地近海での米潜水艦の雷撃によって終わりを迎える。
海風が残したものは、撃沈数のゼロという記録そのものだ。それは、戦争という記録の中で目立たない任務を黙々と続けた、多くの艦と兵士たちの存在を象徴している。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書29『北東方面海軍作戦』朝雲新聞社
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書46『中部太平洋方面海軍作戦』朝雲新聞社
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書49『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1971年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・宇垣纏『戦藻録』原書房、1968年
- ・高松宮宣仁親王『高松宮日記』中央公論社
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「海風 (白露型駆逐艦)」「白露型駆逐艦」
1944年2月1日、トラック泊地北水道。改白露型(海風型)4隻の最後の生き残りとなっていた駆逐艦「海風」は、米潜水艦「ガードフィッシュ」の魚雷を受けた。乗員約50名が艦と運命を共にした。これで山風、江風、涼風と続いた喪失劇が完結し、改白露型4隻はすべて海に消えたことになる。艦長・中尾小太郎少佐は沈む前に脱出し、生き延びた。
白露型駆逐艦7番艦・海風は、海風・山風・江風・涼風の4隻からなる「改白露型」(海風型)のネームシップ的存在である。第24駆逐隊として太平洋戦争のほぼ全期間、フィリピン攻略戦から蘭印作戦、ガダルカナル輸送、ニュージョージア方面輸送と、地味だが過酷な任務を背負い続けた。
そして——海風には、他の改白露型3隻にはない特徴がある。山風はノーチラスに撃沈され、江風はベラ湾夜戦で沈み、涼風も雷撃で失われたが、いずれも一度は敵艦と砲火を交えた経験を持っていた。しかし海風は、太平洋戦争を通じて一度も敵艦を撃沈することなく、輸送と護衛の任務に従事し続けた艦だった。中破・大破を繰り返しながらも生き延び、最後は改白露型唯一の生存艦として戦い続けた末に、トラック泊地の近海で力尽きることになる。
1937年5月31日 竣工
34.0kt
(改白露型・海風型1番艦)
単装砲1基(計5門)
(計8射線)
(海風・山風・江風・涼風)
(輸送・護衛に専従)
トラック泊地北水道で米潜水艦の雷撃により戦没
第二次軍備補充計画(②計画)で計画された白露型の後期4隻(海風・山風・江風・涼風)は、第四艦隊事件の影響で船体構造の設計が若干改められ、「改白露型」または「海風型」と呼ばれる。最大の外観的特徴は艦橋形状の変更で、海風建造時に実物大模型を製作して決定されたこの形状は、後の朝潮型・陽炎型にも引き継がれた。帝国海軍の公式分類では白露型の一艦だが、改設計の最初の艦として、海風は改白露型1番艦とされることもある。日本海軍の艦船としては海風型駆逐艦(初代)「海風」に続いて2隻目にあたる。
海風は1935年5月4日、舞鶴工廠で起工した。第四艦隊事件のため一時工事を中断し、1936年5月から再開。11月27日に進水、1937年4月15日には成富武光少佐が初代艦長となり、5月31日に竣工した。竣工と同日、海風型2隻(海風・江風)により第24駆逐隊が編制される。司令駆逐艦は「江風」に指定されたが、姉妹艦(山風・涼風)も順次編入され、海風型4隻が揃った。
太平洋戦争開戦時、第24駆逐隊(海風・江風・山風・涼風)は第四水雷戦隊として比島部隊(後の蘭印部隊)に所属。レガスピー上陸作戦、ラモン湾上陸作戦に従事した後、1942年1月からは蘭印作戦に加わり、タラカン・バリックパパン・マカッサル・ジャワ島およびスラバヤ・パナイ島の各攻略作戦に参加した。
2月下旬のスラバヤ沖海戦では、第四水雷戦隊の他艦が活躍する中、「海風」と朝潮型「夏雲」は輸送船団護衛を命じられたため、戦闘に参加していない。改白露型の僚艦たちがその後何らかの戦果や激戦を経験していく中、海風だけはこの記念碑的な海戦から外れていた。これは、海風という艦の艦歴を象徴する最初の出来事だった。
6月、ミッドウェー海戦では主力部隊の護衛に従事。日本本土帰投直後の6月23日、姉妹艦「山風」が東京湾沖で米潜水艦ノーチラスの雷撃により撃沈され、改白露型最初の喪失艦となった。第24駆逐隊は3隻(海風・江風・涼風)編制となり、7月14日には第二水雷戦隊(田中頼三少将、旗艦神通)に編入される。
9月2日、村上暢之助大佐は24駆司令を解任され、後任は夕立初代駆逐艦長・中原義一郎中佐となった。9月7日、9日、11日、13日と、海風は輸送・対地砲撃・偵察任務を繰り返し従事する。9月9日には敵輸送船団発見の報を受けてガ島へ突入したが、輸送船団は存在せず哨戒艇1隻撃破にとどまった。9月24日、第24駆逐隊司令・中原中佐座乗の海風を含む輸送隊は、米軍機の夜間空襲を受け揚陸を断念。この戦闘で海風は陽炎型「浦風」と共に小破した。
11月18日、ブナおよびラエへの輸送作戦中、海風はB-17の爆撃を受けて大破、航行不能となった。駆逐艦「朝潮」に曳航されてラバウルに戻る。これは海風が経験した最大級の損害だった。応急修理の後、12月末にトラック泊地経由で横須賀へ戻り、1943年1月から本格修理に入った。
1943年5月8日、コロンバンガラ輸送のため出撃していた第15駆逐隊(親潮・黒潮・陽炎)が機雷と空襲で3隻とも沈没する事態が発生した。輸送任務を終え帰投中だった海風と僚艦「萩風」は、まだ沈んでいなかった親潮・陽炎の救援のために反転し、触雷を覚悟して現場を捜索した。結局、舟艇でやってきた陽炎の士官から3隻の沈没と生存者陸上収容を知らされ、ラバウルに帰投している。前年に大破した自艦の経験が、僚艦救援への躊躇のない反転判断につながったのかもしれない。
1943年8月、海風は主力部隊(戦艦大和・長門・扶桑、空母大鷹、巡洋艦愛宕・高雄・能代)と共に呉を出撃しトラックへ進出。トラック到着後、24駆司令駆逐艦は「海風」に変更された。だが姉妹艦の喪失は止まらなかった。8月6日、ベラ湾夜戦で「江風」が沈没。1944年1月25日、ポナペ島北東で「涼風」が米潜水艦の雷撃により沈没。残る改白露型は海風1隻となった。
涼風喪失からわずか8日後の2月1日、海風はトラック泊地北水道付近で米潜水艦「ガードフィッシュ」の雷撃に遭い沈没した。乗員約50名が艦と運命を共にした。艦長・中尾小太郎少佐は沈む前に脱出し、運良く生き延びて、後に秋霜の艦長に着任している。この沈没により、改白露型(海風型)4隻はすべて姿を消したことになる。
海風の艦歴を特徴づけるのは、撃沈数ではなく、その不在だ。山風・江風・涼風がそれぞれ何らかの戦果を挙げる機会を経験した中、海風は太平洋戦争を通じて敵艦を1隻も沈めることがなかった。主に輸送任務に従事し、激しい対空戦闘を何度も経験して中破・大破を繰り返した「苦労艦」でありながら、戦果という形では何も残せなかった艦である。それでも、改白露型4隻の中で最後まで生き残ったのは海風だった。トラック北水道での沈没は、まさにその「最後の生存艦」としての立場の末に訪れた結末だった。
僚艦・親潮・陽炎の沈没現場へ躊躇なく反転した判断、ブナ輸送で受けた大破を乗り越えた経験——海風は派手な戦果を残さなかったが、地味な任務をひたすら遂行し続けた艦だった。改白露型4隻の中で最後まで生き残ったという事実は、この艦の本質的な堅実さを物語っている。
海風が残したものは、撃沈数のゼロという記録そのものだ。それは、戦争の中で目立たない仕事を黙々と続けた、多くの艦と兵士たちの存在を象徴している。
■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書26『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書29『北東方面海軍作戦』朝雲新聞社
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書46『中部太平洋方面海軍作戦』朝雲新聞社
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書49『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1971年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・宇垣纏『戦藻録』原書房、1968年
- ・高松宮宣仁親王『高松宮日記』中央公論社
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「海風 (白露型駆逐艦)」「白露型駆逐艦」
1936年竣工、白露型駆逐艦2番艦。珊瑚海海戦からマリアナ沖海戦まで太平洋戦争のほぼ全期間を生き抜き、ベラ湾夜戦・ブーゲンビル島沖海戦で度々唯一の生還艦となった。レイテ沖海戦のスリガオ海峡海戦では西村艦隊が壊滅する中でただ一隻生還。1945年1月、マレー半島近海で米潜水艦の雷撃を受け戦没した。
単装砲1基(計5門)
(計8射線)
| 艦名 | 時雨(しぐれ) |
| 艦型・番艦 | 白露型(一等駆逐艦)2番艦 |
| 艦名の由来 | 神風型駆逐艦(初代)「時雨」に続き2隻目 |
| 建造所 | 浦賀船渠 |
| 起工日 | 1933年(昭和8年)12月15日(有明型3番艦として命名時点) |
| 竣工日 | 1936年(昭和11年)9月7日 |
| 除籍日 | 1945年(昭和20年)3月10日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 全長 | 111.0m(白露型標準値) |
| 全幅 | 9.9m(白露型標準値) |
| 機関 | 艦本式タービン2基2軸、艦本式重油専焼缶3基、出力42,000馬力 |
| 速力 | 34.0kt(公試では35kt前後を発揮) |
| 航続距離 | 4,000海里/18kt(計画値、実績は5,000海里前後) |
| 乗員 | 226名(白露型標準値) |
| 主砲 | 50口径三年式12.7cm連装砲2基・単装砲1基:計5門(初期。後にC型連装砲へ統一する艦も) |
| 魚雷発射管 | 61cm4連装水上発射管:2基(計8射線、日本初の四連装発射管採用) |
| 搭載魚雷 | 九〇式魚雷(開戦前に九三式酸素魚雷へ改造)、本数は時期により12〜14本 |
| 機銃(最終) | 九六式25mm機銃複数基(戦況悪化に伴い順次増設、搭載艇の一部を降ろして増設) |
| 所属駆逐隊履歴 | 第27駆逐隊(白露・時雨、1936年〜)→白露型4隻編制(白露・時雨・五月雨・春雨、1943年11月〜)→第27駆逐隊解隊(1944年10月10日)→西村艦隊配属(所属不明扱い)→第21駆逐隊(1944年11月15日〜) |
| 主要艦長履歴 | 西野繁中佐(レイテ沖海戦時の艦長) |
| 特記事項① | 1942年8〜10月、ガダルカナル島輸送に10回従事。サボ島沖海戦戦没艦「吹雪」の生存者231名を救助 |
| 特記事項② | 1943年7月、ベラ湾夜戦で参加4隻中3隻(新月・萩風・江風)が沈没する中、単艦で生還 |
| 特記事項③ | 1943年11月、ブーゲンビル島沖海戦で僚艦が次々と損傷・沈没する大混戦の中、唯一無傷で帰投 |
| 特記事項④ | 1944年10月25日、レイテ沖海戦・スリガオ海峡海戦で西村艦隊(戦艦山城・扶桑、駆逐艦多数)が壊滅する中、時雨だけが生還 |
| 最終結末 | 1945年1月24日午前7時5分、マレー半島東岸タイランド湾でヒ87A船団護衛中、米潜水艦ブラックフィンの雷撃を受ける。左舷後部に魚雷1本命中、7時15分に艦体分断・沈没。戦死38名、重軽傷17名 |
ロンドン海軍軍縮条約下に計画された初春型駆逐艦の後続艦として建造された一等駆逐艦。主要兵装と機関は初春型を踏襲したが、魚雷兵装は日本海軍初の四連装発射管を採用し、8射線を実現した。前期艦6隻(白露・時雨・村雨・夕立・春雨・五月雨)は完成後に船体を補強、後期艦4隻(海風・山風・江風・涼風)は建造時点で対策を施した「改白露型」(海風型)として区別される。時雨は前期艦の角張った艦橋を持つ2番艦として、浦賀船渠で建造された。
- 初春型から外れた「有明」「夕暮」と共に建造中の有明型3隻に「白露」「時雨」「村雨」と命名。1934年11月19日、白露型として新設、白露がネームシップとなる。1936年9月7日竣工。
- 竣工直後、昭和天皇御召艦「比叡」の供奉艦に指定(白露と共に)。1938年、第27駆逐隊(白露・時雨と初春型有明・夕暮の混成部隊)編成。
- 第27駆逐隊は第1艦隊第1水雷戦隊(旗艦阿武隈)に所属。山本五十六長官座乗の戦艦長門・陸奥等と共に小笠原近海まで進出。
- 1月中旬、白露と共に第九戦隊(軽巡大井・北上)の指揮下で台湾方面輸送船団を護衛。5月、珊瑚海海戦に参加。6月、ミッドウェー海戦に途中まで出撃。
- 米軍によるマキン奇襲上陸を受け、白露・時雨が陸戦隊増援としてトラックから出撃。8月21日マキン着、陸戦隊上陸。9月2日、アパママを占領。
- 白露と共にガダルカナル島輸送作戦に7〜10回従事。10月12日、サボ島沖海戦戦没艦「吹雪」の乗組員8名を含む231名を増援部隊で救助。
- 10月17日、村雨と共に揚陸作戦中の哨戒を担当後、ヘンダーソン飛行場へ艦砲射撃(時雨の発射弾数100発)。
- 10月25日、甲増援隊(時雨・有明)で輸送予定も由良沈没で中止。10月29日、時雨・有明でガ島輸送、米軍機・魚雷艇と交戦(魚雷艇2隻撃沈報告)。11月1-5日、甲増援隊でガ島輸送を継続、成功。
- 時雨ら第27駆逐隊が比叡・霧島を護衛。比叡救援中、時雨は機銃掃射で軽微な損傷(戦死1名)。
- 比叡の雷撃処分命令が出されるが、発射直前に連合艦隊の指示で中止。比叡は自沈し、第27駆逐隊はトラックへ帰投。
- 12月、空母龍鳳の護衛に時雨・朝雲が指定され輸送任務に従事。1943年1月、ガダルカナル撤退作戦(ケ号作戦)に参加。各地への輸送任務を継続。
- 第二駆逐隊解隊、第四水雷戦隊で第27駆逐隊が1番隊に。長良・時雨で第二航空戦隊(隼鷹・龍鳳)飛行隊要員のマーシャル諸島撤収・ラバウル輸送に従事。長良触雷後、時雨単艦でブカ輸送を実施。
- 参加した日本側駆逐艦4隻のうち「新月」「萩風」「江風」が相次いで撃沈される中、時雨だけが生還した。
- 第一次・第二次ベララベラ海戦に参加、敵艦攻撃を報告。新たに第27駆逐隊に編入された五月雨と共に、米ポーター級駆逐艦「セルフリッジ」を撃破する戦果を収める。
- 三水戦旗艦「川内」沈没、僚艦「五月雨」「白露」が衝突、重巡「妙高」と駆逐艦「初風」も激突し初風沈没、「羽黒」も損傷。時雨はただ一隻、無傷でこの海戦を突破。
- この頃、第二水雷戦隊司令部が「神通」沈没で全滅、第四水雷戦隊が解隊・第二水雷戦隊へ統合される中、「呉の雪風、佐世保の時雨」という評価が確立。天皇への報告もされたという。
- 12月10-26日、第四水雷戦隊が空母龍鳳の護衛に時雨・朝雲を指定。1944年1〜2月、輸送任務を継続。2月、トラック島空襲で損傷し佐世保で修理。
- 補給部隊護衛に従事。6月20日の空襲では空母「龍鳳」の護衛に就き、龍鳳へ向かうTBFアベンジャーを砲撃して阻止、魚雷2本を艦尾至近距離で回避。空襲後、被害を受けた空母「飛鷹」の救援に向かうが飛鷹は沈没。7月16日、リンガ泊地入港。
- ビアク島増援のため陸軍部隊を載せた駆逐艦6隻とソロンを出発。8日、ビアク島北西で米艦隊と交戦し2隻が小破、増援作戦は中止。19日、マリアナ沖海戦に参加し佐世保へ帰投・修理。
- パラオ輸送の第16戦隊を護衛。白露(6月15日戦没)・五月雨(8月26日戦没)・春雨(6月8日戦没)の相次ぐ喪失により、10月10日、第27駆逐隊は解隊。時雨は所属不明のまま西村艦隊に配備された。
- 10月21日ブルネイ湾到着、西野繁艦長は戦艦山城で西村祥治中将から作戦説明を受ける。10月22日午後、艦隊出撃。
- 10月24日の空襲で第一砲塔に直撃弾を受けるが不発で無傷。10月25日、スリガオ海峡海戦に突入。戦艦「扶桑」が魚雷4本を受け落伍、「山雲」轟沈、「朝雲」「満潮」が艦首損傷で大破。
- 時雨は山城・最上と共に突撃するが、山城も大炎上、最上にも砲撃集中。時雨を除く僚艦はみな大損害。艦尾に砲弾1発命中・燃料タンク貫通も不発。第27駆逐隊の仲間がすべて沈み艦隊全滅の中、時雨は孤軍で戦場を脱した。
- 空母隼鷹・駆逐艦夕月・卯月、重巡利根を護衛しマニラ出港。翌13日、マニラが米機動部隊空襲で壊滅的被害(時雨は難を逃れる)。15日、米潜水艦バーブの雷撃(不命中)。同日、第1水雷戦隊・第21駆逐隊(初霜)に編入。16日佐世保入港、修理。20日、第一水雷戦隊解隊、第二水雷戦隊に編入。
- 米潜水艦グロウラーを撃破する一方、油槽船「萬栄丸」を喪失。空母「雲龍」が魚雷で沈没(桜花30機海没)。12月下旬から「ヒ87船団」の護衛を第17駆逐隊と共に担当。
- ヒ87A船団の輸送船「さらわく丸」を護衛中、タイランド湾のマレー半島東岸で米潜水艦「ブラックフィン」とベスゴの攻撃を受ける。電探と目視の潜水艦を混同し、転舵がブラックフィンに好機を与える。
- 7時4分、魚雷を回避するも、7時5分に左舷後部に魚雷1本命中。7時10分に総員退去、7時15分に艦体分断・沈没。戦死38名(資料によっては37名)、重軽傷17名。沈没地点:北緯06度00分・東経103度45分。
- 時雨の戦没をもって、白露型駆逐艦10隻すべてが太平洋戦争中に戦没した。残骸はマレー半島コタバル東方150km、水深55mに沈み、艦体は二分(艦首は右舷に横転、艦尾は正立)した状態で発見されている。
しかし、その幸運も無限ではなかった。最後は壮絶な海戦の中ではなく、輸送船団護衛という地味な任務の最中、潜水艦識別の混同という人間的な判断のずれが、致命的な結果につながった。時雨の戦没をもって、白露型駆逐艦10隻すべてが太平洋戦争中に姿を消したことになる。
時雨が残したものは、撃沈数ではなく、生き延びるということそのものの価値である。
■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書62『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』朝雲新聞社
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
- ・サミュエル・E・モリソン著、大谷内一夫訳『モリソンの太平洋海戦史』光人社、2003年
- ・宇垣纏『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・遠藤昭・原進『駆逐艦戦隊』朝日ソノラマ、1994年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「時雨 (白露型駆逐艦)」「白露型駆逐艦」
1944年10月25日未明、スリガオ海峡。西村祥治中将率いる第一遊撃部隊第三部隊は、米艦隊の待ち伏せの中で壊滅していった。戦艦「山城」「扶桑」が相次いで撃沈され、駆逐艦「山雲」が轟沈、「朝雲」「満潮」が大破。この海戦で生還した日本側の艦は、駆逐艦「時雨」一隻だけだった。艦尾に砲弾1発が命中し燃料タンクを貫通したが、不発だった。
白露型駆逐艦2番艦・時雨は、太平洋戦争のほぼ全期間を生き抜いた艦である。珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島への鼠輸送10回、第三次ソロモン海戦、ベラ湾夜戦、第一次・第二次ベララベラ海戦、ブーゲンビル島沖海戦、マリアナ沖海戦——そのいずれにおいても、時雨は決定的な損害を受けることなく戦場を生き延びてきた。米海軍史研究者サミュエル・モリソンは、自著の中で時雨を「幸運艦」「不滅艦」と評している。
そして——その時雨の幸運も、永遠には続かなかった。レイテ沖海戦で西村艦隊唯一の生還艦となった3ヵ月後、時雨はマレー半島近海で、米潜水艦の魚雷一発によってその生涯を終える。「呉の雪風、佐世保の時雨」と並び称された武勲艦の最期は、決して劇的な海戦の中ではなく、輸送船団護衛という日常的な任務の最中に訪れた。
34.0kt
(前期型・角型艦橋)
単装砲1基(計5門)
(日本初の四連装、計8射線)
(白露・時雨ら)
西村艦隊唯一の生還艦
マレー半島近海で米潜水艦の雷撃により戦没
ロンドン軍縮条約下に計画された初春型駆逐艦の後続艦として建造された一等駆逐艦。主要兵装と機関は初春型を踏襲したが、魚雷兵装は日本海軍として初めて四連装発射管を採用し、用兵側の要望した8射線を実現した。船体強度に関しては、完成後に補強した前期艦6隻(白露・時雨・村雨・夕立・春雨・五月雨)と、建造時点で対策を施した後期艦4隻(海風・山風・江風・涼風)に分かれる。時雨は前期艦の角張った艦橋を持つ2番艦として竣工した。
時雨は1936年9月7日に竣工し、第27駆逐隊(白露・時雨)に編入された。1938年、初春型「有明」「夕暮」と混成部隊を組み、太平洋戦争開戦時には第1艦隊第1水雷戦隊(旗艦阿武隈)に所属して柱島泊地に所在していた。1942年1月中旬、白露と共に第九戦隊(軽巡大井・北上)の指揮下で台湾方面への輸送船団を護衛。5月の珊瑚海海戦、6月のミッドウェー海戦(途中まで出撃)と、開戦劈頭の主要作戦をくぐり抜けていく。
11月12日、時雨ら第27駆逐隊は戦艦「比叡」「霧島」の護衛任務に就いた。比叡救援中、時雨は機銃掃射で軽微な損傷を受け1名が戦死。比叡の雷撃処分が命じられたが、連合艦隊の指示で中止された。比叡は結局自沈し、第27駆逐隊はトラックへ帰投した。この出撃で時雨が経験したのは、艦そのものへの直接攻撃ではなく、味方の戦艦を見送るという別の種類の重さだった。
1943年に入っても、時雨の任務は途切れなかった。1月、ガダルカナル撤退作戦(ケ号作戦)に参加。7月には、ラバウル輸送作戦、ブカ輸送作戦、コロンバンガラ輸送作戦と、激戦地への輸送任務が立て続けに続く。そして7月、時雨の「幸運艦」としての評価を決定づける一夜が訪れる。
11月、ブーゲンビル島沖海戦に参加。三水戦旗艦「川内」が沈没し、僚艦「五月雨」「白露」が衝突、重巡「妙高」と駆逐艦「初風」も激突、初風が沈没、「羽黒」も損傷するという大混戦の中、時雨はただ一隻、無傷でこの海戦を突破した。この頃、時雨は雪風と並び称される存在として、その活躍が天皇にも報告されたという。
1944年に入っても、時雨は輸送・護衛任務を続けた。2月、トラック島空襲で損傷し佐世保で修理。6月、マリアナ沖海戦では補給部隊の護衛に従事し、20日の空襲では空母「龍鳳」の護衛に就き、龍鳳へ向かうTBFアベンジャーを砲撃して阻止、さらに魚雷2本を艦尾至近距離で回避した。空襲終了後、被害を受けた空母「飛鷹」の救援に向かったが、飛鷹は沈没している。
1944年10月10日、白露・五月雨・春雨の戦没・損傷が続き、第27駆逐隊は解隊された。時雨は所属不明のまま、西村祥治中将率いる第一遊撃部隊第三部隊に配備される。10月21日、ブルネイ湾に到着。西野繁艦長は戦艦「山城」に赴き、西村中将から作戦の説明を受けた。10月22日午後、艦隊はブルネイを出撃した。
10月24日の空襲で第一砲塔に直撃弾を受けるが不発で無傷だった。10月25日、スリガオ海峡海戦に突入。戦艦「扶桑」が魚雷4本を受けて落伍、「山雲」が轟沈、「朝雲」「満潮」が艦首損傷で大破。時雨は「山城」「最上」と共に突撃するが、山城も魚雷と砲撃を受けて大炎上、最上にも砲撃が集中し、時雨を除く僚艦はみな大損害を受けた。艦尾に砲弾1発が命中し燃料タンクを貫通したが、不発だった。第27駆逐隊の仲間がすべて沈み、艦隊が全滅する中、時雨は孤軍となって戦場を脱した。
幸運艦、不滅艦
米海軍史研究者で元海軍少将のサミュエル・モリソンは、自著の中で時雨をこう評した。
——西村艦隊が壊滅したスリガオ海峡海戦において、唯一生還した艦への評価。
マニラを出港した翌日、そのマニラが米機動部隊の空襲で火の海となった。志摩艦隊旗艦としてレイテ沖海戦に出撃していた軽巡「那智」もこの空襲で沈没している。時雨はここでも沈没の危機を回避した。以後、米潜水艦グロウラーを撃破する一方で油槽船「萬栄丸」を失い、12月には空母「雲龍」が魚雷で沈没(桜花30機が海没)するなど、戦況は悪化していった。12月下旬から時雨は「ヒ87船団」の護衛を担うことになる。
1945年1月24日、ヒ87A船団の輸送船「さらわく丸」を護衛中、タイランド湾のマレー半島東岸で米潜水艦「ブラックフィン」とベスゴの攻撃を受ける。電探と目視で捉えた潜水艦の識別を混同し、転舵がブラックフィンに好機を与えてしまう。午前7時4分、魚雷を回避するも、7時5分に左舷後部に魚雷1本が命中。7時10分に総員退去が発令され、7時15分、艦体は分断して沈没した(北緯06度00分・東経103度45分)。戦死38名(資料によっては37名)、重軽傷17名。3月10日、除籍された。
時雨の残骸は、マレー半島コタバル東方150km、水深55mの海底に今も沈んでいる。艦体は二分され、艦首は右舷に横転、艦尾は正立した状態で発見されており、現在はダイビングスポットや漁礁として利用されている。10隻が建造された白露型駆逐艦の中で、時雨は最後まで生き残った2隻(白露・時雨を除く8隻は1944年までに戦没)の最後の1隻として、終戦の7ヵ月前まで戦い続けた艦だった。
しかし、その幸運も無限ではなかった。最後は壮絶な海戦の中ではなく、輸送船団護衛という地味な任務の最中、識別の混同という人間的な判断のずれが、致命的な結果につながった。何度も死地をくぐり抜けてきた艦の最期が、戦闘の華々しさとは無縁の対潜戦闘だったという事実は、戦争という現実の不条理さを物語っている。
時雨が残したものは、撃沈数ではなく、生き延びるということそのものの価値だ。10隻のうち最後まで残った艦であるという事実が、何よりもそれを物語っている。
■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書62『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』朝雲新聞社
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
- ・サミュエル・E・モリソン著、大谷内一夫訳『モリソンの太平洋海戦史』光人社、2003年
- ・宇垣纏『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・遠藤昭・原進『駆逐艦戦隊』朝日ソノラマ、1994年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「時雨 (白露型駆逐艦)」「白露型駆逐艦」
1932年竣工、吹雪型(特型)駆逐艦24番艦・最終艦。「暁」「響」「雷」と特III型(暁型)・第6駆逐隊を編制。スラバヤ沖海戦で英重巡エクセターを撃沈後、英兵376名を救助した。1944年4月、僚艦「響」と位置交代した直後に米潜水艦ボーンフィッシュの雷撃を受け沈没、生存者121名は響に救助された。
9射線
| 艦名 | 電(いなづま) |
| 艦型・番艦 | 吹雪型(特型)駆逐艦 24番艦(特III型・暁型4番艦、特型最終艦) |
| 艦名の由来 | 雷型駆逐艦「電」に続き2隻目 |
| 建造所 | 藤永田造船所 |
| 起工日 | 1930年(昭和5年)3月7日(姉妹艦「雷」と同日付) |
| 進水日 | 1932年(昭和7年)2月25日 |
| 竣工日 | 1932年(昭和7年)11月15日 |
| 除籍日 | 1944年(昭和19年)6月10日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 全長 | 118.5m |
| 全幅 | 10.36m |
| 機関 | 艦本式タービン2基2軸、新型空気予熱器付きボイラー3基(特III型の技術革新) |
| 速力 | 34.0kt(艦船要目公表値、計画38kt) |
| 航続距離 | 4,500海里/14kt(特I・II型標準値、特III型は燃費改善により実質向上) |
| 乗員 | 約219〜226名(竣工時220名前後) |
| 主砲 | 50口径三年式12.7cm連装砲:3基6門 |
| 魚雷発射管 | 61cm3連装水上発射管:3基(計9射線) |
| 機銃 | 13mm連装機銃:1基(二番煙突後方、25mm化計画は供給問題で未実施) |
| 所属駆逐隊履歴 | 第6駆逐隊(暁・響・雷・電、1934年11月〜)→第一艦隊第一水雷戦隊編入(1940年11月)→第十一水雷戦隊(1943年以降、船団護衛) |
| 主要艦長履歴 | 竹内一中佐(スラバヤ沖海戦・敵兵救助時の艦長)/常盤駆逐艦長(最後の艦長、1944年4月戦死) |
| 特記事項① | 1934年6月29日、済州島南方で僚艦「深雪」と衝突。深雪沈没、電も艦首部喪失(下士官1名死亡) |
| 特記事項② | 1942年3月1日、スラバヤ沖海戦で英重巡エクセターを撃沈。「沈みゆく敵艦に敬礼」の艦内放送後、竹内一艦長の命令で英兵376名を救助 |
| 特記事項③ | 1942年7月5日、米潜水艦トライトンに撃沈された駆逐艦「子日」の生存者36名を救助 |
| 特記事項④ | 1942年11月12日、第三次ソロモン海戦で暁沈没・雷大破の中、軽微な損傷のみで生還。戦果報告:防空巡洋艦1轟沈・同1中破・巡洋艦1小破 |
| 特記事項⑤ | ロンドン海軍軍縮条約の排水量制限により、本艦をもって特型駆逐艦24隻の建造が打ち切られた |
| 最終結末 | 1944年4月14日、僚艦「響」と位置を交代した直後、米潜水艦「ボーンフィッシュ」の雷撃を受ける。魚雷2本が中部・後部に命中、右舷45度傾斜・後部二つ折れで沈没。常盤駆逐艦長以下169名戦死、121名は響に救助される |
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形、密閉式艦橋による居住性改善、重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)により、当時の列強海軍に衝撃を与えた。電は暁・響・雷と共に、空気予熱器付きの新型ボイラーを採用した「特III型」(暁型)の4番艦として藤永田造船所で建造されたが、ロンドン海軍軍縮条約による排水量制限のため、本艦をもって特型駆逐艦24隻の建造は打ち切られた。
- 1932年2月25日進水、11月15日竣工。竣工順は雷(8月15日)に次いで2番目、暁(11月30日)より早かった。
- 地震救援のため僚艦「雷」と共に釜石へ急行、6日に盛(現・大船渡市)に入る。
- 済州島南方で演習中、電は「深雪」に衝突。深雪は沈没。電自身も一番砲塔以前の艦首部を喪失、下士官1名死亡。
- 軽巡「那珂」に曳航され、後進で佐世保に帰投。修理は呉で約3ヵ月間。修理後1934年11月から暁・響・雷・電の4隻で第6駆逐隊編成。
- 第一艦隊第一水雷戦隊に編入。石川島造船所で九三式探信儀・九一式方位盤を装備。13mm機銃の25mm化は供給問題で未実施のまま開戦。
- 1942年1月9日からメナド攻略戦に参加。
- ダバオ湾口付近で衝突。工作艦「明石」で応急修理後、馬公工作部で1月30日〜2月17日まで本格修理。修理後高雄回航、2月21日重巡妙高護衛のため出撃。
- 英重巡洋艦「エクセター」に魚雷を放ち撃沈に至らしめる。艦内に「沈みゆく敵艦に敬礼」の放送、乗組員は甲板で敬礼。
- 海に飛び込む英兵を発見、竹内一艦長「敵兵を救助せよ」の命令。376名のイギリス兵を救助。同日付近で姉妹艦「雷」も翌日422名を救助。
- 北方部隊所属。暁・響・雷の後を追い5月22日横須賀出港、陸奥湾へ。重巡那智・駆逐艦雷とAL作戦主隊として参加。5月29日川内湾出港、6月2日幌筵島到着。
- 6月25-28日、大湊からキスカ島への燃料・弾薬輸送。
- 米潜水艦トライトンに撃沈された駆逐艦「子日」の生存者36名を収容。撃ち込まれた魚雷3本を回避し爆雷9個で反撃。
- 7月10-15日、「あるぜんちな丸」をキスカから横須賀まで護衛。
- 呉入港、内海西部で第二航空戦隊(角田覚治少将)の空母飛鷹・隼鷹と訓練。10月4日、電・磯波が飛鷹・隼鷹を護衛し呉出撃、10月9日トラック到着。
- 空母飛鷹で機関室火災発生、戦闘航海不可能となり旗艦任務・艦載機を隼鷹に移譲。電・磯波は飛鷹を護衛してトラック泊地へ。
- 11月9日、ガ島ヘンダーソン飛行場砲撃に向かう挺身攻撃隊(戦艦比叡・霧島ら多数)に属しトラック出撃。
- 11月12日深夜〜13日未明、ノーマン・スコット少将率いる米巡洋艦部隊と交戦。第6駆逐隊から暁沈没・雷大破の中、三番艦の電は弾片で魚雷発射管動力電路切断という軽微な損害のみ。
- 霧島・朝雲・春雨・電の一群で戦場離脱。魚雷6本・主砲54発発射、防空巡洋艦1轟沈・同1中破・巡洋艦1小破を報告。
- 電幹部は、探照灯照射艦「比叡」が集中砲撃で航行不能(後に自沈)になったことを踏まえ、従来の夜戦戦術への「再考を要す」と提言。
- 12月末まで東部ニューギニア輸送作戦に従事。
- 第6駆逐隊で暁を喪失、雷も大破経験。電は練成部隊である第十一水雷戦隊に所属し船団護衛に従事し続けた。
- 僚艦「響」と位置を交代したばかりのところへ、米潜水艦「ボーンフィッシュ」からの魚雷が接近。
- 魚雷は電の中部と後部に各1本命中。右舷側に45度傾斜、後部は二つ折れとなり間もなく沈没。
- 常盤駆逐艦長以下169名が戦死。121名は僚艦「響」に救助された。生存者の中には、1952年に「アリチアミン」を発見した第6駆逐隊軍医長・藤原元典も含まれていた。
- 沈没地点:北緯05度05分・東経119度33分。
- 駆逐艦電・雷・天霧が初雪型駆逐艦から除籍。同日、軽巡夕張は軍艦籍から、雷・電・秋雲・天霧は帝国駆逐艦籍から除籍。
- 暁・雷・電の相次ぐ喪失により第6駆逐隊は響のみとなり、雷・電の除籍と共に第6駆逐隊も解隊された。特III型4隻のうち、終戦まで生き残ったのは響1隻のみ。
第三次ソロモン海戦では僚艦暁の沈没、雷の大破を目の当たりにしながらも軽微な損傷で生還し、その教訓から戦術への提言まで行っている。しかし1944年4月、僚艦「響」と位置を交代した直後、米潜水艦ボーンフィッシュの精密な雷撃により、電は静かに海に消えた。
電が残したものは、撃沈数ではなく、敵兵への礼節と、最後まで人を救おうとした第6駆逐隊全体の気風そのものである。
▼ 関連記事
■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書29『北東方面海軍作戦』朝雲新聞社
- ・惠隆之介『敵兵を救助せよ! 英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長』草思社、2006年
- ・落合康夫「特型駆逐艦行動年表」『写真 日本の軍艦10 駆逐艦I』光人社、1990年
- ・田村俊夫「特型23隻の開戦時の兵装」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ70 完全版 特型駆逐艦』学習研究社、2010年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・林寛司(作表)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年
- ・野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』2004年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「電 (吹雪型駆逐艦)」
1942年3月1日、スラバヤ沖海戦。駆逐艦「電」が放った魚雷が英重巡洋艦「エクセター」に命中し、撃沈に至らしめた瞬間、艦内には異様な放送が流れた。「沈みゆく敵艦に敬礼」——乗組員たちは甲板に立ち、沈んでいく敵艦に向かって敬礼した。直後、海に飛び込む英兵たちの姿を発見すると、艦長・竹内一中佐は「敵兵を救助せよ」と命じる。電はこの日、376名のイギリス兵を救い上げた。
吹雪型駆逐艦24番艦・電は、特III型(暁型)4隻の最後の艦であり、ロンドン海軍軍縮条約による排水量制限により、この艦をもって特型駆逐艦の建造が打ち切られた、いわば「最後の特型」である。同じ日、姉妹艦「雷」もまた英米兵422名を救助している——同じ艦隊の中で、二つの駆逐艦が同じ精神で動いていたことになる。
そして——その電もまた、最後は誰にも知られず、僚艦「響」とすれ違うように位置を交代した直後、見えない敵の魚雷に沈んでいくことになる。救う側だった艦が、今度は救われる側に回る——その夜、電を救ったのは、かつて共に第6駆逐隊を組んだ「響」だった。
1930年3月7日
1932年11月15日 竣工
34.0kt
(特III型・暁型4番艦・最終艦)
3基6門
9射線
(暁・響・雷・電)
(雷と同日に2隻が救助)
米潜水艦の雷撃で沈没、響が救助
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形、密閉式艦橋による居住性改善、重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)により、当時の列強海軍に衝撃を与えた。電は暁・響・雷と共に、空気予熱器付きの新型ボイラーを採用した「特III型」(暁型)の4番艦として藤永田造船所で建造されたが、ロンドン海軍軍縮条約による排水量制限のため、本艦をもって特型駆逐艦24隻の建造は打ち切られた。日本海軍の艦船としては雷型駆逐艦「電」に続いて2隻目にあたる。
電は1930年3月7日、藤永田造船所で起工した。姉妹艦「雷」もまた同日付の起工である。1932年2月25日に進水し、11月15日に竣工。竣工・就役順では雷(8月15日)に次いで2番目、ネームシップである暁(11月30日)よりも早かった。1933年3月4日には昭和三陸地震の救援のため、僚艦「雷」と共に釜石へ急行し、6日には盛に入っている。
1934年6月29日、済州島南方で演習中、電は僚艦「深雪」に衝突した。深雪は沈没し、電自身も一番砲塔以前の艦首部を喪失、下士官1名が死亡している。軽巡「那珂」に曳航され、後進で佐世保へ帰投。修理は呉で約3ヵ月をかけて行われた。修理後、1934年11月から暁・響・雷・電の4隻でようやく第6駆逐隊が編成される。
1940年11月、第6駆逐隊は第一艦隊第一水雷戦隊に編入。同月から1941年8月まで石川島造船所で特定修理が行われ、九三式探信儀と九一式方位盤を装備した。13mm連装機銃の25mm機銃への換装も計画されたが、供給問題で実施されず、ガダルカナル島の戦いの時期まで13mm連装機銃が唯一の対空兵装という状態のまま太平洋戦争を迎える。
3月1日、スラバヤ沖海戦に参加した電は、英重巡洋艦「エクセター」に魚雷を放ち、撃沈に至らしめた。この時、艦内には「沈みゆく敵艦に敬礼」という放送が流れ、乗組員らは甲板に立って敬礼したという。直後、エクセターから海に飛び込む水兵らが目撃され、艦長・竹内一中佐は「敵兵を救助せよ」と命令。電は376名のイギリス兵を救助した。
沈みゆく敵艦に敬礼
エクセター撃沈の直後、艦内に流れた放送。乗組員たちは敵艦の最期に向かって、甲板で敬礼を行った。
——1942年3月1日、スラバヤ沖海戦。同じ日、僚艦「雷」もまた撃沈した敵艦の生存者422名を救助している。
電が376名、雷が翌3月2日に422名——同じ第6駆逐隊の2隻が、同じ海戦の前後で計798名の英米兵を救助したことになる。電のこの行動が、姉妹艦「雷」の工藤艦長の判断にどれほど影響したかは定かではないが、第6駆逐隊という編成全体に、敵兵を人として扱う気風があったことは間違いない。
呉に回航後、電は第二航空戦隊(角田覚治少将)の空母「飛鷹」「隼鷹」と訓練を実施。10月4日、電・磯波は飛鷹・隼鷹を護衛して呉を出撃し、トラックでガダルカナル島の戦いに加わる。10月20日深夜、飛鷹で機関室火災が発生して戦闘不能となり、電・磯波は飛鷹を護衛してトラック泊地へ向かった。
11月9日、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃に向かう挺身攻撃隊(戦艦比叡・霧島ら多数)に属しトラックを出撃。11月12日深夜〜13日未明、ノーマン・スコット少将率いる米巡洋艦部隊との第三次ソロモン海戦が生起。第6駆逐隊から暁が沈没、雷が大破する中、三番艦として行動していた電は弾片で魚雷発射管動力電路切断という軽微な損害のみで済んだ。霧島・朝雲・春雨・電の一群となって戦場を離脱。電は魚雷6本・主砲54発を発射し、防空巡洋艦1轟沈・同1中破・巡洋艦1小破という戦果を報告している。
この海戦後、電幹部は重要な提言を行っている。探照灯を照射した旗艦「比叡」が集中砲撃を受けて航行不能(後に自沈)になったことを踏まえ、「従来の夜戦戦術に対して『再考を要す』」という意見を上げたという。姉妹艦「暁」が探照灯照射の代償として沈んだことを目撃した電だからこそ出せた、痛切な戦術的洞察だった。
1943年以降、電は第十一水雷戦隊に所属し、船団護衛任務に従事し続けた。第6駆逐隊で暁を喪失し、雷も大破を経験した中、電は地味だが堅実な任務をこなしていく。だが1944年4月、その任務の最中に運命の夜が訪れる。
1944年4月14日、電は僚艦「響」と位置を交代したばかりだった。そこに米潜水艦「ボーンフィッシュ」からの魚雷が接近する。魚雷は電の中部と後部に1本ずつ命中し、電は右舷側に45度傾斜、後部は二つ折れとなって間もなく沈没した。常盤駆逐艦長以下169名が戦死したが、121名は僚艦「響」によって救助された。生存者の中には、第6駆逐隊の軍医長で、1952年に「アリチアミン」を発見した藤原元典も含まれていた。
1944年6月10日、駆逐艦電・雷・天霧は初雪型駆逐艦から除籍された。同日付で軽巡「夕張」は軍艦籍から、雷・電・秋雲・天霧は帝国駆逐艦籍から除籍。暁・雷・電の相次ぐ喪失により、第6駆逐隊は響のみとなり、雷・電の除籍と共に第6駆逐隊も解隊された。特III型4隻のうち、終戦まで生き残ったのは響1隻だけだった。
しかし、その敬意を持つ艦自身は、最後は静かに、見えない敵の魚雷によって海に消えた。僚艦「響」と位置を交代した直後という偶然のタイミング、そして救助した121名のうちに、後に世界の医学に貢献する人物が含まれていたという事実は、戦争という記録が個人の人生の先までも刻んでいることを示している。
電が残したものは、撃沈数ではなく、敵兵への礼節と、最後まで人を救おうとした第6駆逐隊全体の気風そのものである。
▼ 関連記事
■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書29『北東方面海軍作戦』朝雲新聞社
- ・惠隆之介『敵兵を救助せよ! 英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長』草思社、2006年
- ・落合康夫「特型駆逐艦行動年表」『写真 日本の軍艦10 駆逐艦I』光人社、1990年
- ・田村俊夫「特型23隻の開戦時の兵装」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ70 完全版 特型駆逐艦』学習研究社、2010年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・林寛司(作表)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年
- ・野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』2004年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「電 (吹雪型駆逐艦)」
1932年竣工、吹雪型(特型)駆逐艦23番艦。「暁」「響」「電」と特III型(暁型)・第6駆逐隊を編制。スラバヤ沖海戦の翌朝、艦長・工藤俊作少佐の指示で英米兵422名を救助した。1944年4月、米潜水艦ハーダーの精密な雷撃を受け、わずか4分で沈没した。
9射線
| 艦名 | 雷(いかづち) |
| 艦型・番艦 | 吹雪型(特型)駆逐艦 23番艦(特III型・暁型3番艦) |
| 艦名の由来 | 雷型駆逐艦「雷」に続き2隻目 |
| 建造所 | 浦賀船渠 |
| 起工日 | 1930年(昭和5年)3月7日 |
| 進水日 | 1931年(昭和6年)10月22日 |
| 竣工日 | 1932年(昭和7年)8月15日 |
| 除籍日 | 1944年(昭和19年)6月10日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 全長 | 118.5m |
| 全幅 | 10.36m |
| 機関 | 艦本式タービン2基2軸、新型空気予熱器付きボイラー3基(特III型の技術革新) |
| 速力 | 34.0kt(艦船要目公表値、計画38kt) |
| 航続距離 | 4,500海里/14kt(特I・II型標準値、特III型は燃費改善により実質向上) |
| 乗員 | 約219〜226名(竣工時220名前後) |
| 主砲 | 50口径三年式12.7cm連装砲:3基6門 |
| 魚雷発射管 | 61cm3連装水上発射管:3基(計9射線、魚雷予備含め18本搭載) |
| 機銃 | 13mm連装機銃:2基(1944年1月、25mm連装機銃へ換装工事) |
| 所属駆逐隊履歴 | 第6駆逐隊(暁・雷・電・響、1932年〜)→第十一水雷戦隊編入(1943年4月1日)→内南洋部隊(1943年4月15日以降) |
| 主要艦長履歴 | 佐藤慶蔵中佐(初代、1932年8月〜)/手束五郎少佐/伊集院松治少佐(後に第三水雷戦隊・第一特設船団司令官)/則満宰次中佐/竹内虎四郎少佐/柳川正男中佐/戸村清少佐/折田常雄少佐/工藤俊作少佐(1940年11月1日〜1942年8月12日、敵兵422名救助時の艦長)/前田実穂少佐(1942年8月27日〜)/生永邦雄少佐(1943年10月25日〜1944年4月13日戦死) |
| 特記事項① | 1942年3月2日、スラバヤ沖海戦翌朝、工藤俊作艦長の指示で英駆逐艦エンカウンター・米駆逐艦ポープの生存者422名を電と協力して救助。乗員220名の倍近い数を収容 |
| 特記事項② | 1942年10月25日、ルンガ泊地突入で米曳船セミノール・沿岸哨戒艇YP-284を暁・白露と共に撃沈 |
| 特記事項③ | 1942年11月12日、第三次ソロモン海戦で多数の命中弾(20cm砲弾6発・15cm砲弾8発)を受け大破(戦死19名・重傷57名)するも、全速発揮可能で戦線離脱に成功 |
| 最終結末 | 1944年4月13日18時59分、メレヨン島近海で米潜水艦ハーダーの雷撃を受ける(艦長サミュエル・D・ディーレイ少佐、距離900ヤードで魚雷4本発射、2本命中)。船体は二つ折れとなり約4分で沈没。生永邦雄艦長以下238名全員戦死 |
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形、密閉式艦橋による居住性改善、重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)により、当時の列強海軍に衝撃を与えた。雷は暁・響・電と共に、空気予熱器付きの新型ボイラーを採用し缶数を4基から3基に減らしながら燃費を改善した「特III型」(暁型)の一艦として、浦賀船渠で建造された。
- 1931年10月22日進水、1932年8月15日竣工。第6駆逐隊(暁・雷・電・響)編成。
- 地震救援のため僚艦「電」と共に釜石へ急行、6日に盛(現・大船渡市)に入る。
- 九三式探信儀と九一式方位盤を装備。13mm連装機銃の25mm連装機銃への換装も計画されたが供給問題で実施されず。
- 軽巡「五十鈴」、僚艦「電」と共に海上から香港を包囲、英軍哨戒艇を砲撃・撃沈。
- 第二水雷戦隊(田中頼三少将)に加勢しメナド攻略戦に参加。2月17日夜、マヌイ島北東で潜水艦から魚雷4本発射されるが回避、爆雷22発投下し重油浮上を確認(米潜シャークと推定)。
- 重巡「足柄」「妙高」「那智」「羽黒」、駆逐艦「山風」「江風」と共に、英重巡エクセター、英駆逐艦エンカウンター、米駆逐艦ポープを撃沈。
- 艦長工藤俊作少佐の指示により、電と協力して撃沈したエンカウンター・ポープの生存者422名を救助。
- 「救助活動中」の国際信号旗を掲げ機関停止、乗員170名総出で3時間の救助活動。乗員220名の倍近い人数を収容。
- 油で汚れた体を清め、食料・衣類を提供。工藤艦長は英語で士官たちに敬意を表す演説。翌日オランダ病院船「オプテンノール」に引き渡し。
- ルソン島南方タヤバス湾で暁・響と共に米潜水艦パーミットを発見、2日間攻撃。司令塔に損傷を与えるが撃沈には至らず。
- 北方部隊編入。重巡「那智」、駆逐艦「電」と共に主隊としてAL作戦(西部アリューシャン攻略作戦)に参加。アッツ島・キスカ島の占領を支援。
- 7月16日、キスカ輸送任務中の「球磨川丸」座礁。緊急物資を移載しキスカへ向かい7月22日到着。
- 米潜水艦攻撃で大破した駆逐艦「霞」を、曳航索を推進器に巻き込む事故にも遭いながら逆引きで曳航しキスカ出港。8月3日幌筵島片岡湾到着、電に曳航引き継ぎ。
- 8月8日夜、見張員の誤認で銚子近海で座礁。軽い浸水も重量物移動で後進をかけ離礁に成功。
- 機動部隊編入。8月29日、第6駆逐隊(暁・雷・電)が大湊から呉へ。9月18日、雲鷹・特設運送船を護衛しトラックへ。9月29日、沖輸送第三船団を護衛しトラックへ。10月13日ラバウル到着。
- 10月14日、ヘンダーソン基地艦砲射撃に乗じ軽巡川内・由良と陸兵1,129名をガ島エスペランス岬へ輸送。
- 10月25日朝、雷は暁・白露と隊伍を組んでルンガ泊地突入。掃海駆逐艦ゼインに命中弾。艦隊曳船セミノール、沿岸哨戒艇YP-284を撃沈。暁は反撃で損傷、雷もF4F機銃掃射で損傷も戦闘力に影響なし。
- 11月2日、タサファロンガ沖突入を試みるが波浪高く失敗。11月9日、ガ島ヘンダーソン基地砲撃に向かう挺身攻撃隊としてトラック出撃。
- 戦艦比叡・霧島の右前方に位置。前方の暁が乱打を受けた直後、雷も20cm砲弾6発・15cm砲弾8発を含む多数の命中弾。
- 一番・二番砲塔、機銃台、給弾薬室、前部探照灯、煙突に大損傷。主機械一時停止、三番発射管使用不能。戦死19名・重傷57名。
- 水線下被害なく全速発揮可能、残存発射管から魚雷6本発射後戦線離脱。一時行方不明と判定されながらも11月17日単艦でトラック帰投。比叡護衛・第二夜戦には参加せず。
- 水上機母艦「日進」護衛を兼ねトラック出港、11月27日横須賀到着。艦橋前に13mm連装機銃1基増備、被弾砲塔は駆逐艦「初春」のものを流用。
- 暁が除籍され第6駆逐隊は雷・電・響の3隻となる。
- 2度目のアッツ島輸送作戦で那智・羽黒等と輸送船2隻を護衛中、米艦隊と交戦。雷は主砲13発を撃つにとどまる。
- 幌筵海峡で嵐の中、抜錨作業中に駆逐艦「若葉」と接触、艦首が圧し潰れる損傷。大湊で応急修理後、4月11日横須賀帰港、4月30日まで修理。
- 4月1日、新編第十一水雷戦隊(木村進少将)編入。4月15日以降、内南洋部隊で日本本土〜トラック間船団護衛。5月、特設巡洋艦盤谷丸・給糧艦間宮を護衛。
- 5月20日、ジャルート環礁付近で米潜水艦ポラックが盤谷丸を雷撃・沈没させる中、雷は爆雷で反撃しポラックに損傷を与えるが取り逃がす。
- 1944年1月6-13日、横須賀で水中聴音儀・電波探知機装備、13mm連装機銃を25mm連装機銃へ換装工事。二番砲塔撤去は実施されず。
- 1月25日館山出撃、特設巡洋艦赤城丸・特設運送船愛国丸・靖国丸を護衛しトラックへ。1月31日、靖国丸が米潜トリガーの雷撃で沈没、2月1日トラック到着。
- 伊集院松治少将(第一特設船団司令官)指揮下、軽巡夕張・駆逐艦玉波等と共に東京湾出撃。3月30日、損害なくサイパン島到着。
- 特設運送船「山陽丸」を護衛しメレヨン島からサイパンへ向かう途中、直衛機の潜水艦発見報告を受け制圧に向かう。
- 米潜水艦「ハーダー」(艦長サミュエル・D・ディーレイ少佐)は日本機に発見され潜航するも、潜望鏡深度で雷のマストを発見。「雷あるいは響クラス」と正確に識別、ジグザグ航行する雷とほぼ垂直の好位置に接近。
- 距離900ヤードで魚雷4本発射、2本命中。雷は黒煙・火災に包まれ30度傾斜、船体は二つ折れとなり、脱出を図る乗員を巻き込みつつ約4分で沈没。
- 生永邦雄艦長以下238名全員戦死。沈没位置は北緯10度13分・東経143度31分(米側記録)。
- 初雪型駆逐艦3隻(天霧・雷・電)が艦艇類別等級表から削除。構成艦3隻(雷・電・暁)を喪失した第6駆逐隊も同日解隊。雷・電・秋雲・天霧の4隻が帝国駆逐艦籍から除籍。
雷自身も、第三次ソロモン海戦で多数の命中弾を受けながら生き延び、座礁や衝突事故をも乗り越えてきた。しかし1944年4月、米潜水艦ハーダーの精密な観測と魚雷4本によって、雷は船体が二つ折れとなり、わずか4分で沈没した。生永邦雄艦長以下238名全員が戦死している。
雷が残したものは、撃沈数ではなく、敵兵422名を救ったという事実、そしてその恩を忘れなかった一人の英国人の記憶である。
▼ 関連記事
■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書29『北東方面海軍作戦』朝雲新聞社
- ・橋本衛『奇蹟の海から 特型駆逐艦水兵物語』光人社、1984年
- ・橋本衛『特型駆逐艦「雷」海戦記 一砲術員の見た戦場の実相』光人社NF文庫
- ・惠隆之介『敵兵を救助せよ! 英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長』草思社、2006年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・落合康夫「特型駆逐艦行動年表」『写真 日本の軍艦10 駆逐艦I』光人社、1990年
- ・田村俊夫『歴史群像 太平洋戦史シリーズ70 完全版 特型駆逐艦』学習研究社、2010年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「雷 (吹雪型駆逐艦)」「工藤俊作 (海軍軍人)」
1942年3月2日、スラバヤ沖海戦の翌朝。重油の浮かぶ海に漂う422名の英米兵を発見した駆逐艦「雷」艦長・工藤俊作少佐は、ただ一言こう命じた——「おい、助けてやれよ」。前日の海戦で雷も加わって撃沈した英駆逐艦「エンカウンター」、米駆逐艦「ポープ」の漂流者たちだった。敵潜水艦が遊弋する危険海域で3時間に及ぶ救助活動を行い、乗員220名の雷は、その倍近い422名を救い上げた。
吹雪型駆逐艦23番艦・雷は、暁・響・電と共に第6駆逐隊(暁型・特III型)を編制した艦である。竣工は4隻のうち2番目だが、戦歴という意味では誰よりも長く記憶される一夜を持つことになった。救助された英国海軍少尉サミュエル・フォールは、後に外交官となり、半世紀以上にわたって恩人・工藤艦長の消息を探し続けた。
そして——その雷自身もまた、第三次ソロモン海戦で多数の命中弾を受けながら生き延び、最後は1944年、米潜水艦の魚雷によってわずか4分で姿を消すことになる。救う側だった艦が、最後は誰にも救われることなく海に消えた。
1930年3月7日
1932年8月15日 竣工
34.0kt
(特III型・暁型3番艦)
3基6門
9射線
(暁・響・雷・電)
自艦乗員の倍近く救助
米潜水艦の雷撃で4分後に沈没
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形、密閉式艦橋による居住性改善、重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)により、当時の列強海軍に衝撃を与えた。雷は浦賀船渠で建造され、暁・響・電と共に空気予熱器付き新型ボイラーを採用した「特III型」(暁型)を構成した。日本海軍の艦船としては雷型駆逐艦「雷」に続いて2隻目にあたる。
雷は1930年3月7日、浦賀船渠で起工した。1931年10月22日に進水、1932年8月15日に竣工。1933年3月4日には昭和三陸地震の救援のため、第6駆逐隊僚艦「電」と共に釜石へ急行し、6日には盛(現・大船渡市)に入っている——戦争よりも前に、災害救援という形で人を助けた最初の記録である。
3月1日、重巡「足柄」「妙高」「那智」「羽黒」、駆逐艦「山風」「江風」と共に、英重巡「エクセター」、英駆逐艦「エンカウンター」、米駆逐艦「ポープ」を撃沈した。この海戦自体は日本側の圧倒的な勝利だったが、雷の物語が本当に始まるのは、その翌朝だった。
「諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである」
救助した英国海軍士官21名を前に、工藤俊作艦長が流暢な英語でこう述べた。
——1942年3月2日、スラバヤ沖海戦の翌朝。サミュエル・フォール元海軍中尉(後の英国外交官、フォール卿)はこの瞬間を生涯忘れなかったという。
この救助劇は、戦後何十年も日本では知られることがなかった。工藤艦長自身が一切語らず、戦友会にも姿を見せなかったためである。だが救助された英国海軍少尉サミュエル・フォールは、外交官となった後も恩人を探し続け、1987年には米海軍機関誌に工藤艦長を讃える投稿文を寄せている。工藤の消息が判明したのは2004年——本人はすでに1979年に他界していた。2008年、フォール卿(当時は卿の称号を得ていた)は66年の時を経て、川口市の工藤の墓前で感謝を伝えている。
海戦後、雷はフィリピン方面へ移動。3月17日、暁・響と共にルソン島南方タヤバス湾で米潜水艦「パーミット」を発見し、2日間にわたり攻撃。司令塔に損傷を与えたが撃沈には至らなかった。5月20日、北方部隊に編入され、AL作戦(西部アリューシャン攻略作戦)に参加。アッツ島・キスカ島の占領作戦を支援する。
7月、キスカ島では米潜水艦の攻撃で駆逐艦「霰」が沈没、「霞」「不知火」が大破していた。雷は曳航索を推進器に巻き込む事故に遭いながらも、7月28日に「霞」を逆引きで曳航してキスカを出港。「電」に曳航を引き継いで横須賀へ向かう途上、8月8日夜には見張員の誤認で銚子近海で座礁事故を起こす。軽い浸水はあったが、重量物を移動させて後進をかけ、離礁に成功した。地味だが、危機をくぐり抜ける判断力を見せた一幕である。
ガダルカナル島の戦いが緊迫化すると、第6駆逐隊は南方へ転戦。10月14日、暁・雷を含む増援部隊が陸軍兵士1,129名をガダルカナル島エスペランス岬へ輸送した。10月25日朝には、雷は暁・白露と隊伍を組んでルンガ泊地に突入。掃海駆逐艦「ゼイン」に命中弾を与えた後、艦隊曳船「セミノール」と沿岸哨戒艇「YP-284」を発見し、両艦とも撃沈している。
11月12日夜、戦艦「比叡」「霧島」の右前方に位置していた雷は、前方の僚艦「暁」がアメリカ艦隊から乱打を受けた直後、20センチ砲弾6発・15センチ砲弾8発を含む多数の命中弾を受けた。一番・二番砲塔、機銃台、給弾薬室、前部探照灯、煙突などに大きな損傷を受け、主機械も一時停止。三番発射管も弾片で使用不能になり、戦死者19名・重傷者57名という大きな被害を出した。それでも全速発揮が可能で、幸い水線下の被害がなく大事には至らなかった。大破した雷は残った発射管から魚雷6本を発射した後、戦線を離脱。一時行方不明と判定されながらも単艦でトラックへ帰投した。
修理後、1943年3月27日にはアッツ島沖海戦に参加。3月30日には嵐の中で駆逐艦「若葉」と接触事故を起こし艦首が圧し潰れる損傷を負ったが、これも乗り越えた。4月以降は内南洋部隊に転属し、日本本土とトラック間の船団護衛任務に従事。5月20日、ジャルート環礁付近で米潜水艦「ポラック」の雷撃により護衛していた特設巡洋艦「盤谷丸」が沈没する中、雷は爆雷で反撃し損傷を与えたが取り逃がしている。
1944年に入っても、雷は1年近くにわたって船団護衛任務に従事し続けた。1月、水中聴音儀と電波探知機を装備する工事を実施。3月、マリアナ諸島防衛強化のための「松輸送」にも従事し、サイパン島への輸送を成功させている。
1944年4月13日、雷は特設運送船「山陽丸」を護衛してメレヨン島からサイパンへ向かっていた。直衛機が潜水艦を発見すると、雷は山陽丸を残して制圧に向かう。実はこの時、米潜水艦「ハーダー」(艦長サミュエル・D・ディーレイ少佐)も、日本機に発見されて一度潜航した後、潜望鏡深度で雷のマストを発見していた。ディーレイ艦長は相手を「雷あるいは響クラス」と正確に見抜き、観測を続けてジグザグ航行する雷とほぼ垂直の好位置に接近する。18時59分、距離900ヤードでハーダーは魚雷4本を発射し、2本が命中。雷は黒煙と火災に包まれ30度に傾斜、船体は二つ折れとなり、脱出を図る乗員を巻き込みつつ4分ほどで沈没した。生永邦雄艦長以下238名全員が戦死した。
1944年6月10日、初雪型駆逐艦3隻(天霧・雷・電)が艦艇類別等級表から削除され、構成艦3隻(雷・電・暁)を喪失していた第6駆逐隊も同日解隊された。雷は帝国駆逐艦籍からも除籍されている。
しかし、その武士道精神を持つ艦自身は、最後は誰にも救われることなく海に消えた。米潜水艦ハーダーの精密な観測と魚雷4本——救う側だった艦が、今度は救われる側になることもできずに、わずか4分で沈んでいった。第三次ソロモン海戦で多数の命中弾を受けながらも生き延びた雷の生命力をもってしても、この最期は避けられなかった。
雷が残したものは、戦果としての撃沈数ではない。敵兵422名を救ったという事実、そしてその恩を半世紀以上忘れなかった一人の英国人の存在——この艦の物語は、戦争という記録の中に、敵味方を超えた人間の記憶を刻んでいる。
▼ 関連記事
■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書29『北東方面海軍作戦』朝雲新聞社
- ・橋本衛『奇蹟の海から 特型駆逐艦水兵物語』光人社、1984年
- ・橋本衛『特型駆逐艦「雷」海戦記 一砲術員の見た戦場の実相』光人社NF文庫
- ・惠隆之介『敵兵を救助せよ! 英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長』草思社、2006年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・落合康夫「特型駆逐艦行動年表」『写真 日本の軍艦10 駆逐艦I』光人社、1990年
- ・田村俊夫『歴史群像 太平洋戦史シリーズ70 完全版 特型駆逐艦』学習研究社、2010年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「雷 (吹雪型駆逐艦)」「工藤俊作 (海軍軍人)」
1932年竣工、吹雪型(特型)駆逐艦21番艦。「響」「雷」「電」と特III型(暁型)・第6駆逐隊を編制。ルンガ泊地突入で米曳船を撃沈する戦果を上げたが、1942年11月、第三次ソロモン海戦で米軽巡アトランタを探照灯照射した直後、集中砲火を受け15分で転覆沈没した。
9射線
| 艦名 | 暁(あかつき) |
| 艦型・番艦 | 吹雪型(特型)駆逐艦 21番艦(特III型・暁型1番艦) |
| 艦名の由来 | 暁型駆逐艦「暁」、捕獲艦「山彦」に続き3隻目 |
| 建造所 | 佐世保海軍工廠 |
| 起工日 | 1930年(昭和5年)2月17日 |
| 進水日 | 1932年(昭和7年)5月7日 |
| 竣工日 | 1932年(昭和7年)11月30日 |
| 除籍日 | 1942年(昭和17年)12月15日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 全長 | 118.5m(特III型は艦橋大型化で重心上昇、改善工事実施) |
| 全幅 | 10.36m |
| 機関 | 艦本式タービン2基2軸、新型空気予熱器付きボイラー3基(特III型の技術革新、缶4基→3基へ減載しつつ燃費10%以上改善) |
| 速力 | 34.0kt(竣工時は約36kt、友鶴事件・第四艦隊事件後の改善工事で公試排水量2,400トン超・速力約2ノット低下) |
| 航続距離 | 4,500海里/14kt(特I・II型標準値、特III型は燃費改善により実質向上) |
| 乗員 | 約219〜226名(特型標準値) |
| 主砲 | 50口径三年式12.7cm連装砲:3基6門(B型、第四艦隊事件後C型砲架へ換装) |
| 魚雷発射管 | 61cm3連装水上発射管:3基(計9射線、特III型では誘爆防止のため防楯式に変更) |
| 所属駆逐隊履歴 | 第10駆逐隊(狭霧・漣・暁、1932年)→横須賀鎮守府警備戦隊(1935年)→第6駆逐隊(暁・響・雷・電、1939年11月) |
| 主要艦長履歴 | 高橋一松少佐(初代、1932年8月〜)/橘正雄少佐/(兼)小田為清中佐/成田忠良中佐/佐藤康夫中佐/篠田勝清中佐/荘司喜一郎中佐/(兼)小山猛男中佐/川島良雄少佐/青木久治少佐/高須賀修少佐(1942年4月13日〜戦没) |
| 特記事項① | 進水・竣工・就役は3番艦「雷」・4番艦「電」の方が先で、起工のみ4隻中最初だった |
| 特記事項② | 1942年10月25日、ルンガ泊地突入で米艦隊曳船セミノール・沿岸哨戒艇YP-284を撃沈 |
| 特記事項③ | 友鶴事件・第四艦隊事件を受け、艦橋縮小・バラスト搭載・上甲板補強等の徹底的な改善工事を実施 |
| 最終結末 | 1942年11月13日午前1時50分、第三次ソロモン海戦第一夜戦で米軽巡アトランタを探照灯照射した直後、米艦隊の集中砲火を受け航行不能。約15分後に右に傾き転覆沈没。生存者18〜20名は捕虜となり、フェザーストン事件にも遭遇、戦後復員できたのは9名のみ |
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形、密閉式艦橋による居住性改善、重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)により、当時の列強海軍に衝撃を与えた。暁・響・雷・電の4隻は、空気予熱器付きの新型ボイラーを採用し缶の数を4基から3基に減らしながら燃費を10%以上改善する技術革新を実現した「特III型」として建造されたが、ロンドン海軍軍縮条約の排水量制限によりこの4隻で建造打ち切りとなった。
- 1928年6月16日、暁・響・雷・電の艦名が内定。1930年3月15日、4隻揃って正式命名・艦艇類別等級表登録。
- 吹雪型姉妹艦2隻(狭霧・漣)により第10駆逐隊(司令・栗田健男中佐)編制。司令駆逐艦は「狭霧」。5月16日、高橋一松少佐が艤装員長に任命。
- 竣工と同時に第10駆逐隊へ編入、同隊は吹雪型3隻(狭霧・漣・暁)となる。12月1日、栗田大佐転任、加藤仁太郎大佐が後任司令。
- 第二艦隊・第二水雷戦隊が川内型軽巡「那珂」と第6駆逐隊(響・雷・電)、第10駆逐隊(狭霧・漣・暁)、第11駆逐隊(白雪・初雪・深雪)、第12駆逐隊(薄雲・白雲・叢雲)で編制。
- 第二水雷戦隊演習中、第6駆逐隊「電」と第11駆逐隊「深雪」が衝突。深雪は沈没し7月5日除籍。
- 伊勢湾付近で潜航中の伊号第六潜水艦と衝突、相手の潜望鏡を損傷させる。11月15日、第10駆逐隊は横須賀鎮守府警備戦隊に編入。暁は予備艦となり翌年2月まで性能改善工事(友鶴事件・第四艦隊事件対応)を実施。
- 第二艦隊・第四水雷戦隊編入、中国北部船団護衛、南部沿岸封鎖作戦、杭州湾上陸作戦に参加。1938年4月、第10駆逐隊は予備駆逐隊となる。
- 斎藤博・前駐米大使の遺骨を運ぶ米重巡「アストリア」を、吹雪型3隻(響・狭霧・暁)が先導し横浜港へ入港。日米両国旗を半旗に掲げる。
- 漣は第7駆逐隊へ、狭霧は第20駆逐隊へ編入。暁は第6駆逐隊(第二艦隊・第四水雷戦隊、旗艦那珂)に編入され、吹雪型定数4隻(暁・響・雷・電)が揃う。
- 1〜2月、サンジャック沖に進出。2〜11月、浦賀船渠で特定修理。7月17日、一水戦旗艦が阿武隈から暁へ一時変更(9月26日に阿武隈へ戻る)。
- 第一水雷戦隊旗艦「阿武隈」は真珠湾攻撃部隊として別行動、第6駆逐隊第1小隊(暁・響)は近藤信竹中将率いる南方部隊本隊に編入。
- 11月29日佐伯湾出撃、馬公・三亜経由で12月11日カムラン湾入港。12月20日リンガエン湾上陸作戦を支援。
- 1月11日、メナド攻略戦支援。ジャワ作戦船団護衛、バタビア沖海戦に参加。3月10日からフィリピン攻略作戦に再参加。
- タヤバス湾で第6駆逐隊(暁・響・雷)が米潜水艦「パーミット」を発見、2日間攻撃。司令塔に損傷を与えるが撃沈には至らず。
- 姉妹艦「朧」駆逐艦長から異動。4月6日には第6駆逐隊司令も成田大佐から山田勇助中佐に交代。
- 5月20日、暁・響が戦艦「武蔵」を護衛し長崎を出港、呉到着。5月22日、徳山港出港し第四航空戦隊(龍驤・隼鷹)を大湊まで直衛。
- 5月28日AOB攻略部隊出港、6月7-8日キスカ島占領。6月12日、爆撃で損傷した「響」を6月13-27日に大湊まで護衛。
- 7月11日、キスカ島へ第五警備隊司令・物資を輸送。燃料消費のため7月18日キスカを離れ、7月25日横須賀入港。
- 8月11日、薄雲が第6駆逐隊に編入。8月14日、軽巡阿武隈護衛中に対潜掃討。8月28日、機動部隊編入でガ島方面へ転戦。
- 9月1日、磯波と共に空母瑞鳳・雲鷹の警戒艦として呉からトラックへ進出。9月18日、雲鷹・特設運送船を護衛。10月13日ラバウル到着。
- 第三戦隊(金剛・榛名)のヘンダーソン基地艦砲射撃に乗じる形で、橋本信太郎少将指揮の増援部隊(川内・由良・朝雲・白雪・暁・雷)が陸兵1,129名をガ島エスペランス岬へ輸送。
- 軽巡戦隊・水雷戦隊の大規模輸送作戦に参加。米潜水艦グランパスが由良を雷撃(不発)。暁は由良を掩護し爆雷攻撃(効果不明)。
- 突撃隊(暁・雷・白露、指揮官・山田勇助第6駆逐隊司令)がサボ島南方を通過しルンガ泊地に突入。掃海駆逐艦ゼインに命中弾1発。
- 陸揚げ作業中の艦隊曳船セミノール、沿岸哨戒艇YP-284を発見・撃沈。海兵隊陣地への艦砲射撃では反撃を受け、暁の三番砲塔薬室に1発命中、戦死4名・重傷2名。
- 第一攻撃隊(衣笠・川内・天霧・初雪)、甲増援隊(朝雲・天龍・村雨・春雨・夕立・時雨・白露・有明・夕暮・白雪・暁・雷)、乙増援隊がショートランド泊地を出撃。強風波浪のため装載艇9隻喪失も乙増援隊の輸送は成功。
- 暁は前進部隊(旗艦愛宕)と共にトラック泊地を出撃。挺身攻撃隊は一度も共同訓練していない「寄せ集め艦隊」のまま、悪天候の中で隊形を乱しつつガダルカナル島沖へ。
- ノーマン・スコット少将指揮下の重巡2・軽巡3・駆逐艦8の米艦隊と遭遇。
- 暁の探照灯が右舷前方の米軽巡「アトランタ」を照射。艦首右にいた米駆逐艦から砲撃を受け一瞬で航行不能。砲術長以下戦死、操舵装置破壊。
- 水雷長・新屋徳治中尉が予備操舵装置作動を試みるが火災で接近不可能。暁は制御を失い漂流、右に傾いて転覆。砲撃から約15分後に沈没。
- 翌朝、新屋の周りに30〜40名の生存者がいたが、米軍に救助され捕虜となったのは18名のみ。木俣滋郎の分析では、軽巡ヘレナ・駆逐艦アーロン・ワード、または重巡サンフランシスコ・駆逐艦オバノンの反撃により機関室損傷、火災が火薬庫に引火し沈没したと推定。
- 1992年の潜水調査で、米側生存者モアドック教授と新屋氏の証言が一致:暁がアトランタを照射した事実は確認されたが、暁を直接砲撃したのは別の艦だった。
- 暁の生存者18〜20名はニュージーランドへ捕虜として後送されたが、一部がフェザーストン事件に巻き込まれた。戦後復員できたのは9名のみ。
- 同海戦で喪失した重巡「衣笠」、駆逐艦3隻(暁・夕立・綾波)の除籍が決定。暁は帝国駆逐艦籍・白雪型駆逐艦・第6駆逐隊のそれぞれから除籍。特III型・第6駆逐隊として最初の犠牲艦となった。
1942年11月、第三次ソロモン海戦第一夜戦では、敵艦隊発見を味方に知らせるための探照灯照射が、そのまま自らへの集中砲火を呼び込んだ。被弾からわずか15分で転覆沈没——探照灯を照らすという行為が持つ、最初の発見者であると同時に最も早い犠牲者になるという過酷な非対称性を、この艦の最期は物語っている。
暁が残したものは、撃沈数ではなく「最初に発見し、最初に犠牲になった」という事実そのものである。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・新屋徳治「第三次ソロモン海戦 駆逐艦『暁』ガ島沖に消ゆ」『丸別冊 太平洋戦争証言シリーズ9 ソロモンの死闘』光人社、1988年
- ・落合康夫「特型駆逐艦(朧、曙、漣、潮、暁、響、雷、電)行動年表」『写真 日本の軍艦10 駆逐艦I』光人社、1990年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・志賀博ほか『駆逐艦物語』潮書房光人社、2016年
- ・井上尚一『駆逐艦「暁」主計科兵曹どんぱち奮迅録』
- ・高松宮宣仁親王『高松宮日記』第5巻
- ・宮内庁編『昭和天皇実録 第七』東京書籍、2016年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「暁 (吹雪型駆逐艦)」
1942年11月13日午前1時50分、第三次ソロモン海戦・第一夜戦の劈頭。駆逐艦「暁」の探照灯が、右舷前方にいた米軽巡洋艦「アトランタ」を照らし出した。その瞬間、暁は敵全艦隊にとって最も目立つ標的になった。探照灯を照射した艦の宿命——艦首右にいた米駆逐艦から即座に砲撃を受け、暁は一瞬にして航行不能に陥る。集中砲火を浴びながら漂流し、ついに右に傾いて転覆。被弾からわずか15分後のことだった。
吹雪型駆逐艦21番艦・暁は、暁型(特III型)4隻——暁・響・雷・電の1番艦である。「第6駆逐隊」という名で多くの艦これファンにも知られるこの編成の中で、暁は最も早く戦場から姿を消した艦になった。竣工こそ4隻の中で最初だったが、進水・就役は3番艦「雷」・4番艦「電」の方が先という、ねじれた誕生の経緯を持つ艦でもある。
そして——暁が最後に照らし出した光は、敵を撃つための照準ではなく、敵に自らの位置を晒す光だった。探照灯を照射するということの代償を、暁はその身をもって示すことになる。
1930年2月17日
1932年11月30日 竣工
34.0kt(改善工事後)
(特III型・暁型1番艦)
3基6門
9射線
第6駆逐隊(暁・響・雷・電)
(1942年4月13日〜戦没)
第三次ソロモン海戦で被弾後15分で転覆沈没
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形、密閉式艦橋による居住性改善、重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)により、当時の列強海軍に衝撃を与えた。暁・響・雷・電の4隻は、空気予熱器付きの新型ボイラーを採用し、缶の数を4基から3基に減らしながら燃費を10%以上改善するという技術革新を実現した「特III型」(暁型)として建造された。ロンドン海軍軍縮条約による排水量制限のため、この4隻で建造は打ち切られている。
暁は1930年2月17日、佐世保海軍工廠で起工した。1932年5月7日に進水し、5月19日には姉妹艦「狭霧」「漣」による第10駆逐隊が編制される(暁自身はまだ未竣工)。8月20日、高橋一松少佐が初代艤装員長に任命され、11月30日に竣工。竣工と同時に第10駆逐隊へ編入され、同隊は吹雪型3隻(狭霧・漣・暁)となった。
1941年1月から2月、第6駆逐隊はタイ・フランス領インドシナ紛争停戦の示威運動でサンジャック沖に進出。帰国後は2月から11月まで浦賀船渠で特定修理を受けた。7月17日、第一水雷戦隊旗艦は軽巡「阿武隈」から「暁」に変更され、9月26日に元へ戻された——わずか2ヵ月だが、暁が一時的に旗艦を務めた時期である。
太平洋戦争開戦時、第一水雷戦隊旗艦「阿武隈」は南雲機動部隊警戒隊旗艦となり真珠湾攻撃へ向かったが、暁の所属する第6駆逐隊第1小隊(響・暁)は近藤信竹中将率いる南方部隊本隊に編入された。11月29日、佐伯湾から出撃し馬公・三亜を経て12月11日カムラン湾に入港。フィリピン攻略作戦に参じ、12月20日のリンガエン湾上陸作戦を支援した。
1942年1月11日、セレベス島メナド攻略戦を支援。以後、ジャワ作戦船団護衛、バタビア沖海戦などに参加し、3月10日からは再びフィリピン攻略作戦に参加した。3月17日、ルソン島南方のタヤバス湾で第6駆逐隊(暁・響・雷)は米潜水艦「パーミット」を発見し、2日間にわたって攻撃。司令塔に損傷を与えて撃破したものの、撃沈には至らず取り逃がしている。
9月、暁は空母「瑞鳳」「雲鷹」の警戒艦として呉からトラックへ進出。10月13日、ラバウルに到着し、ガダルカナル島増援作戦(鼠輸送)に従事することになる。10月14日、第三戦隊(金剛・榛名)によるヘンダーソン基地艦砲射撃に乗じる形で、暁・雷を含む増援部隊が陸軍兵士1,129名をガダルカナル島へ輸送した。
10月25日午前2時30分、突撃隊(指揮官・山田勇助第6駆逐隊司令)の暁・雷・白露は、米軍小型機4機の空襲を切り抜けてサボ島南方を通過、ルンガ泊地に突入した。掃海駆逐艦「ゼイン」が逃亡を図る中、突撃隊は5カイリに接近して砲撃。命中弾1発を与えるが本来任務との兼ね合いで追撃を断念。再度ルンガ泊地に向かうと、陸揚げ作業中の艦隊曳船「セミノール」と沿岸哨戒艇「YP-284」を発見し、砲撃でYP-284を炎上撃沈、続けてセミノールも撃沈した。続く海兵隊陣地への艦砲射撃では反撃を受け、暁の三番砲塔薬室に1発が命中、戦死4名・重傷2名を出す被害も受けている。
10月17日未明には、暁・雷を含む大規模な輸送作戦が実施されたが、米潜水艦グランパスが軽巡「由良」を雷撃(不発)。暁は由良を掩護して爆雷攻撃を行ったが効果は不明だった。10月24日からの第二次総攻撃支援作戦では、突撃隊として再びルンガ泊地への突入を成功させている。11月1日深夜には、第一攻撃隊(衣笠・川内・天霧・初雪)に続き、暁・雷を含む甲増援隊が大規模輸送に従事した。
11月9日15時以降、暁は前進部隊(旗艦愛宕)と共にトラック泊地を出撃。挺身攻撃隊は寄せ集めの艦隊編成で、一度も共同訓練を行わないまま悪天候の中を進んでいた。11月12日23時30分、ガダルカナル島沖でノーマン・スコット少将率いる米艦隊(重巡2・軽巡3・駆逐艦8)との交戦が始まる。
午前1時50分、暁の探照灯が右舷前方の米軽巡「アトランタ」を照射した。その瞬間、艦首右にいた米駆逐艦から砲撃を受け、暁は一瞬で航行不能となる。砲術長とその部下全員が戦死、操舵装置も破壊された。水雷長・新屋徳治中尉は予備操舵装置を作動させようとしたが、火災のため近づけなかった。暁は制御を失い漂流し、右に傾いて転覆。砲撃を受けてから15分後のことだった。翌朝、新屋の周りには30〜40名の生存者がいたが、米軍に救助され捕虜となったのはわずか18名。木俣滋郎の分析によれば、軽巡ヘレナと駆逐艦アーロン・ワード、あるいは重巡サンフランシスコと駆逐艦オバノンの反撃により機関室に命中弾を受け、火災が火薬庫に引火して沈没したと推定されている。
後から振り返って強く印象にあるのは、双方の艦艇の中で最初に被弾したのが暁ではなかったか、という事実である
水雷長・新屋徳治中尉が、雑誌「丸」に寄せた戦記でこの夜を振り返っている。
——1942年11月13日、第三次ソロモン海戦第一夜戦。1992年の潜水調査では、米側のスチュアート・モアドック教授(当時アトランタ乗艦)との証言対比で、探照灯照射の事実は一致したが、暁を直接砲撃したのは別の艦だったことが判明している。
暁の18〜20名の生存者は捕虜となりニュージーランドへ後送されたが、1943年2月25日に発生した「フェザーストン事件」に巻き込まれた者もおり、戦争終結後に復員できたのはわずか9名だった。12月15日、第三次ソロモン海戦で喪失した重巡「衣笠」、駆逐艦3隻(暁・夕立・綾波)の除籍が決定。暁は帝国駆逐艦籍・白雪型駆逐艦・第6駆逐隊のそれぞれから除籍された。特III型としても、第6駆逐隊としても、最初の犠牲艦となった。
探照灯を照らすという行為は、戦場における「最初の発見者」としての役目であると同時に、最も早く敵の標的になるという宿命でもあった。暁が15分で転覆したという事実は、決して艦そのものの弱さを示すものではなく、夜戦という戦闘形式が持つ過酷な非対称性を物語っている。竣工は4隻中最初だったが、進水・就役は3番艦・4番艦より遅かったというねじれた誕生の経緯も、この艦の物語に静かな伏線として残っている。
暁が残したものは、撃沈数ではなく、「最初に発見し、最初に犠牲になった」という事実そのものだ。今を生きる私たちに、この艦が問いかけるのは——先頭に立つことの誇りと危うさは、常に同じ重さで存在する、という現実かもしれない。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・新屋徳治「第三次ソロモン海戦 駆逐艦『暁』ガ島沖に消ゆ」『丸別冊 太平洋戦争証言シリーズ9 ソロモンの死闘』光人社、1988年
- ・落合康夫「特型駆逐艦(朧、曙、漣、潮、暁、響、雷、電)行動年表」『写真 日本の軍艦10 駆逐艦I』光人社、1990年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・志賀博ほか『駆逐艦物語』潮書房光人社、2016年
- ・井上尚一『駆逐艦「暁」主計科兵曹どんぱち奮迅録』
- ・高松宮宣仁親王『高松宮日記』第5巻
- ・宮内庁編『昭和天皇実録 第七』東京書籍、2016年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「暁 (吹雪型駆逐艦)」
1928年竣工、吹雪型(特型)駆逐艦8番艦。「叢雲」「東雲」「薄雲」と雲級・第12駆逐隊を編制。バタビア沖海戦、ガダルカナル輸送と前線で戦い続けたが、その艦歴は「白雪」との記録上の混同にも度々付きまとわれた。1944年3月、北海道釧路沖で米潜水艦の雷撃を受け戦没した。
9射線
| 艦名 | 白雲(しらくも) |
| 艦型・番艦 | 吹雪型(特型)駆逐艦 8番艦(雲級4番艦) |
| 艦名の由来 | 白雲型駆逐艦(初代)「白雲」に続き2隻目 |
| 仮称艦名 | 第四十二号駆逐艦 |
| 建造所 | 藤永田造船所 |
| 起工日 | 1926年(大正15年)10月27日 |
| 進水日 | 1927年(昭和2年)12月27日 |
| 竣工日 | 1928年(昭和3年)7月28日(改称8月1日) |
| 除籍日 | 1944年(昭和19年)3月31日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 全長 | 118.5m |
| 全幅 | 10.36m |
| 機関 | 艦本式タービン2基(純国産) |
| 速力 | 34.0kt(計画38.0kt) |
| 航続距離 | 9,260km(14kt巡航時) |
| 乗員 | 219名 |
| 主砲 | 50口径三年式12.7cmA型連装砲:3基6門(全周囲シールド付、荒天時対応) |
| 魚雷発射管 | 一二年式61cm3連装水上発射管:3基(計9射線) |
| 搭載魚雷 | 竣工時:九〇式魚雷(1935年頃更新)→1943年、九三式魚雷(酸素魚雷)へ更新 |
| 対空機銃(戦時最終) | 九二式7.7mm機銃:2挺 |
| 所属駆逐隊履歴 | 第12駆逐隊(東雲・薄雲・白雲、1928年)→定数4隻(叢雲編入、1929年)→第20駆逐隊(狭霧の欠員補充、1942年3月10日)→第11駆逐隊修理中→第9駆逐隊(霞・薄雲・朝雲、1943年4月1日) |
| 主要艦長履歴 | 安武史郎少佐/小川延喜中佐(12駆最後の司令、白雲に隊旗)/人見豊治中佐(開戦時艦長、後に巻波艤装員長・駆逐艦長としてセント・ジョージ岬沖海戦で戦死)/平山敏夫少佐(1942年11月15日〜、大波艤装員長兼務、1944年1月22日転出)/橋本正雄少佐(1944年1月22日〜3月16日戦死、元砲艦「隅田」艦長) |
| 特記事項① | 1935年9月、第四艦隊事件で魚雷格納庫を損傷、船体に歪み発生 |
| 特記事項② | 1942年3月1日、バタビア沖海戦で叢雲と共に蘭駆逐艦エヴェルトセンを発見 |
| 特記事項③ | 1942年8月28日、ガダルカナル輸送中の空襲で機関室浸水、航行不能。同空襲で姉妹艦朝霧が轟沈 |
| 特記事項④ | 「白雲」と「白雪」は字体が似ているため、1941年6月21日付の海軍公報で「今後白雲宛ての文書はシラクモとフリガナを付けてください」と周知された。戦史叢書83巻のサボ島沖海戦参加記録も、実際には「白雪」の行動が「白雲」と誤記されたものとされる |
| 最終結末 | 1944年3月16日、第9駆逐隊として陸軍輸送船4隻を護衛中、釧路沖(資料によっては襟裳岬沖)の太平洋で米潜水艦「トートグ」の雷撃を受け沈没。全乗組員が戦死した |
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形、密閉式艦橋による居住性改善、重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)により、当時の列強海軍に衝撃を与えた。白雲は「叢雲」「東雲」「薄雲」と共に、艦名に「雲」を含む4隻——通称「雲級」を構成した。藤永田造船所で建造された吹雪型としては最初の建造艦である。
- 1928年7月28日竣工、8月1日「白雲」と改称。「叢雲」「東雲」「薄雲」と第12駆逐隊を編制。
- 第12駆逐隊として日中戦争・仏印進駐の各作戦に従事。
- 三陸沖演習中の台風で多くの艦船が被害を受ける中、白雲も魚雷格納庫を軽度に損傷し、船体に歪みが発生。
- 第三水雷戦隊麾下の第12駆逐隊として、機雷で損傷していた「薄雲」を除く3隻(叢雲・東雲・白雲)でマレー作戦に従事。
- ボルネオ・ミリ攻略中、東雲が飛行艇の爆撃を受けて沈没したと伝えられている。
- 重巡「最上」「三隈」が米重巡ヒューストン・濠軽巡パースの撃沈に成功する混戦の中、白雲・叢雲は護衛準備が整わず後から追いかける形になっていた蘭駆逐艦「エヴェルトセン」を発見。
- エヴェルトセンはスラバヤ沖海戦から離脱した艦で、バタビアでの出撃準備が間に合わず2隻に同行できなかった。
- 東雲喪失で2隻編制になっていた第12駆逐隊が解隊。白雲は第20駆逐隊(朝霧・夕霧・天霧)に編入。
- 第20駆逐隊としてベンガル湾機動作戦、ミッドウェー作戦に従事。7月中旬以降、インド洋方面通商破壊作戦「B作戦」に従事するが、8月7日のガダルカナル島の戦い開始で中止。
- 第20駆逐隊4隻(天霧・夕霧・朝霧・白雲)が歩兵第124連隊第2大隊600名を分乗させガダルカナル島へ向かう途上、飛行艇に発見され輸送を中断。燃料欠乏回避のため洋上待機、28日に第24駆逐隊との合流を目指す。
- 合流地点を目指す途中で爆撃機の空襲を受ける。「白雲」は至近弾で機関室浸水、航行不能。「夕霧」も複数の至近弾で機関室・艦橋損傷。「朝霧」は2発の直撃弾を受け魚雷誘爆により轟沈。無傷だったのは天霧のみ。
- 第20駆逐隊解隊、白雲・夕霧は呉鎮守府警備駆逐艦となり呉鎮守府部隊に編入。修理のため日本へ帰投。
- 10月7日、軽巡「神通」と共に入泊、翌8日に呉軍港到着。白雲の修理は呉海軍工廠・藤永田造船所で実施。当時、藤永田造船所では夕雲型駆逐艦「大波」を建造中だった。
- 11月15日、白雲駆逐艦長・平山敏夫少佐が大波艤装員長を兼務。12月20日、吉川潔中佐(白露型夕立の第三次ソロモン海戦時の駆逐艦長)が大波艤装員長に任命され、平山少佐の兼務は解かれた。
- 修理を終えた白雲は、4月1日付で「薄雲」「朝雲」と共に第9駆逐隊(第五艦隊隷下・第一水雷戦隊)を編成。北方部隊(アリューシャン方面)に配置される。
- 視界不良の中、米潜水艦を制圧中の「神風」への協同出撃命令を受けて行動していたところ、駆逐艦「沼風」と衝突し艦首部を損傷。大湊・函館で修理。
- 修理を終えた白雲は、千島列島方面を含む北方海域での船団護衛・輸送任務に従事。1944年1月、タンカー「帝洋丸」を護衛して占守島へ進出、流氷の中で若干の浸水被害を受けた。
- 平山敏夫少佐が秋霜艤装員長として転出し、元砲艦「隅田」艦長の橋本正雄少佐が新たな白雲駆逐艦長に着任。
- 第9駆逐隊として陸軍輸送船4隻を護衛中、釧路沖(資料によっては襟裳岬沖、北緯42度20分・東経144度35分)の太平洋で米潜水艦「トートグ」の雷撃を受ける。
- 魚雷攻撃により白雲は沈没し、橋本正雄艦長以下全乗組員が戦死した。
しかし、その存在感は「白雪」という似た名前の艦と度々混同され、戦史叢書という公的な記録の中にまで誤記が残ることになった。最期もまた、太平洋の激しい海戦ではなく、北海道近海での潜水艦による静かな一撃だった。
記録に残る名前の取り違えそのものが、白雲という艦が確かに実在し、戦い続けていたことの証でもある。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・歴史群像編集部編『水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦』第19巻、学習研究社、1998年
- ・雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集16 駆逐艦 吹雪型[特型]』光人社、1997年
- ・雑誌「丸」編集部『写真 太平洋戦争<第三巻>』光人社、1995年
- ・森史郎『空母瑞鶴戦史[ソロモン攻防篇]』潮書房光人社、2018年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「白雲 (吹雪型駆逐艦)」
1942年8月28日、サンタイサベル島北方洋上。ガダルカナル島への鼠輸送中、駆逐艦「白雲」は米軍機の空襲を受けた。至近弾が機関室付近に命中し、浸水によって航行不能となる。同じ空襲で姉妹艦「朝霧」は魚雷誘爆を起こして轟沈し、「夕霧」も機関部・艦橋を損傷した。白雲はかろうじて沈没を免れたが、艦としての機能を失っていた。
吹雪型駆逐艦8番艦・白雲は、「叢雲」「東雲」「薄雲」と共に「雲級」第12駆逐隊を編制した艦である。マレー作戦、バタビア沖海戦と前線で戦い、輸送任務に従事し続けたが、その艦歴は混同と誤記録に何度も付きまとわれている。戦史叢書の記録でさえ、サボ島沖海戦に参加したのは実際には「白雪」だったものが「白雲」と誤って記されたことがある——字体の似た艦名が、歴史の記録にまで影響を及ぼした稀有な例である。
そして——白雲の最期もまた、決して劇的な海戦の中ではなく、千島方面への輸送任務という地味な任務の最中に訪れた。北海道釧路沖、米潜水艦の魚雷一発が、この艦の16年近い艦歴に終止符を打つことになる。
1926年10月27日
第四十二号駆逐艦
34.0kt
(雲級4番艦)
3基6門
9射線
第20駆逐隊
記録上の混同が頻発
釧路沖で米潜水艦の雷撃により沈没
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形、密閉式艦橋による居住性改善、重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)により、当時の列強海軍に衝撃を与えた。白雲は藤永田造船所で建造され、「叢雲」「東雲」「薄雲」と共に、艦名に「雲」を含む4隻——通称「雲級」を構成した。竣工当初は「第四十二号駆逐艦」と呼ばれていたが、1928年8月1日に「白雲」と改称された。日本海軍の艦船としては白雲型駆逐艦(初代)「白雲」に続いて2隻目にあたる。
白雲は1926年10月27日、藤永田造船所で起工した。1928年7月28日に竣工し、「叢雲」「東雲」「薄雲」と共に第12駆逐隊を編制する。日中戦争では北部仏印進駐などに参加し、太平洋戦争開戦時には第三水雷戦隊麾下の第12駆逐隊に所属していた。
1935年9月26日の第四艦隊事件では、多くの艦船が大小さまざまな被害を受ける中、白雲も魚雷格納庫を軽度に損傷し、船体そのものにも歪みが生じている。姉妹艦「初雪」「夕霧」の艦首切断ほどの大破には至らなかったが、艦体強度問題は白雪型全体に共通する課題として浮かび上がっていた。
太平洋戦争開戦時、第12駆逐隊は機雷で損傷し戦列を離れていた「薄雲」を除く3隻(叢雲・東雲・白雲)でマレー作戦に参加した。12月17日、ボルネオ・ミリ攻略中に「東雲」が飛行艇の爆撃を受けて沈没(推定)したと伝えられている。
3月10日、東雲を喪失して2隻編制になっていた第12駆逐隊が解隊され、白雲は第20駆逐隊(朝霧・夕霧・天霧)に編入された。第20駆逐隊はベンガル湾機動作戦、ミッドウェー作戦に従事し、7月中旬以降はインド洋方面通商破壊作戦「B作戦」に従事した。だが8月7日のガダルカナル島の戦い開始により、この作戦は中止される。
8月26日夜、第20駆逐隊4隻(天霧・夕霧・朝霧・白雲)は歩兵第124連隊第2大隊600名を分乗させ、ガダルカナル島へ向かう。だが飛行艇に発見されて輸送を中断、燃料欠乏を避けるためいったん洋上待機し、28日に第24駆逐隊と合流する計画を取った。合流地点を目指す途中、恐れていた爆撃機が来襲する。「白雲」は至近弾を受けて機関室の浸水が酷くなり航行不能、「夕霧」も複数の至近弾で機関室・艦橋を損傷。そして「朝霧」は2発の直撃弾を受け、魚雷発射管の誘爆により轟沈した。無傷だったのは天霧だけだった。
10月1日、第20駆逐隊は解隊され、白雲と夕霧は共に呉鎮守府警備駆逐艦となり、修理のため日本に戻ることになった。10月7日、軽巡「神通」と共に入泊し、翌8日に呉軍港へ到着。白雲の修理は呉海軍工廠と藤永田造船所で行われた。当時、藤永田造船所では夕雲型駆逐艦「大波」を建造中で、白雲駆逐艦長・平山敏夫少佐は11月15日から大波艤装員長も兼務することになった。
12月20日、吉川潔中佐(白露型「夕立」が第三次ソロモン海戦で活躍・沈没した時の駆逐艦長)が大波艤装員長に任命され、平山少佐は兼務を解かれた。1943年3月に修理を終えた白雲は、4月1日付で「薄雲」「朝雲」と共に第9駆逐隊(第五艦隊隷下・第一水雷戦隊)を編成し、北方部隊に配置される。6月6日深夜には、米潜水艦制圧のための出撃中、視界不良の中で駆逐艦「沼風」と衝突し艦首部を損傷するという事故にも遭っている。
修理を終えた白雲は、千島列島方面を含む北方海域での船団護衛・輸送任務に従事するようになった。1944年1月22日、平山少佐が秋霜艤装員長として転出し、元砲艦「隅田」艦長の橋本正雄少佐が新たな艦長に着任する。だが1944年3月16日、第9駆逐隊として陸軍輸送船4隻を護衛中、釧路沖(資料によっては襟裳岬沖)の太平洋で米海軍潜水艦「トートグ」の雷撃を受ける。橋本正雄艦長以下、全乗組員が戦死した。マレー作戦からガダルカナル輸送、北方護衛と転戦を続けた末の最期は、太平洋の華々しい海戦ではなく、日本近海での潜水艦戦という、戦争後期に拡大した脅威によるものだった。同年3月31日、白雲は除籍され、第9駆逐隊は第18駆逐隊に改編された。
最期もまた、太平洋の激しい海戦ではなく、北海道近海での潜水艦による静かな一撃だった。名前の混同、地味な輸送任務、目立たない最期——白雲の艦歴は、戦争の記録の中でどうしても見過ごされがちな艦の典型のように見える。
だが、見過ごされがちであることと、戦わなかったことは違う。マレー作戦からガダルカナル、北方海域まで、白雲は確かに前線に立ち続けた艦だった。記録に残る名前の取り違えそのものが、この艦が実在し、戦い続けていたことの証でもある。
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・歴史群像編集部編『水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦』第19巻、学習研究社、1998年
- ・雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集16 駆逐艦 吹雪型[特型]』光人社、1997年
- ・雑誌「丸」編集部『写真 太平洋戦争<第三巻>』光人社、1995年
- ・森史郎『空母瑞鶴戦史[ソロモン攻防篇]』潮書房光人社、2018年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「白雲 (吹雪型駆逐艦)」
1929年竣工、吹雪型(特型)駆逐艦3番艦。「吹雪」「白雪」「深雪」と第11駆逐隊を編制。サボ島沖海戦では被弾しながら重巡「古鷹」生存者513名を救助、ビスマルク海海戦後にも輸送船団生存者の多くを救助した。1943年7月、ブインでの大空襲を受け浸水沈没した。
9射線
| 艦名 | 初雪(はつゆき) |
| 艦型・番艦 | 吹雪型(特型)駆逐艦 3番艦(雪級3番艦、吹雪・白雪沈没後は初雪型駆逐艦ネームシップ) |
| 艦名の由来 | 神風型駆逐艦(初代)「初雪」に続き2隻目 |
| 仮称艦名 | 第三十七号駆逐艦 |
| 建造所 | 舞鶴工作部 |
| 起工日 | 1927年(昭和2年)4月12日 |
| 進水日 | 1928年(昭和3年)9月29日 |
| 竣工日 | 1929年(昭和4年)3月30日(改称1928年8月1日) |
| 除籍日 | 1943年(昭和18年)10月15日 |
| 類別 | 一等駆逐艦 |
| 全長 | 113.2m(艦船要目公表値、雪級標準値) |
| 全幅 | 10.3m(艦船要目公表値、雪級標準値) |
| 吃水 | 2.97m(平均吃水、雪級標準値) |
| 機関 | 艦本式タービン2基2軸、艦本式重油専焼缶4基、出力50,000馬力(特I型標準値) |
| 速力 | 34.0kt(艦船要目公表値、計画38.0kt) |
| 航続距離 | 4,500海里/14kt(特I型標準値) |
| 乗員 | 約219〜226名(特I型標準値) |
| 主砲 | 12.7cm砲:6門(A型、仰角40度、連装3基) |
| 魚雷発射管 | 61cm3連装水上発射管:3基(計9射線) |
| 所属駆逐隊履歴 | 第11駆逐隊(吹雪・白雪・初雪・深雪、1929年)→3隻編制(深雪喪失後、1934年)→4隻編制(叢雲編入、1942年3月)→4隻編制(天霧・夕霧編入、1943年2月) |
| 主要艦長履歴 | 石橋三郎中佐/福原一郎中佐/河原金之輔中佐/(兼)直塚八郎中佐/(兼)金桝義夫少佐/(兼)中原達平中佐/山口次平中佐/久宗米次郎中佐/(兼)杉本道雄中佐/有田貢少佐/(兼)小川莚喜少佐/島居威美少佐/広瀬貞年中佐/一門善記少佐/山隈和喜人中佐/岩橋透少佐/神浦純也少佐(1941年8月20日〜)/山口達也少佐(1942年5月12日〜)/杉原与四郎少佐(1943年5月30日〜戦没時) |
| 特記事項① | 1935年9月、第四艦隊事件で姉妹艦夕霧の救援中に自らも艦首切断(行方不明24名) |
| 特記事項② | 1942年10月11日、サボ島沖海戦で被弾しながら重巡「古鷹」生存者513名を救助 |
| 特記事項③ | 1943年3月、ビスマルク海海戦後の救援で輸送船団生存者2700名のうち多数を救助・ラバウルへ送還 |
| 特記事項④ | 吹雪・白雪沈没後、『初雪型駆逐艦』のネームシップとなる(1943年4月1日改定) |
| 最終結末 | 1943年7月17日朝、ブインで大型爆撃機19機・戦爆約150機の大空襲を受ける。至近弾多数・艦橋後部被弾、浸水により水平状態で沈没(浅い水深のためマストは海面上に残った) |
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形、密閉式艦橋による居住性改善、重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)により、当時の列強海軍に衝撃を与えた。初雪は吹雪・白雪・深雪と共に「雪級」(初期建造艦)を構成し、後に吹雪・白雪の沈没によって『初雪型駆逐艦』のネームシップとなった。
- 演習中、駆逐艦「電」との衝突事故により深雪が沈没。第11駆逐隊は3隻編制となる。
- 三陸沖演習中、台風により「夕霧」が艦首切断(行方不明27名)。救援に向かった初雪自身も艦首切断、行方不明24名。
- 初雪は「薄雲」護衛の下、重巡「羽黒」に曳航され大湊へ向かう(夕霧は天霧護衛の下、大井に曳航)。
- 編制変更で吹雪が第11駆逐隊に復帰。上海上陸、杭州湾上陸、北部仏印進駐作戦に参加。
- 有賀幸作中佐(後の戦艦大和最後の艦長)着任。第二航空戦隊(蒼龍・飛龍)編制。1940年8月、飛龍・初雪・白雪が北部仏印進駐に投入される。
- 南方侵攻作戦、蘭印作戦の一環として参加。3月10日、叢雲が第11駆逐隊に編入、4隻体制に増強。
- ベンガル湾機動作戦、ミッドウェー海戦(連合艦隊主力部隊護衛)、インド洋方面通商破壊作戦(B作戦)に参加。8月7日のガダルカナル島の戦い開始でB作戦中止。
- 初雪は綾波と交代する形で挺身輸送隊(ショートランド〜ニュージョージア経由の蟻輸送)に編入。ニュージョージア島周辺の基地調査、天霧と共に大発動艇曳航・物資輸送に従事。
- 第六戦隊(青葉・古鷹・衣笠)と第11駆逐隊第2小隊(初雪・吹雪)がヘンダーソン飛行場砲撃に出撃、米艦隊の奇襲を受ける。
- 五藤司令官戦死、吹雪轟沈、古鷹航行不能、青葉大破。初雪は衣笠と行動を共にして砲撃、前部水線上に被弾し最大速力24ノットに低下。
- 衣笠の下令で航行不能の古鷹救援に向かい、傾斜のため横付けできず沈没後に救助作業開始。古鷹生存者513名(准士官以上33名、下士官兵傭人480名)を救助、短艇・円材を残し離脱。
- 同日付で『吹雪型駆逐艦』は『白雪型駆逐艦』に改定。
- 11月2日、第三水雷戦隊(衣笠・川内・天霧・初雪)として輸送作戦を支援。初雪・望月によるガ島基地撤収作戦を11月5日に完了。
- 近藤信竹第二艦隊司令長官指揮下、直衛隊(長良・五月雨・電・白雪・初雪)として米戦艦ワシントン・サウスダコタ、駆逐艦4隻と交戦。
- 日本側は戦艦霧島・駆逐艦綾波を喪失、米駆逐艦3隻(ウォーク・ベンハム・プレストン)を撃沈。
- 雪風と共に空母「飛鷹」を護衛して内地帰投。1943年1月、丙一号輸送(釜山〜ウェワク)に参加。2月、ガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)で空母隼鷹・瑞鳳の直衛を担当。
- 第三水雷戦隊(秋山輝男少将)のレンドバ島突入・米軍輸送船団撃退命令に従い先行隊として進出するが会敵せず。
- 7月2日、突撃隊として米軍上陸部隊砲撃に向かうが米軍魚雷艇と交戦、2隻撃沈してブインへ引き揚げ。
- コロンバンガラ島全力輸送作戦のため出撃、米艦隊(軽巡3・駆逐艦4)と交戦。「新月」「長月」沈没、新月と共に秋山少将以下第三水雷戦隊司令部が全滅。
- 初雪も砲撃戦を行い不発弾2発を受けたが沈没を免れた。輸送物件の約半分(陸兵1,600名・物資90トン)を揚陸成功。損傷した初雪・望月はラバウルへ後退し応急修理。
- 新司令官着任までの数日間、有賀幸作大佐(かつての第11駆逐隊司令)が増援部隊指揮官を代行。
- 新司令官・伊集院松治大佐着任。初雪(第11駆逐隊司令山代大佐座乗)・望月は西村艦隊に先行して16日夕刻ラバウル出撃、17日午前5時ブイン入港。初雪は水無月に横付けして物件・重油移載中だった。
- ブインは大型爆撃機19機・戦爆約150機の大空襲を受ける。
- 至近弾多数と艦橋後部附近への被弾を受けた初雪は、浸水により水平状態で沈没(浅い水深のためマストは海面上に残った)。
- 僚艦「皐月」「水無月」も小破、翌日には「望月」も小破。
- ネームシップである初雪自身の沈没後も、『初雪型駆逐艦』という名称は改定されずにそのまま用いられ続けた。
しかし、その救助の精神は艦自身の安全を保証するものではなかった。クラ湾夜戦という激戦をくぐり抜けた直後、1943年7月17日、初雪はブインでの大規模な空襲を受け、浸水によって静かに沈んでいった。劇的な撃沈劇ではなく、制空権を失った戦場で停泊中の艦が力尽きていく現実を、この最期は映している。
初雪が残したものは、513名、2700名のうちの多数という、この艦が救った命の総数そのものである。
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被弾しながらも仲間を救い続けた吹雪型3番艦——初雪の物語を、その身に纏う。
「自らも傷つきながら、誰かを救う——初雪、513名を救った駆逐艦」
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』
- ・宇垣纏『戦藻録』原書房、1968年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・深井俊之助『私はその場に居た 戦艦「大和」副砲長が語る真実』宝島社、2016年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「初雪 (吹雪型駆逐艦)」
1942年10月11日深夜、サボ島沖。重巡「青葉」の被弾により五藤司令官が致命傷を負い、僚艦「吹雪」が轟沈、「古鷹」が航行不能となる中、駆逐艦「初雪」は重巡「衣笠」と行動を共にして米艦隊に砲撃を加えていた。前部水線上に被弾し、最大速力は24ノットに低下する。だが初雪はそこで戦場を離れなかった。航行不能の「古鷹」の救援に向かい、沈没後の海上から生存者513名を救助した。
吹雪型駆逐艦3番艦・初雪は、「吹雪」「白雪」「深雪」と共に第11駆逐隊を編制し、太平洋戦争のほぼ全期間にわたって最前線で戦い続けた艦である。エンドウ沖海戦、蘭印作戦、バタビア沖海戦、そしてガダルカナル方面での輸送任務——その艦歴は、激しい戦闘と、地味だが命がけの救助活動の両方で構成されている。
そして——初雪のその救助の精神は、最後まで変わらなかった。1943年3月のビスマルク海海戦後には、輸送船団の生存者2700名のうちの多くを自艦に移乗させてラバウルへ送り届けている。だが、その4ヵ月後、初雪自身が空襲の前に力尽きる日が来る。
1927年4月12日
1929年3月30日 竣工
34.0kt
(雪級3番艦・初雪型ネームシップ)
3基6門
9射線
513名を救助
ブイン大空襲で被弾、浸水沈没
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦保有制限の中、補助艦艇の戦力強化を目的に建造された一等駆逐艦。凌波性能を追求した船形、密閉式艦橋による居住性改善、重武装(12.7cm連装砲3基、61cm魚雷9射線)により、当時の列強海軍に衝撃を与えた。初雪は舞鶴工作部で建造され、吹雪・白雪・深雪と共に初期建造艦「雪級」を構成した。竣工当初は「第三十七号駆逐艦」と呼ばれていたが、1928年8月1日に「初雪」と改称された。日本海軍の艦船としては神風型駆逐艦(初代)「初雪」に続いて2隻目にあたる。ネームシップ「吹雪」「白雪」の沈没後は、『初雪型駆逐艦』の1番艦となった。
初雪は1927年4月12日、舞鶴工作部で起工した。1928年9月29日に進水し、1929年3月30日に竣工。呉鎮守府所属、第二艦隊・第二水雷戦隊・第11駆逐隊に編入された。1931年、吹雪が第11駆逐隊から除籍されて第20駆逐隊が新編されると、初雪は白雪・深雪と共に残留する。1934年、深雪が演習中の衝突事故で喪失し、第11駆逐隊は3隻編制となった。
1935年9月26日、三陸沖で演習中の連合艦隊が台風に遭遇した。荒天により駆逐艦「夕霧」が艦首切断(行方不明27名)。その救援に向かった初雪自身も艦首切断により行方不明者24名を出すことになった。夜が明けたのち、初雪は「薄雲」護衛の下で重巡「羽黒」に曳航され大湊へ向かった。前日には「初雪ノ溺者ニ鑑ミ人ヲ落サザル様一層厳重ナル注意ヲナセ」という戒めが旗艦から発せられていたが、その翌日に台風が艦そのものを傷つけることになった。
1936年末の編制変更で、第20駆逐隊が解隊され吹雪が第11駆逐隊に復帰。日中戦争では上海上陸、杭州湾上陸、北部仏印進駐作戦に参加した。1939年、有賀幸作中佐(後の戦艦大和最後の艦長)が第11駆逐隊司令に着任し、空母「蒼龍」「飛龍」と第二航空戦隊を編制している。
3月10日、東雲を喪失して2隻編制になっていた第12駆逐隊が廃止され、叢雲が第11駆逐隊に編入。開戦時以来3隻体制だった第11駆逐隊は4隻に増強された。その後もベンガル湾機動作戦、ミッドウェー海戦(連合艦隊主力部隊護衛)、インド洋方面通商破壊作戦に参加。8月7日のガダルカナル島の戦い開始によりインド洋作戦は中止され、第11駆逐隊もソロモン方面へ移動することになる。
8月31日〜9月1日、第24駆逐隊・第11駆逐隊(初雪・白雪・吹雪)は川口支隊1200名をガダルカナル島へ揚陸した。9月4日、夕立駆逐艦長・吉川潔中佐指揮のもと「夕立、初雪、叢雲」はルンガ泊地に突入し、米駆逐艦「グレゴリー」「リトル」を撃沈。宇垣纏連合艦隊参謀長は陣中日誌でこの行動を絶賛している。10月1日には陸軍青葉支隊司令部の輸送中、初雪は舵故障を起こし単艦でショートランド泊地へ戻った。「白雪、吹雪、叢雲」による輸送は成功した。
その後、初雪は駆逐艦「綾波」と交代する形で挺身輸送隊(ショートランド〜ニュージョージア経由のガ島輸送、通称「蟻輸送」)に編入され、ニュージョージア島周辺の基地調査も担った。また駆逐艦「天霧」と共に大発動艇の曳航や物資輸送に従事している。
この戦闘で日本側は重巡2隻・駆逐艦1隻撃沈、巡洋艦1隻大破と報告したが、実際の米側損害は駆逐艦「ダンカン」沈没、軽巡「ボイシ」大破、重巡「ソルトレイクシティー」小破などだった。ネームシップ「吹雪」の喪失により、『吹雪型駆逐艦』は同日付で『白雪型駆逐艦』に改定される。11月2日には旗艦変更後の第三水雷戦隊(衣笠・川内・天霧・初雪)として輸送作戦を支援。11月5日には初雪・望月によるガ島基地撤収作戦を完了させている。
11月中旬、初雪は近藤信竹第二艦隊司令長官の指揮下、第三次ソロモン海戦第二夜戦に参加する。直衛隊(長良・五月雨・電・白雪・初雪)の一艦として米戦艦ワシントン・サウスダコタ、駆逐艦4隻と交戦。日本側は戦艦霧島・駆逐艦綾波を喪失したが、米駆逐艦3隻(ウォーク・ベンハム・プレストン)を沈没させている。12月上旬、初雪は雪風と共に空母「飛鷹」を護衛して内地へ帰投した。
1943年2月25日、第11駆逐隊は天霧・夕霧の編入で4隻(初雪・白雪・天霧・夕霧)となるが、3月3日のビスマルク海海戦で白雪・朝潮・荒潮・時津風と輸送船8隻がダンピール海峡で沈没する。この惨敗を受け、初雪は救援に赴き「敷波、浦波、雪風、朝雲」と合流。各艦に燃料を補給し、生存者2700名のうち初雪・浦波に移乗させた者をラバウルへ送り届けた(3日16時50分現場発、4日10時15分着)。「敷波、雪風、朝雲」は再び戦闘海域に戻って遭難者を救助し、3月5日朝にラバウルへ戻っている。4月1日、白雪喪失により『白雪型駆逐艦』は『初雪型駆逐艦』に改定され、初雪はそのネームシップとなった。
6月30日、米軍がニュージョージア島ムンダ飛行場対岸のレンドバ島に上陸し、ニュージョージア島の戦いが始まる。第三水雷戦隊(秋山輝男少将)はレンドバ島突入を命じられ、初雪も先行隊として進出するが会敵せず。7月2日、突撃隊として米軍上陸部隊砲撃に向かうが米軍魚雷艇と交戦、2隻を撃沈してブインへ引き揚げた。
7月5日夕刻、コロンバンガラ島への全力輸送作戦のため、秋山少将率いる支援隊・第一次輸送隊・第二次輸送隊(初雪・天霧ら)がそれぞれ出撃。米艦隊(軽巡3・駆逐艦4)と交戦し、「新月」「長月」が沈没、新月と共に秋山少将以下第三水雷戦隊司令部が全滅した。初雪も砲撃戦を行い、不発弾2発を受けたが沈没を免れた。輸送物件の約半分(陸兵1,600名・物資90トン)は揚陸に成功した。損傷した初雪・望月はラバウルへ後退し応急修理を実施。新司令官着任までの数日間、有賀幸作大佐(かつての第11駆逐隊司令)が増援部隊指揮官を代行した。
新司令官・伊集院松治大佐が着任すると、第七戦隊司令官・西村祥治少将を指揮官とする部隊が編成され、初雪・望月は先行してブインへ入港。重油・物件の移載作業中の7月17日朝、ブインは大型爆撃機19機・戦爆約150機の大空襲を受ける。
浅い水深のためマストは海面上に出ていた
至近弾多数と艦橋後部への被弾を受けた初雪は、浸水によって水平状態のまま沈没した。
——1943年7月17日、ブイン大空襲にて。第11駆逐隊司令・山代大佐の回想として伝わる。
「初雪《第11駆逐隊司令山代大佐座乗》、望月」は西村艦隊に先行して16日夕刻にラバウルを出撃、17日午前5時にブインへ入港し、初雪は「水無月」に横付けして物件・重油の移載をおこなっていた。その最中、ブインは大型爆撃機19機・戦爆約150機の波状空襲を受ける。至近弾多数と艦橋後部附近への被弾を受けた初雪は、浸水により水平状態で沈没した。僚艦「皐月」「水無月」も小破、翌日には「望月」も小破している。
10月15日、初雪は初雪型駆逐艦・第11駆逐隊・帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。ネームシップである初雪自身の沈没後も、『初雪型駆逐艦』という名称は改定されずにそのまま用いられ続けた。
しかし、その救助の精神も、艦自身の安全を保証するものではなかった。第四艦隊事件では僚艦救援中に自らも艦首切断という被害を受け、最後はブインでの大規模な空襲を前に、浸水によって静かに沈んでいった。クラ湾夜戦という激戦をくぐり抜けた直後の最期は、決して劇的な撃沈劇ではなく、停泊中の艦が制空権を失った戦場で力尽きていく現実を映している。
初雪が残したものは、戦果の記録だけではない。513名、2700名のうちの多くという、この艦が救った命の総数こそが、戦争という記録の中で見過ごされがちな価値を物語っている。
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被弾しながらも仲間を救い続けた吹雪型3番艦——初雪の物語を、その身に纏う。
「自らも傷つきながら、誰かを救う——初雪、513名を救った駆逐艦」
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■ 参考文献・資料
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書83『南東方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書96『南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
- ・防衛省防衛研究所 戦史叢書『中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』
- ・宇垣纏『戦藻録』原書房、1968年
- ・外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年
- ・木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- ・深井俊之助『私はその場に居た 戦艦「大和」副砲長が語る真実』宝島社、2016年
- ・アジア歴史資料センター(JACAR)各艦公文備考・海軍辞令公報
- ・Wikipedia「初雪 (吹雪型駆逐艦)」